命の流れ
ゆっくりと瞼を開けると、そこは薄明るく照らされた水晶の世界だった。
多角的で鋭利な断面がきらきらと光を反射している。透明度の極めて高い水晶の壁がドームを形成していた。
囲まれた空間、その半分を占めるのは水辺だ。水晶と同じくらい透き通った水の中、光るように真白の魚がいた。
そこで気付く。
(あれ…なんで)
本調子でないからと調和の訓練は暫くお休みしていたはずなのに。
どこかぼうっとした思考のまま、滑らかな質感の床に足が着いた瞬間に視界がぶれた。体がうまく動かせない。
咄嗟に傍の柱へしがみつくが力が入らず、そのままずるずると座り込む。
床にある浅い窪みに水が溜まっている。自分の顔が幾つも映って見えた。
(ごめんね。むりやりひっぱってきたから)
(なに…?)
どうにか顎を上げると、視界の端で白い魚がちゃぷんと尾鰭を叩いた様子が見えた。
(がまんして)
ゆっくりと半身が漏らした言葉を咀嚼する。
(…無理矢理引っ張ってきた?)
意味を理解し、精神体の癖にざっと血の気が引いた気がした。
(そっちから強引に引き摺り込む事ができるなんて聞いていない!)
(かんたんにできることじゃないよ)
やれてる事が問題だ!
と喉元まで出た悲鳴は、床の水溜りが映し出す緑の景色によって途絶えた。
凪いだ湖面、常緑の木々、数多の光る玉たち。
見覚えがある。
ピクニックで連れてきてもらった麓の泉、そして。
今まさに、フレドリック様達が山狩りの拠点にしているというベルーナだ。
下位精霊の誰かの視点を借り受けているのだろう、ぶれた視界のなか明滅する玉がしきりに何かを訴えている。
(…なに?どうしたの…)
嫌な予感が背筋を這う。
力無き下位の精霊の声は映像からは聞き取れない。
ちゃぷん、と再び半身が水面を叩いた。
(たすけてっていってるよ)
ぞっとした。
(あのこをたすけてっていってるよ)
力がうまく入らない身をどうにか這わせ、隣の水溜りを覗き込む。
泉から少し離れた平地だろう、騎士団の仮設テントが連なっている。
幾つもの篝火が焚かれ火の粉が舞い散る。
テントの外では行列を作るように人影が座り込み、あるいは横たわっていた。その周りを幾人かが忙しなく動き回る。
なんらかの異常事態が起きた事は疑いようがなかった。
端にいる人影に見覚えがある。指差しながら問いかけた。
(ここ、もっと近くで見られる?)
返事の代わりに映像が変わった。
騎士の背中が見える。
その向かいにいるのは、ああ、やはりガイさんだ。
以前会った時からは想像できないくらい険しい表情で何かを話し合っている。
炎に照らされた左側の頬には血が固まりきっていない切り傷が一直線に刻まれていたがそれを気にする様子もない。
騎士が抱えている兜はべこべこだし、その奥にいる冒険者の人たちも腕や足や腹、どこかしかに血の滲んだ布が巻かれている。無傷とは言い難い様子に息が詰まった。
ばっと顔を上げる。
(あの子を助けてって、フレドリック様のことでしょう?フレドリック様は?)
(ねえ、きみもあれをたすけたいの?あんまりうるさいからこうしてきみをよんだけど、わたしはあんまり)
(駆け引きがしたい?私にあまりあなたを嫌わせないでほしい)
ここまで呼びつけ、こんな映像を見せておきながら呑気なことを言う半身に沸き立った怒りで声が震えた。
これと付き合うようになってから散々な目にばかり遭ってきたけれど、私がこうして怒りを見せるのはもしかしたら初めてだったかもしれない。
半身は黙り込むと再び水面を叩く。
映り込んだ景色が変わった。
鎧を纏った男が二人、木々の間に身を隠しながら荒い息を殺していた。
一人はまだ少年のようなあどけない顔を歪ませ、歯を食いしばりながら涙を流していた。その頭を小突き、だらだらと血を流す足をとって布を固く巻き付けていたのはフレドリック様だ。
良かった!無事だ。
フレドリック様の頬にも泥と血が飛び、鎧は所々どす黒く汚れ、布を巻く掌も血が滴りぬめっていた。酷い格好だ。
でも息は荒いけれど涼しい顔をしている。
返り血か、もう一人の血だろうか。本人に大きな怪我はなさそうだった。
泉まではまだ距離があるのかもしれない。剣も振れそうだが、怪我人を守りながら進むとなると難易度が跳ね上がる。慎重を期しているのだろう。
(…まだいきてるよ)
(そうだね、よかった)
(いまのところまわりにけものはいない)
(調べてくれたの?…ありがとう)
ほっとしてそう言うと、真白の魚がこちらを伺うように水面に顔を出した。
(こいつがきたせいだよ)
再び画面が変わった。
森の中、遠くの方で大きな影が波打ちながら地面を這って動いている。
月明かりが照らし出したその体表はびっしりと鱗で覆われていた。四肢はない。巨大な蛇の類だろうか。
子供くらいなら簡単に一呑みしそうな大きさだ。
(こんな浅瀬に出てくる奴じゃない。…中層で、縄張り争いに負けたな)
敗者がそのまま逃げおおせるとは珍しい。
古森は棲み分けがきっちりしている。大抵は逃走途中に落ち武者狩りに遭うものだけれど。
けれど腑に落ちた。
半身の言う通り、こいつによって浅瀬の魔物が浮き足立ち異変に繋がったのだ。
随分と恰幅のいい姿だ。こんな奴が出てきたら浅瀬はパニックになっただろう。
先ほど見た騎士団や冒険者の面々の被害状況からして、既に集団暴走になりつつあったのかもしれない。
古森も浅瀬ならば普通の山と変わらない。獣も凍てつく季節に向け肥え太っている頃だ。
数匹ならばいざ知らず、力を溜めた魔獣が興奮状態で群を生して襲い掛かってきては、人間にとって容易く相手取れるものではない。
(でもそれは、人間側から見ればの話なわけで)
此度の山狩りとは、人を含めた獣たちの縄張り争いだ。自然の営みのひとつ。中層の弱者が浅瀬へ逃げ延びたレアケースとはいえ、それもまた命の流れだ。
この蛇もまた懸命に生きているだけ、人と獣で如何違うのだと何かが私に囁きかける。
少なくとも、少し前の己にとって人も獣も等価の存在であったはずだろうと。
(ごめんね)
傾いていたはずの天秤が、その様を見てしまえば再び揺れてしまうのは私の弱さ故だ。混じり気なしの精霊は、己の欲に正直な分意味のない迷いを持たないから。
どちらか片方へ入れ込むことの罪深さを厭う気持ちは消えない。
けれどこのまま放っておけば、パニックを起こした魔獣たちが麓まで降りてくるだろう。いや、この魔蛇が騎士を、フレドリック様を見つけたらどうなるか。
脳裏に甦る姿に瞼を閉じた。
心配ですと溢した言葉に、私もだよと眉を下げたアルバート様の姿。
手巾を握りしめたまま目を丸くしたフレドリック様の姿。
目を開ける。
水面に浮かぶ黒々とした影をじっと見つめ口を開いた。
(…ごめんね。私は、君の存在を許容できない)
この言葉の傲慢さを理解しているけれど。




