邂逅
咄嗟に横に飛びすさって、太い鞭のようなものが少し前まで立っていた辺りを撫でていく様子を見送る。
「はは」
いい勢いだった。
尾の先だと思うが、そのまま突かれていたら私の柔い肉など簡単に貫通するだろうし、薙ぎ倒されれば暫く身動きが取れないだろう。
そして、罠にかかったはずの獲物が初撃を躱したのを察してか、茂み一帯に漂う獣の気配が一層薄くなるのを感じた。
…逃げるつもりか?
一撃でやれなければ標的を移す、本当に嫌な知恵がついている。追いかけようとすれば更に逃げるだろう。完全に潜伏されたら探すのが面倒だ。
せっかく見つけたのだし、是非とも最後まで付き合ってもらいたい。
口をもごもごさせ、一息に舌先を噛み切った。
途端に広がる鉄錆の匂いに顔を顰めながら、お行儀悪くぺっと血の混じった唾を吐く。
その瞬間、辺りの空気が一変した。
「そうそう、いい子だ。力ある精霊の匂いがするだろう?」
静かだった茂みからふしゅうふしゅうと威嚇音が漏れ聞こえる。
興奮している。
そうだよ。目の前にいるのは、混ざりものであっても古森の最奥に君臨する高位精霊の、なんとか弱き幼体だ。お目にかかったことなどないだろう。
でも本能が猛烈に訴えるはず、あれを喰らうべきだ、あれを喰らえば大層な力が手に入ると。
どれだけ知性が高くなろうと、中層程度の生き物ではこの誘惑に耐えられはしない。母の友人直伝のスペシャルな釣り餌であり、古森で暮らした数年でこいつの効果は実証済みだ。
(あー…ヒリヒリする)
再び飛んできた尾を避けながら胸中でぼやく。
動きを阻害しないし怪我をしていることがバレにくいから舌先を選んだけれど、痛いものは痛い。
そうしてひたすら尾の旋風を躱していたら、遂に我慢できなくなったのだろう、ずりずり音を立てながら茂みから本体が顔を出した。
「…やあ、はじめまして」
ゆらゆら揺れながら地を這うそれは、視界に収まらないほどの大きさだった。
真っ暗な森のなかでも尚一層の闇を纏っているように感じる。隠遁に特化した魔力の使い方をしていそうだ。
これならこの浅瀬で敵う者などそういないだろう。ゆったりと一方的な狩りを楽しみ、既に王者の風格すら備えてきている。
芽吹きの季節まで放置していたらこいつはきっとこの辺りを掌握していた。人間が太刀打ちできないような厄介な主になっていたはずだ。
(それでも中層にはいられなくなった。相性が悪い奴でもいたのかな)
滑らかな鱗で覆われた巨大な蛇は自らを鼓舞するように上体を起こした。三角の頭部が広がり視界を覆う。
つぶらだけれど情動を一切感じさせない無機質な瞳がじっとこちらを見つめている。しゅるしゅると長い舌を出入りさせている様は完全に舌舐めずりだ。
「捕食する側の貫禄があるね」
笑いかけた途端、襲い来る尾に追い立てられた。褒めたつもりだが通じなかったようだ、容赦ない軌道である。
追尾してくる尾の先は鋭いが柔軟だ。避けたそばからえげつない角度で折り返し、縄のように弛んで、広がった髪の先を掠めた。
危ない。巻き付かれでもしたら最後、この小さな体躯では抵抗のしようもないに違いない。
このまま追いかけっこに付き合うつもりはなかった。どうやったって先に体力が尽きるのは私の方だろうし、これはもうさっさと削らせてもらおう。
飛んできた尾にタイミングを合わせてできる限り近くへ寄る。
握りしめていた橙の実を軽く潰した。ここに来る直前に摘んだものだが、熟れたものは結構ねっとりした果肉をしていた。
蛇の側面側、口周りにある窪みを目視で確認すると、狙いを定めて橙の実を投擲した。
べちゃ、と音がしてねちゃねちゃした果肉が窪みを覆うように飛散する。
ナイシュ!
