疾走
覚醒した瞬間、跳ね起きた。
辺りは真っ暗で静まり返っている。
起き抜けだけど頭は冴えていた。呼吸を軽く整えると寝台から降りて素足のまま冷えた室内を歩く。
夜目はきく方だから灯りの消された部屋も如何ということはない、そのまま続きとなっている衣装部屋を探る。
物音は最小限に、寝室の隣の部屋にはメイがいる。
目当ての森歩きに使ったブーツを見つけ、そっと抱えて寝室へ戻った。
机に置きっ放しだった月葉草のクリームを詰めたケースを手巾で包み、手荷物にならぬよう首に巻き付けておく。
持ち出しは以上だ。
武器になるものがないけれど、部屋の刃物はメイの目が行き届きすぎている。最も管理が厳しいものの一つ、使ったら秒でバレるから除外である。
文桐草を漬け込んだ蒸留酒もいい感じに出来上がっていたから、本音を言えばちゃんと薬として調合し持っていきたかったなぁ。
いやそれを言うならばせめて寝衣から着替えるべきか。
でもさすがにガーデンルームで作業を始めたら誰かに、その筆頭は勿論メイだけれど、気付かれるかもしれないし、今私に与えられている衣服のうち私一人で着替えられるものはひとつとしてないのだからしようがない。
もっと日頃から準備を万端にすべきだったなと今更反省する。
そうっと寝室の窓を開けた。
流石公爵家の本城、蝶番が軋むことなく静かに開く。
まずは顔だけ出して冷たい外の空気を吸い込んだ。
目を閉じて周囲の視線を探る。大丈夫、こちらを気にしているものはいない。
ぐっと窓枠に足をかけて登ると、ブーツを抱いて一気に窓枠を蹴り上げた。
視界いっぱいの星空だ。
久しぶりの解放感に、背中に羽根が生えたかのようだった。
私の高揚に周りの下位精霊たちも応えてくれる。重力という自然の法則を無視して、二階の窓から飛び出した私を彼らが目的地まで運んでくれる。
ああ、お嬢様生活で完全に鈍っている。蹴りが弱かった。
中庭を飛び越え正門方向へ。
聳え立つ壁を目の前にして、高度が足りなくて途中にあった離れの屋根に一時着地する。
流石にこの辺りは煌々と火が焚かれ、要所には不寝番が立っていた。
身を隠しながら屋根を進む。あまり近付くと気付かれてしまうかもしれない。再び屋根を蹴り上げ、城を囲む城壁をその倍くらいの高度で飛び越した。
きんと冷たい空気が寝衣の下の肌を刺す、その痛みに似た感覚すらも心地いい。
眼下の建造物を眺める。
監禁されていた訳ではないけれど、閉じ籠もりが推奨されていることは確かだ。
時間と場所、事情が許したら歓声をあげていた。それくらい気持ちは昂っている。
こらこら目的を思い出せ、と自分の右頬を張ると城壁から大分離れたところで広めの山道に降り立った。
目を閉じて城へ向け耳をそばだてる。
騒ぎなし。気付かれずに抜け出すことができたようだ。
目覚めてここまで体感では十分程度、多少のリスクに目を瞑ったスピード重視の脱出行である。
見つかった時のことは正直考えていなかったので上手くいって良かった。
ここで漸くブーツを履き込んだ。
皆が寝静まった深夜、山道に裸足で佇む薄着の少女、か。世が世なら真夏に一服の涼を供するようなビジュアルである。
それとも今のご時世では山賊の根城から逃げてきた説が濃厚だろうか。
そんな益体もないことをつらつらと考えながら靴紐を手に取ったが、締め方がよく分からなくて靴紐をとりあえずぐるぐると巻き付けておく。
地面に踵を打ち付けて確認してみるも、メイに履かせてもらったあの時のほうが安定感があった気がする。今度、ちゃんと履き方を教えてもらおう。
首からクリームを外し唇に塗ったら準備オーケーだ。
