ゆめ
終末世界で半身を相手に鬼ごっこをした次の日は体が重い。
朝目が覚めた瞬間から疲労がマックスまで溜まっている感じ。生身の肉体はベッドの上で寝ていたはずだから、疲れているのは体じゃなくて魂の方なのだろう。
いや、そりゃ魂も疲れるよ。
あれだけ地面に叩きつけられ、蔦に足を貫かれ、そのまま引き摺られたらさあ!
昨日は私が動きをミスったせいもあって、親兄弟の仇かっていうくらい痛ぶられたわ。
我が半身ながら頭おかしいなこいつと改めて実感した。あんな純粋そうな目をした白い鳥の形でぴぴぴと囀りながら、倒れ込んだ私を滅多刺しだからね。
昨夜の惨劇を思い出し、疲労と畏れから怒りすら湧かないままげんなりと体を起こした。
「…あまり眠れませんでしたか」
朝の支度のために入ってきたメイが、私の顔を見てそう言った。
「そうみたい。今日は写本はお休みして、のんびり過ごそうかしら」
余程顔に出ているのか、それともうちのスーパーメイドが優秀すぎるのか。まあどちらにしても気付かれているなら余計な見栄は張らずとも良い。
早々に白旗を上げた私にメイは頷き、いつもよりも幾分かゆったりしたドレスを選んでくれた。
部屋へ朝食を運ぶという申し出に手を振り、食堂に向かう。疲れているだけで動けないわけではない。
そして疲労困憊だが食欲はあった。寧ろいつもよりもお腹が空いているくらいで、朝食が沁みた。
食べて回復しようとしてるんだろう。あー塩分油分最高ですわ。
「…美味しいわ」
「それはようございました。こちらもどうぞ」
私の旺盛な食欲に触発されたのか、パンの籠は一度引っ込むと山盛りになって出てきた。腸詰めもどんどんサーブされる。うまいうまい。
食べ終わって、苦しささえ感じる胃のあたりを手でそっと撫でるとお腹はまんまるであった。
緩いはずのドレスがぱつぱつである。
姿勢と食器の取り扱いだけは取り繕ってはみたものの、貴族の子女としては完全にアウトだ。よくメイも止めなかったな。
食事を終え、重い腹を抱えながら刺繍セットを持ってガーデンルームへ向かった。
そして朝の宣言通り、今日ばかりは勉強も写本もお休みだ。午後にはお茶の時間を兼ねたマナーレッスンもあるが、そこまでには胃も気力も回復するだろう。
「ここで大人しく刺繍しているから、メイも暫くの間はいいわ」
「…承知しました。後ほどお茶をお持ちいたします。隣に控えておりますのでなにかあればお申し付けください」
見本のようなお辞儀をしてメイが一時退出した。
これもフィッツロイのお城に来て変わったことのひとつ。
王都のお屋敷にいた時は用事を言いつけない限り頑なに私の側を離れなかったメイが、こっちに来て私にガーデンルームが与えられたあたりから少しずつだけど私に一人の時間を作ってくれるようになった。
とはいえ、なんやかんや理由をつけて顔を出すのだけど。
常に第三者の目があることにだいぶ慣れたけれど、やはり一人になればほっと息が漏れる。
疲れてたから気を遣ってくれたのかもね。
刺繍枠をはめた手巾を手に取った。
大柄に挑戦しよう、と意気込んだ私にリジウェイ夫人が薦めてくれた図案はいくつかあった。そのうちのひとつがフィッツロイ家の紋章、双子の世界樹である。
家紋が刺繍された手巾は色恋の駆け引きの常套手段でもあるが、貴族令嬢であれば刺繍できるようになって損はないとのこと。取り扱いは要注意らしいけどね。
養い子如きがモチーフにしたら要らん波風が立つのではと心配していたら、夫人はにっこりと笑った。
有象無象のくだらない心中など推し量らなくてよろしいのです。
あ、はい。とそれ以上問答するのはやめておいた。
静かな部屋でちくちくと刺繍を進めていく。
手巾の全面に描かれた大きな下絵を見ながらふと思った。
これ見た目は壮観だけど、機能的にはどうなんだろう。
水とか絶対吸わないよね。いや、こういう手巾はアクセサリーみたいなものなのか。手を拭いたり顔を拭いたりはしないのか。