魔蛇ともなるとその辺りも進化していそうだが、そもそも蛇の類は対象物から放出された赤外線による温度変化を知覚している、らしい。ピット器官という奴だ。
メカニズムが分かれば対処法は絞られる。
本当はあの辺りを潰せたらいいのだけれど、それは難しいので妨害だけ。赤外線なんて何にでも吸収されてしまうのだから、ピット器官の周りにゴミをくっつけてしまえば撹乱程度には充分だろう。
しょぼい作戦だが片側だけでも案外効いているようだった。
蛇は不快そうに頻りに首を振っている。古森にある木の実なだけあって意図しない効果もあるのかもしれない。ラッキー。
この隙にそのまま追撃である。
再び飛び上がって蛇の側頭部へ向けてドロップキックをお見舞いする。
ブーツの革越しに硬い頭蓋骨の感触を微かに感じた。しかし体重の軽さのせいもあってまったく堪えた様子はない。
…分かっていたことだが少々苦しい。獣系ならばもう少し効いていたと思う。
回を重ねる毎に衝撃は脳に溜まっていく。
この調子なら無視できなくなるのは何回目だろう。百回くらいやられたら、さすがに頑丈な頭蓋骨も疲労骨折くらいするだろうか。
橙の実の妨害がそれまで効果を発揮しているといいのだけど。
焦れた蛇が大きく口を開けた。生臭い息に混じって毒液の匂いがする。
咄嗟に体が動いた。
それはダメだ。お前の毒は森を汚す。
伸びてくる大口を開けた首を躱すとその側頭部に爪先で蹴りを叩き込んだ。
蛇の気を引き、口が閉じられるのを確認する。手に持った蔦を投げつけ叫んだ。
「押さえて!」
僅かな時間であっても私の掌から加護を直接受け取り続けた蔦は、その強靭さを増し私の意を汲んで動いてくれる。しゅるしゅると蛇の鼻先から巻き付き、口の半分以上を覆うようにして雁字搦めにした。
これで手持ちの武器は枝一本となった。心許ないにも程がある。
とはいえ、どれだけ保つかは分からないけれど暫くはこれで毒液の散布を免れる。
ほっとした次の瞬間、魔力が渦巻きみちみちみちと蔦が軋んだ。蛇の尾がぞっとするような警告音を鳴らした。
獲物と見くびっていた幼体に思いがけない反撃を食らって、我を忘れるくらい怒り狂っているのが分かった。
「…毒はダメ。中層ならまだしも、ここじゃダメだよ」
諭す言葉の返事の代わりに嵐のような薙ぎ払いが飛んできた。
が、狙いが甘い。先刻までなら避けた先すら予知するかのような第二刃、第三刃が繰り出されてきたというのに。怒ると攻撃が雑になるタイプか?と首を捻り、ああと頷いた。
口を押さえつけるだけでは本体に然程のダメージはないが、副次的に舌の出し入れも封じることができたのだ。確か、蛇は舌で臭いを感知するはず。
ピット器官もうまく覆えているように見えるし、意図していなかったけれど奴の知覚のうち二つが邪魔されたことで精度が著しく低下したのだろう。
素晴らしい、棚からぼた餅である。
と言っても、こっちにはあの頑丈な鱗と強靭な皮革を貫く手段がないことに変わりはないのだけど。
「やっぱり丸腰は良くないね」
怒れる大蛇を前に、屈伸をして足首を回す。後半戦、スタートである。
「…っ!」
振り回された蛇の頭部を寸でで避け、無防備になった側頭部、散々蹴り続けたその一点へ再び踵を蹴り込む。
ゆら、とその巨体が揺れたように見えたが魔蛇は何事もなかったかのように態勢を整え鎌首を持ち上げた。
後半戦スタートだぜ!と意気を上げてから体感で二時間は経った気がする。いや、三時間かもしれない。
攻撃を避けては蹴り、避けては蹴り、奴のやる気ゲージが下がったら舌先を嚙み、足が疲れたら手にした枝で殴りつけ…。
