あなたが大切
メイとは、私がフィッツロイに引き取られてすぐからの付き合いだ。
馬車でがたごと城まで運ばれ、薄汚れた孤児を多少でも見られる格好にしてやってくれと引き渡されたのが始まり。
そこからあれよあれよという間に私付きのメイドに任命された彼女は、本当にこんな私に仕えているのが勿体ないほど有能だ。
いつでも冷静、スーパー無表情。狼狽えた姿なんて見たことあったかな。
そして、引き取られてからの私のことを私以上に知っている人物でもある。
蛇と一戦交えて部屋へ戻り、水桶の存在に震え上がった夜が明けた。
朝になったらメイになんて切り出そう、なんて悶々としながら眠れぬ夜を過ごしていたはずがいつの間にやら寝こけていて、しかも寝過ごすという大失態である。
メイに声を掛けられて目が覚め、計画と違う!とあわあわしているうちに朝食が部屋に用意され、促されるままむしゃむしゃと食べ、そして風呂に放り込まれた。
それまでの間メイとは碌な会話をしていない。いや、いつものことなんだけど。
でもそう、昨夜の事とかを問い質されると思っていたのだけれど、メイからそのことについて触れてくることはなかった。
でも浴室では腕やら足やらを手に取って、丹念にチェックしている。
ブーツの縁が擦れてできた脹脛の小さな傷に息を呑み、蹴り続けたせいでできた足の爪の割れを見た時は崩れ落ちていた。
食事の時に食べづらそうにしていたのも気付かれていたみたいで、舌先の噛み傷もちゃんと見つかっていた。
こんなの怪我のうちにも入らないよ、と言おうとしてやめた。やめておけ、と警鐘が鳴ったから。
「…お風呂から出られましたら温めたミルクをお持ちしますから、それを飲んで少しお休みください。酷い顔色です」
自覚がないから驚いた。体調は悪くない。
「…そう?」
「はい。なんだかこのまま透き通ってしまいそうな…いえ、褒め言葉ではなく」
比喩じゃないってこと?
ああ、ちょっと精霊側に寄ったのかもしれない。
引き取られてから自重していたけれど、その反動かな。別に消えて無くなるわけじゃない。
「…じきに坊ちゃん達も帰ってくるのでしょう?その時にはどうかお健やかな姿でお迎えして差し上げてください」
「そうね、気をつけるわ」
………………うん?
頷きながらもメイの言葉に引っ掛かりを覚え、恐る恐る顔を上げる。
「なにか?」
「…ううん…」
フレドリック様の帰還の予定を私に確認するって、それどういう意味?と聞き返せる勇気なんかない。
そろっと視線を外すと、水気を拭うための布を広げたメイが小さく息を吐くのが聞こえた。
「お嬢様」
「ハイ」
思わず姿勢を正す。
それを見たメイは片方の眉をちょっと上げた。
「…全幅の信頼をいただきたいとは申しません。お嬢様は少し特別なお生まれ、何やら守るべき秘密があるのであろうことも察しております。それを知りたいわけではないのです」
「…ハイ」
お湯から足を抜き、布に包まれた。ぽんぽんと優しく叩かれているのは肌の水気を吸うためか、それとも強張った身体を宥めるためか。
布越しのメイの声はいつもよりも穏やかに聞こえた。
「お嬢様がご自身をどういう存在と捉えていようと、あなたはフィッツロイ家の一の姫君。私にとってかけがえのない主人であり、宝物です」
少し低い落ち着いた声が響く。
「あなたにはまだ少し難しいかもしれません。でもどうか御心に留め置いてください。あなたが怪我をしたらどんなにそれが小さなものでも私の心は痛みます。あなたが想いを翳らせることのない日々を強く望みます。私はあなたが大切です、お嬢様」
埒外の言葉に思わず目が丸くなった。
あなたが大切だと、そう伝えてくれるその心。
私は最近になって似た気持ちを味わったことがある。
それは、フレドリック様やアルバート様に対してそわそわしたり、痛くなったりした気持ちと一緒?
この気持ちはひどく疲れるし、忙しないし、なんとも大変だと思ったのだけど、それをメイは私に抱いてくれているの?