そんなどうでもいいことを考えながら無心に手を動かしていくうちに、思考がどんどん鈍くなる。
ぽかぽかとした日差しで緩んだ空気と満腹感が私に眠気を運んできたのだ。
あー…ねむい…。
かくん、と頭が落ちてはっとする。
まだ日も上りきっていないというのに、こりゃ本格的に眠い。
とりあえずキリのいいところで糸を処理し針を裁縫箱に戻した。
しばし考える。ちょっとだけ寝よう。
うつらうつらしながら籠にしまわれていた膝掛けを引き摺り出し、もぞもぞとくるまる。
「お休みになるのでしたら長椅子ではなく寝台で」と後ほどメイから苦言を呈されることは分かっていながらも、とろけるような心地に抗うことなく潔く意識を手放したのだった。
夢を見た。
甘やかで懐かしい、二度と帰らぬ日々の夢だ。
「なんてかわいいのだろう」
人影が覗き込むように顔を近づけた。
私はこの人影を知っている。
「輪郭と目元は君に似ている」
「唇はあなたにそっくりよ。眉も、額の形もあなたと一緒」
「そうかな」
穏やかな声。込められた愛情に嫌でも気付かされる。
子供の前でいちゃつかないでくれないかな。
そう言おうとして言葉が出ないことに気付いた。視界も水の中にいるようにぼやっとしていて、ああこれは私が私になる前の記憶なのだと理解した。
「ああ、目が覚めたみたい」
「鮮やかな紫の瞳…宝石のようだ。きっとこの子は世界に祝福されているんだね」
大きな掌がそっと頭を撫でる。
母様とはまた違う、温かな掌だ。
この温度も知っている。知っていたのだ。忘れていただけで。
「君が笑顔であり続けるように、君を守らせて。大切な僕たちのたからもの」
ぼやけた視界の中、闇を切り裂く日の出のように眩い黄金の髪が瞬いた。
銀に輝く瞳。よく似た瞳を知っている。感情が昂ぶれば藤色に変わる、なんとも美しい色だと思う。
たいせつなたからもの、と呼びかけられた声が優しくて、よく分からないけれど涙が溢れてしまった。
「あらあら。泣かないで、どうしたの」
「泣いているところ初めて見たよ。ごめん、何かしてしまったかな」
慌てる声に、過ぎ去りし優しい記憶に胸が締め付けられた。
「そんなに泣かないで、目が溶けてしまうよ。ああ、そうだ…待ってて」
声が遠のき、ごそごそと何かを探る音がする。そしてまた慌てた様子で戻ってきた。
鳥の歌声のような可愛らしい音が響いた。
「愛しい子、良かったわね。お父様があなたに弾いてくださるって」
「何がいいかな、星の子守唄?それともかくれんぼの歌にしようか。あんまり子供向けの曲は覚えてなくて」
ピルリ、ピルリと音の雫が飛び跳ねる。
彼らの声と同じように愛情深く優しい音階が鳴り響き、むずむずして手を伸ばした。
「見て、泣き止んだわ。…そう、あなたも精霊だものね。素敵でしょう。気に入った?」
「そうか、君と同じできっと音楽が好きなんだね。…よし、次来る時までに子守唄をたくさん覚えてくるよ。楽しみにしていて」
「ですって。良かったわね」
笑い合う二つの人影の間には、確かに愛情が存在していた。例え種族が、寿命が、価値観が異なろうとも。
そのことが、どうしようもなく嬉しい。
再び涙で滲み始めた視界をそっと閉じた。
あまりにも優しい記憶に、痛みさえ感じながら。
「…………」
ぱちりと瞬きをした。
もぞもぞと身動ぎ、伸ばした指先で目の端を擦る。指先は濡れていて眠りながら泣いていたことを知った。
「………はて?」
なんで泣いてるんだっけ。
胸に手を当てる。鼓動は僅かに踊っていた。
いい夢だった気がするが、どんな内容だったか覚えていない。なぜ泣いたんだか。
ふと、微かに聞こえた音に顔を上げた。
小鳥の囀りにも似た、胸を締め付けるような音。
膝掛けにくるまりながらぼんやりと音色に耳を傾ける。その時間はお茶を淹れにメイが部屋へ入ってくるまで続いたのだった。