百回も殴る蹴るを続ければ疲労骨折するだろうと思ったけれど、甘かった。
余りに効いてなさそうで百を過ぎてからカウントしなくなったけれど、今になってようやくダメージが回ってきたかのような素振りである。
まあ私の蹴りがしょぼいからこそ、奴もこの長時間に及ぶ拘束に付き合っていると言えるのかもしれないけれど。
ぐりぐりと足首を回す。
爪先が痛い。あと、脹脛と腿の筋肉がぷるぷるする。
武器がないから肉弾戦で行くのはそもそも避けられなかったけれど、相手の疲労骨折を狙って蹴りつける私の足にも同様の疲労は溜まるのだということに遅まきながら気が付いた。
馬鹿だ私…。
それから先程、鈍器に見立てて振りかぶっていた枝がぽっきりといった。
ショックだった。
いや、その辺で拾った枝にしては長持ちした方かな。たっぷりと力を分け与えていたけれど、フルスイングしすぎたかもしれない。
最後の一撃は蛇にも効いたみたいで、その後大分逃げ腰になっていたから。
まあとにかく想像以上に相手がタフであるということである。やはり大きいとは力なのだ。心底思う。
いいスピードで円弧を描くようにして蛇が動いた。
いい加減集中力が切れて考え事に耽っていたせいか、反応が遅れた。囲まれている。
螺旋状に迫ってくる蛇の胴体から上へ逃げると、予測していたかのように蛇の首も同じタイミングで伸び上がる。
「…気を抜いていい相手じゃなかったね」
ちっと舌打ちしたのは自分への叱咤だ。
空中だと体の自由が利きにくい。こいつのせいで下位精霊たちが逃げ惑っているのだ。
わざと体制を崩すことで迫る首から逃げるが、蛇は諦めていない。
奴の濡れた双眸と目が合う。
落ち着いた視線に、腹を決める必要があることを知った。
どうしよっかな。
蛇の口は閉じている。あるとすれば頭突きか。この勢いのままぶつかれば、骨はいくだろう。
頭と内臓は守らなきゃ。足も、現状唯一の攻撃手段だ。腕か。腕を前に出そう。
勢いは殺せるか。背中を打ち付ければ機動力が落ちる。潰れた腕を下にするしかない。
近づく鼻面。
その一瞬がやけに長く感じた、その時だった。
がさ、と少し離れた茂みが音を立てて揺れた。
私に向けられた蛇の視線が切れる。私も追いかける。
暗闇のなか、小さな炎の明かりが枝葉の隙間から漏れ、辺りを照らしていた。
手が指が木々を抑えるように伸びたのが見えた。
人間だ。人間の男の子。
すぐに分かった。
次いで安堵と困惑と後悔が交互にやってくる。
ヒーローみたいだ。
こんなところに近づいちゃ駄目だよ。
なぜもっと早くに気が付かなかった。
ぞわぞわぞわと内から何かが溢れてくる。
ああ、これは歓喜だ。内なる半身が、歓びの声をあげている。
手に続いて肩が、体が茂みから出てくる。
短い髪、革製の鎧、力に満ちた指先。
白く青く燃える命。
食いしばった顔つきは、本人の不本意な心情を如実に表していた。
きっと、出てくるつもりはなかったのだろう。
ぱっと見ただけでも、一介の冒険者が一人でどうにかできる相手じゃない事は理解できるだろう。
でも、体が動いてしまったのだ。
それは私を見て?私が危ないと思ったから?
爆発する喜びのまま、それはたぶん私のものでなくて内なる半身の衝動なのだろうけど、彼の名を叫んだ。
「…………ジル!!!」
昨日お伝えし忘れました。
第二章の終わりまで毎日更新します。
昨日を含めて7話くらいです。なのであと5話くらいかと。
お付き合いいただければ幸いです。




