百合と盾
午前中のレッスンを終え、自室に戻る道すがらのことだった。
下が慌ただしかったので階段に繋がる二階の手すりの隙間からそっと伺い見れば、鎧や隊服を身に着けた人影たちが玄関を出入りしている。
「騎士団主導で行われる大規模な山狩りの準備かと」
メイの言葉に、そういえば先日の晩餐会でそんな話があったなと思い出した。
古森に季節外れの魔獣が多く見られているらしい。
泉の散策で暁光の翼に出会ったときにらしくもない怪我の多さに違和感を感じ、アルバート様が彼らを城に呼んだのだそうだ。そして城で詳細を聞いて実施が決定されたのだとか。
思い返してみれば、冒険者たちと別れた時の悩ましい表情は古森の異変に思い至ったが故のものだったということだ。
話を聞き、同じ日々を過ごしていながらただのんびりしていた自分に若干の恥ずかしさを感じたのは記憶に新しい。
「…デリック様にモニカ様」
階下を眺めていると、見知った顔を見つけて思わずその名を呟いた。
散策に帯同してくれた騎士だ。
呟きは小さなもので聴こえるはずもないのだけど、優秀な斥候であるデリックさんは何かを察したらしい。ぱっと顔を上げ私の姿を認めると、近くにいたモニカさんに声をかけ二人で手を振ってくださった。
ぺこりとお辞儀をし、顔を引っ込める。
なんだかそわそわする。どうにもらしくないなと首を捻った。
「…フレドリック様も出られるのよね?」
「明朝に発たれるとか。騎士団の大半が陣を分けて逐次投入されると聞いています」
「そう」
此度の山狩りとはまさしく獣の縄張り争い、自然の営みのひとつだと理解できているはずなのにな。
事前に話も聞いていたのに、実際騎士達のぴりっとした雰囲気を肌に感じてあてられてしまったのだろうか。散策の時とは全く違う、闘争に臨む猛々しい気配に。
フレドリック様をはじめとする見知った騎士達の顔を思い浮かべると気持ちが落ち着かないのだ。
「…黒鷲騎士団は精強揃い。坊ちゃんもああ見えて腕っ節で部隊長の座を手に入れたお強い方です。過去に何度も山狩りを経験しておりますし、心配はいりません」
メイがじっと私の方を見て噛んで含めるようにそう言った。
「しんぱい」
繰り返した言葉がすとんと心に落ちてきた。
なるほど、私は心配をしているのか。
言葉を当てはめればすぐに得心がいった。
心配、心配かあ。
仮に彼らの命や笑顔が損なわれるような事態となったら、と想像すると心の振り子が大きく揺れるような感覚に襲われる。自然の営みだよとそれを易々と看過することができない、苦しいようなこの気持ちは。
振り返ると、今まで私の周りにいた彼らは人間の世界で何かしら強い立場を持つ者たちであり、私の知らないことを知っている明確な上位者であった。庇護者であった。
でも人間の理は古森では通じない。人間も古森の中では命の一つでしかないのだから。
古森は時に弱者に牙を剥くし、闘争に絶対はない。
これから古森に挑もうとする彼らの姿を見て、それを思い出したのだ。そして、そうであってほしくないと思ったのだ。
なんだまるで人間のようじゃないかと冷静な私の一部が笑った気がした。
「…メイ、フレドリック様にご無事で帰ってきていただきたいのだけど、私にできることはもう何もないのかしら」
今まであまり味わうことのなかった類の感情に胸がちりちりと炙られ、ふとそんなことを聞いていた。
私も一緒について行けばよほど安心できるな、とか魔石でも薬湯でもなんでも渡してしまおうか、とか考えなかったわけではない。
それを止めたのは脳裏に浮かんだあの顰め面で、御当主様の躾はきちんと効いているということだろう。
少なくとも、出立は明日という限られた時間のなかで物を知らない私がこの感情のまま動くことは憚られた。
メイは私の申し出に珍しく目をまん丸にして固まった。
「…そのお気持ちを伝えられるだけで坊ちゃんはやる気百倍になりそうですが。いえ、そうですね。もしよろしければ、手巾をお渡ししてはいかがですか」
「手巾?刺繍したもの?」
「はい。坊ちゃん達の無事を祈って刺したものを。布の類はあって困ることはないはずです。きっとお嬢様のお気持ちが伝わります」
ちらっと窓から空を見やれば、太陽は未だ高い位置にある。私の乏しい腕でも、小さな図案であればそう時間もかからず出来上がるだろう。
小さく頷く。
「そうします。ありがとう、メイ」
そうと決まれば図案を選ばなければ。
言われて始めた刺繡だけど、教えてもらっていて良かったと思う。非力なりにやれることがある、ただそれだけで気持ちは随分と救われる気がしたから。
すぐさま部屋へ戻りメイに持ってきてもらった刺繍の図案集からデザインを選ぶと、絹の手巾を手に取ってうんうん唸りながら集中した。
選んだのは百合と盾のモチーフ。
身を守ってくれるように盾を選んだはいいものの、初心者レベルが刺す簡素化された盾のデザインだけではどうにも寂しかったから百合も追加した。
百合はこれまで散々刺したので小鳥と並んで私の得意とする図案の一つである。自慢できるほどの難易度でもないが。
出来上がった手巾はメイがすぐに鏝を当て丁寧に畳んでくれた。
日は落ちてきていたが辺りはまだ明るい。どうにか無事に完成して良かった、と安堵の笑みが浮かんだ。
「メイ、あとでフレドリック様に届けてくれる?」
「承知しました、と申し上げたいところですが…お嬢様、坊ちゃんは騎士棟にいらっしゃるとのこと。直接お渡しされなくてよろしいのですか」
思いがけない言葉にきょとんとする。
騎士棟にいるフレドリック様に直接渡す?
それはつまり、私が居住エリアの二階から出て城の中をぽてぽてと出歩き、尚且つ職務中の騎士様から時間をもらうということだ。
折角用意した手巾だし、出立前のフレドリック様にお会いできて渡せたらこの胸の不安も落ち着きそうな気もするが。そんなの許されることなのだろうかと首を傾げるとメイの瞳が揺らいだ気がした。
「…騎士棟への出入りは家令に話をして参りました。憚りながら、私がご一緒するという条件の下で許可を得ています。団長サイラス様へも訪いについて申し入れをしております。お嬢様が望まれることを阻む壁など何一つもございません」
すぱっと言い切られる。
「ただ、これから向かう先には数多の騎士がおります。女性騎士もおりますが、多くは声が大きく体躯も大きく汗臭い、傷だらけで厳つい顔の大男たちです。クラウス様、デリック様はもとよりサイラス様もまだまだ小綺麗な方です。礼儀は弁えておりましょうが、熊のほうがまだ愛嬌のある風体やもしれません。ですから、僅かでも厭うお気持ちがあるのでしたら私がすぐに届けて参ります」
騎士様方はフィッツロイ家に仕える、言うなればお仲間的な感じなのでは…そこまでこき下ろさなくても。
でもそんなことを言いながらメイの表情は揺るぎなく、私の気持ちを疑うことなどないように見えた。
え、いいのかな、なんて迷ったのは一瞬だった。
どうされますか、と改めて問いかけられて即答した。
「行きたい。フレドリック様に直接お渡ししたいわ。メイ、一緒に付いてきて」
「はい、承知いたしました」
胸に手を当てるメイは美しい礼を見せ、満足そうに唇の端を吊り上げたのだった。