ぐっと体を伸ばすと、内なる騒めきに従って前を向いた。
領道も獣道もはたまた道なき道も気にせずに文字通りかっ飛んで行った。
下位精霊の力を借り、時たま地を蹴って加速する。
ピクニックでは馬車を使い、乗り心地重視の安全運転仕様だったせいもあって大層遠出した気になっていたけれど、迂回もせずにひたすら直線距離で向かってみれば大した距離じゃないのが分かる。
なんて、運動不足の身には堪えるけども。
道中、気を遣った草木たちがそっと道を開けてくれるからまだ気楽な方だ。繊細な手触りの寝衣を汚さずに済んでいるし。
ありがとね、と後ろ手を振って加護をばら撒いた。チップみたいなものである。
そうやってびゅんびゅんと景色が流れていくのを視界の端に捉えながら一息に目的地を目指した。
麓の泉までもう少しといった辺りで、ちりっとした違和感を感じて足を止めた。
渦巻く緑の気のなか、様々な獣の臭いと微かな血臭に混じって場違いに濃い魔力の残滓が鼻を掠める。
魔獣の気配自体は薄いが、気を抜ける訳ではない。
蛇は元来臆病な生き物だ。その臆病故の慎重さ、知性の高さを魔力によって狡猾と言われるまでに進化させた魔蛇は、どれだけ巨大であろうとも姿を影に隠し獲物を狙う傾向がある。
身を隠しながら少し進めば、草木が軌跡を描くように薙ぎ倒されていた。地面には何か大きなものを引き摺ったような痕がある。間違いなく、あいつがここを通ったのだろう。
倒された草木の幅を目を細めて確認する。
これを見る限り子供どころか大人の二、三人を軽く一呑みできそうな大きさだ。
…どうしようかな。
想定より余程大きい。こういうのは、ある一定以上大きかったらもう変わりがない、とかそんな訳がない。
強いやつが押し並べて体が大きいとは限らないけれど、体が大きいやつは強い、これに間違いはないのだ。
そして魔蛇に関して言えば、ここまで体が大きくなるまで脱皮を繰り返した個体は確実に知恵が回る。
当方、丸腰である。
少しばかりの創意工夫は必要と覚悟していたが、これは長期戦になりそうだと顎を指で叩いた。
えー、やだなあ。でもやるしかないか。
とりあえずその辺を探って丁度良い感じの枝を拾う。
それから丈夫そうな蔦も。毒でもあるのか余程渋いのか、こんな季節でも誰にも食べられないままの橙の実も摘んでおく。
蛇の皮に太刀打ちできるかは分からないがないよりマシだろう。
素振りをした後、薙ぎ倒された草木の痕を追うようにして進んだ。
暫く歩くと少し開けた場所に出た。引き摺った痕もここで消えている。
甘い血の匂いに、中央にぽつんと置き去りにされているそれを見つけて目を見張った。
野兎、それもまだ生きている。
力なく投げ出された手足の下が黒く濡れている。
毒の匂いはない。ぴくぴくと痙攣しているのは、単純に傷の深さに依るものだろう。
多少警戒心のある獣でも喰いつかずにはいられない、魅力的な落としもの。人間であっても余りの不自然さに近付いて確認くらいはしたくなる、絶妙なセレクトだと思う。
悪意の塊のそれを冷静に見つめ、苦笑いが浮かんだ。
殺し間のつもりか。やってくれる。
暫し考え込んでからふと思い至る。
そういえば蛇の類は熱感知能力が優れているのだった。木陰に隠れてはいるものの私のことも既に察知されているだろう。
であれば、こうしてここにいる意味もない。
ぺろりと唇を舐めた。月葉草の甘やかな風味が滾りそうな血を鎮めてくれる。
枝と蔦をそれぞれ手に持ち、無邪気な小娘を装ってととと、と兎の亡骸に近付く。
傍に座り込めば、その瞬間風が動いた音がした。




