調和の訓練
私の寝る支度を整えたメイが部屋を退出した。
暗い部屋、寝台の上で目を瞑る。
うう、このまま寝てしまいたい。
しかしやらねばならない。あんな醜態晒すくらいなら、多少の困難も我慢できる。
…できるよね?
呼吸は浅く保ち、体から力を抜く。
瞼の裏側に広がる暗闇の中をゆっくり、ゆっくり沈んでいく。
母は深い洞を進むようにと言っていたが、私のイメージは水の底だ。重たい石が水の中を沈むようにゆっくりと、更に深い闇へ向かう。
まだ、もう少し奥へ。
まだ、まだ、まだ。
沈み切った先、底に足がつく。ゆっくりと目を開けた。
広がるのは石ばかりが転がる荒野、視界の端に蔦が蠢いている。
ここは、私の身の内の世界なのだそうだ。
初めて潜った時がこの世の終わりみたいな景色だったから終末世界と呼称している。勿論自虐である。
来るたび様相が変わるからなんとも言えないが、今回もなかなか荒れ果てているな。
薄暗闇の中、時折走る稲妻。
一際強く輝いたそれは剥き出しの感情で、辺りに幼い子供の声が響いた。
(あのこ、きれいだ。ほしい)
ぱっと現れたのは青白い炎を纏った獣の姿だった。
ピンと来た。
今日見た少年の魂の色。鮮烈な炎の色。
君には、あの子がこう見えていたのだね。
肉の形ではなく命の形だろう。確かにこりゃ美しい。見入りもする。
私は久々に内なる自分、この荒廃した世界の主である半身に向かって声を掛けた。
本体は別の所にいるのだろうが、声は届くだろう。
(確かに綺麗な獣だね)
(いいでしょう。わたしがみつけた)
足元からにゅるりと蔦が芽吹き、体を這う。ぎちっと音がするほど強く絡め取られて顔を顰めた。
純度100%の精霊であるからして、情動がすぐさま行動に直結するのだ。
そしてこの子は今確実に興奮している。欲しいという想いだけが加速している。
どう考えたって良い状態な訳がない。まずは落ち着かせなければ。
ちょっと緩めて、と空いている手でタップする。更に締め付けが強くなった。
(うぐぐ…おけ。ほしいのは分かったよ。それで、具体的にはどうしたいの)
(どうしたい…?)
訝しげな声とともに締め付けがちょっと緩んだ。
(そうそう。あの綺麗なのを手に入れたらどうするか。独り占めして見ていたいの?もっと輝かせたい?みんなに自慢したい?それとも、壊したい?)
ぎゅるんと更に蔦が増える。
あー、落ち着いて。
(なんでこわすの、きれいなのに)
(私は壊さんて。君はどうしたいのか聞いてるだけだよ)
(わたし、わたしは)
蔦がうにょうにょ踊りだす。照れているようだ。
(…もっとちかくでみたかった)
(そうだよね、ちょっと遠かったもんね)
(つぎはいつあえる?いそがないとだれかにとられちゃうかも)
この子の心の揺れに合わせるように蔦がそわそわし出す。
いいね、会話ができるようになってきた。この調子。
アルバート様やフレドリック様を見習ってよしよしと撫でてやる。
蔦がぴくんと揺れた。
(だれにもあげたくない。わたしがさいしょにみつけた)
(うんうん、そうか)
でもさ、と蔦を撫でながら言葉を続ける。
(あの子、多分だけどこれからもっと綺麗になっていくよ。もっと綺麗になったやつが欲しくない?)
(もっときれいに?なるかなあ)
(なるよ。だってあの子まだ子供だもの。これからあの子が色んな人と会って、色んな経験をしたらもっと輝くようになるんだよ。でも今君があの子を手に入れちゃったら、その機会が減っちゃうと思いません?)
(…そおなの?)
今度は少し怯んだ声。
いい調子だ。私の話を疑いながらも、抱く強欲に勝てない。何故ならこの子は精霊だから。
蔦を抱きしめぽんぽんと宥めるように叩いた。
ちなみに、人は大なり小なり挫折するものであり、成長の過程で輝きが増すこともあれば鈍くなることもある、なんていう一般論は黙っておく。
あの美しい獣が凡庸に成り果てる姿なんて想像もできないが、仮にそうなってしまえばどうせこの子の興味も失せるだろうから。
(だって君、手に入れたらもう離さないでしょ。自分以外があの子に影響を与えるのを許せないんじゃない?)
(うん…やだ…)
(でしょ。分かるよ、自分だけにしてほしいもんね)
うん、うんと震える蔦を優しく揺らした。
(これは提案なんだけどさ。今はまだ手に入れる時じゃないから、あの子が最高に輝くようになるまで待ってみませんか)
(いまほしいのに)
(うん。でも時間を掛けるのは悪い事じゃないよ。例えば、あの子が自分から君のものになりに来たら最高じゃない?想像してみて。君だけが欲しがるんじゃない。あんな綺麗なものが、君を欲しがるようになったら)
(…そんなこと、できるの?)