私は人ではないのに。
外れ籤のような得体の知れない養い子だというのに。
「あなたの心に浸透するまで何度でもお伝えします、あなたが大切なのです。あなたは心のままに振る舞って良いのです。それを妨げたりは致しません。でも、同じくらいあなたのことが心配です。痛い思い、苦しい思いをしなくて済むよう、目に見える障害は排除したい、お手伝いできることはしたいのです」
ああ、とため息が溢れた。
確かに彼女はずっと私の意向を聞く姿勢をとってくれていた。私の言葉にしない思いを叶えるために、ありとあらゆる手を尽くしてくれていた。
たぶん最初から。
母に似て唯一好きだった私の髪を、大切に大切に手入れしてくれた時から。
込み上げてくる何かを堪えていたらうまく声が出なかった。
尚も優しく私を抱きしめ背中を叩くメイの肩に手を添えた。
「…もしかして、心配した?私がいなくなって」
「ええ、とても」
ごめんなさい、と嗄れた声で謝ると、返事の代わりに再びぽんぽんと背中を叩かれた。
「何かあったのだろうと思いました。失礼ながら、魔石を私に下賜された頃に比べたらお嬢様はきちんと物事を考えて動かれるようになられましたから。きっと怪我なく、朝までにはお帰りになる心算なのだろうと…あれほど長い夜もありませんでしたが」
「スイマセン」
ヒュッと謝れば、くすりと笑われた。布で顔は見えなかったが珍しいことだ。
「許して差し上げたいところですが、残念ながら無傷とは言えませんでしたね」
「え…あんな擦れた跡でも?」
「あんなじゃありません。爪は割れただけでなく内側から大分出血しておりました。黒くなっていたでしょう。何をしたらああなるのか…もしやとは思いますが、衣服を汚さなければ良いなどという雑な考えをお持ちだとしたら即刻お捨てになってください」
ああ、メイの声がどんどん冷え込んでいく。
「脹脛の傷も、靴をちゃんと履かなかったでしょう?だからずれて擦れるのです。…でもこれは、履き方をお教えしなかった私の責任でもありますが」
「ええと、履き方を教えて、と言ったら教えてくれる?」
「またお一人でお散歩に行かれるおつもりですか?構いませんが、次は行き先と目的をきちんとご相談ください」
意外な言葉だった。メイは動きを止めた私からそっと布をとり、柔かな寝衣を再び着せた。
「でも、それもこれも傷が全て癒えるまでお預けです。先ほども申しましたが、今にも透き通ってしまいそうな顔色です。さあ、ミルクを用意致しましょう」
部屋に戻れば、いつの間にやらワゴンの上にポットとカップが。
蜂蜜をたっぷり溶かしたミルクを両手で抱えて一口、二口含むと体が内側からぽかぽかしてくる。
メイは私の髪に香油を馴染ませながら顔を覗き込んだ。
「少し頬の赤みが戻りましたね。安心致しました」
「病気じゃないわ。…体質、というか」
前に比べたら距離が近くなった気がするけれど、精霊のことを自分から口にする気はどうしてもなれなくて濁す。
けれどメイは気にした様子もなく左様ですか、と頷いた。
「本当に体調は悪くないのですか」
「ええ、全然。ただ、ガーデンルームに行くのは落ち着くまで控えます」
精霊側に引っ張られた私が側にいたら、超常現象が頻発しそうだ。ガーデンルームを古森の奥のようにする気はない。
「承知しました。部屋の花も片付けましょうか」
「…うん。お願い」
そしてガーデンルームの話題から部屋の花まで意識できるメイの有能さよ。
なんか隠していることも実は色々バレてるんじゃないかと改めて心配になるのですが。
なんて呑気にホットミルクを啜っていたその日の夜から数日間、私は見事に熱を出しメイを大いに慌てさせることになる。
あれぇー?と寝台の中で首を捻る私に、メイはとうとう「お嬢様の大丈夫は当てにしません」と言い切った。
冷たい目となったメイに、寝衣のまま外に飛び出たことを白状させられ、こってりと叱られることになったのだった。