(そうなるように、君はあの子に好かれるようにならなきゃだけどね。あの子が欲しいなって思うように)
太い蔦が少しの間動きを止めた後、しおしおと足元に戻っていった。細い蔦は巻きついたままだが振り解こうと思えば解ける。
でもとりあえずそのままの格好で続けた。これはこの子が葛藤している証だから。
まあ天秤の右も左も欲望なんだけどね。
(あの子が最高に輝く頃には多分周りにはいっぱい色んなものが付いてるだろうけど)
(やだ…)
(聞きなさいって。いっぱい付いてるだろうけど、あの子に一番に望まれたなら、そんなのあっという間に蹴散らせるよ。君しかいらないって思わせようよ。そしたら、最高にピカピカなあれは、本当に全部君のものだよ)
(ぜんぶ?ぜんぶわたしの?)
(そうだよ)
それが決定機だったのだろう、最後に残った蔦から力が抜けたのが分かった。
しゅるしゅると音を立てながら体を這って戻っていく。
気がつけば足元には芝生が広がっており、私はそこにゆっくり腰を下ろした。
曇天模様の空を見上げる。分厚い雲が時折ぴかっと光っていたが、ゆっくりと流れている。
(どうかな、この提案)
(たべごろになるまでまったらもっとおいしいってこと)
(…いや、うん、それもそうなんだけど。大事なのはあの子を手に入れるために君も良いところ見せるってところだからね?)
いつの間にか現れた茂みががさがさと揺れ、そこから一匹の白兎が現れた。
本体、今回は兎かあ。随分可愛らしいな。
つぶらな瞳を見て思った。
もしかしてこの幼い精霊にとってはあの子が初恋みたいなものなのかもしれない。暴走はするけど随分素直に話を聞くし。
こういうのの延長上に父と母みたいな関係があるのかな。いつか私が思うよりずっと早く、小手先の制止なんて振り切ってしまう日が来るのかもしれない。
手を伸ばせば近付いてくる。鼻をヒクヒクさせる様子に思わず笑ってしまった。
(久しぶり、最近来なくてごめんね)
(そうだっけ)
(君らの感覚だと一年なんて瞬きみたいなものなのかな。まあ、だったらあの子の成長もあっという間だよ)
(うん…)
しょんぼりする兎の背中を見ていたらどうにも切なくなって、元気づけるように微笑みかけた。
(ほら、そんなに萎れないで。私達二人揃えば、できないことなんてないんだから。今までだってそうだったでしょ?)
(うん)
(よし。じゃあ、ひとまずお約束ね。最高に輝くまでは我慢。あの子に好きになってもらうための振る舞いを心懸ける)
(さいこうにかがやくまではがまん。すきになってもらうためのふるまいをこころがける)
(うん、約束だよ)
復唱する兎は瞳をうるうるさせていた。
子供を言いくるめている罪悪感が物凄いが、こんなに小さくてもこの子は精霊で、私の半身。
人間の理屈をどれだけ説いても根本が違うのだから馬の耳に念仏。多少話を騙ってでもこの子が納得できる理由を用意することが必要だし、自ら約束させなければこの子は止まらない。
そして甘い顔をして後悔するのは後の自分なのだ。
あと引く思いを振り切るように最後に兎をもう一撫でしてから立ち上がった。
(もういく?)
(うん、今日は様子見のつもりだったから。またすぐ来るよ。今度は…修行をしに)
そう言うと、兎は耳をぴんと立てた。
そしてその黒目がちな目をぱちぱちした後、至極楽しそうに笑った。
比喩なく耳まで裂けた大きな口で、にやぁ、と。
(そう。まってる)
(ああ…うん)
ほらね、どんなに可愛くったってこれが精霊ってもんですよ。
瞬時に冷めた心で悪い笑みを見つめる。
私をボコる愉悦を隠しきれていない兎に手を振って地面を蹴った。
浮かび上がった体をさらに上へ伸ばすようにしながら、深い海を上がっていく。
この時のイメージは水の中を上る空気の玉だ。
そして、ぷは、と息継ぎをするように水面に顔を出したところで、私は目が覚めた。
外はまだ暗い。静まり返った部屋で肩で息をしながら、私は自分の額に手をやった。
久々だからか身体が重い。
まあ今回は話しただけで終わったから、その程度で済んだとも言える。次回が憂鬱だが。
しかしこれで細くとも鎖をかけることができたはずだ。未だ平衡には至らずだが、それはこれから少しずつ進めていけばいい。
もう一眠りするために、もぞもぞと掛布のなかに潜り込んだ。
ああ、最後のホラー顔のせいでもう兎が抱けなくなりそうだ、と思いながら。




