森の雫を目指して
昼前まで大陸語のレッスンを受ける。
固い言い回しが入ってくるとライティングに未だ不安が残る。
割と難しめな本も読めていたからリーディングは問題ないレベルと思っていたが、例題で出された装飾過多な手紙の読解には手も足も出なかった。ぐぬぬ。
この一年で随分上達したと思ったのだけれど、及第点にはまだ遠い。
作文スキルと読解力の向上が当面の課題として、どうやって改善を図ろうかな。
文通…は相手が必要だし、日記かな。いや、何を書いたらいいのか悩んで三日も保たず投げ出す自分が容易に想像できる。
写本とかならまだ目的がはっきりしていていいかもしれない。なんとなく集中力も増しそうだし、写した本は手元に残る。
部屋に戻り思案を続ける。
ふと王都の中央書籍館で働く知り合いを思い出した。彼に相談すれば、良い一冊を紹介してくれるかもしれない。
語学習熟のために写本に適した書籍で…そうだな、地学か天文学あたりの学術書を教えてもらいたいとサイキさんに手紙でも送ってみたらどうだろう。
有名どころならこっちの図書室にもあるかもしれないし、その辺りなら読むのも楽しそうだ。
いいね、そうしよう、と内心頷いて、引き出しからシンプルなレターセットを取り出した。午後からはガーデンルームで作業を行う予定だ。その前にお手紙を書いてしまおう。
「いい感じ」
陰干しした文桐草は元の香りそのままに水分が抜けていた。最初に挑戦した時は日を当て過ぎたせいか色が変わり薬草臭さも飛んでしまったのだ。今度は成功してよかった。
フィッツロイ公領の名物のひとつ、薬草を漬けた酒といふものを私もしてみむとてするなり。
多種多様な薬草を複雑にブレンドした葡萄酒やら蒸留酒などは薬として扱われ、他領でも名が知られるような蔵もあるらしい。
勿論分量や漬け込み方は企業秘密である。残念。
とはいえこんな薬草酒の大激戦区に今更素人が参入しようと考えているわけではない。
酒に薬草の効能を移すという手法を聞いて、これをうまく使って自分用に常備薬が仕込めたらいいなと思ったのである。
純粋な人間に比べれば外的要因から影響を受け難い私であるが、当然ながら無敵ではない。
無理を重ねれば体調を崩すし怪我もする。古森の精霊たちからしたら私なんてひ弱の扱いである。
しかも、精霊混じりのため人間用の薬がどうにも効きにくいらしい。そうそううまいことは重ならないし悪いことは重なりやすいというわけだ。
まあとにかく、熱を出した時にただ自己治癒力のみを頼りとして体を丸めていた幼き日の私を案じて母が煎じてくれたのが、母曰くの森の雫、つまりは特性薬湯というものであった。
レシピは数多あり、古森の奥地でしか採れない薬草を煎じるものもあれば街で手に入る草花で事足りるものもあった。
覚えている限りでも両手両足の指を合わせても足りぬほど口にしているが、都度都度手に入ったありものの薬草を組み合わせて作られたそれらはちょっと中身を疑うくらいにはよく効いた。
欠点はただ一つ、その後水を飲んでも果物を齧っても後から後から追いかけてくる筆舌に尽くし難いその不味さのみ。
…大抵の材料を跡形なくなるまでごりごり擦り潰していたことが原因だろうな。
母は生粋の精霊であるため、そもそも薬湯など必要としない。従って効果さえあればとその辺りが大分杜撰なのだ。
はてさて、人間の薬が本当に効かないかどうかはさておき、母の森の雫が私に効き目ばっちりなのは疑いようもない。
古森を出てから生憎と体調不良に見舞われたことはないが、今後もそれが続くかは分からないし。
というわけで、いざという時のために安心安全の森の雫の材料を用意しておくというのはガーデンルームを与えられた時に最初に考えたことだった。
そして、可能であれば有効成分だけ抽出してもうちょい抵抗が少なくなるようなものにならないか検討したい。
あれは私が口にするより先にメイあたりに危険物として処理されてもおかしくないのだから。
「瓶は乾いてる」
清潔な布巾で口許を覆い、ガラス瓶を手に取る。
前日のうちに煮沸消毒したガラス瓶に水分の残渣はない。
同じく消毒し乾燥させたピンセットでガラス瓶に陰干しした文桐草を詰め、蒸留酒をゆっくりと注ぎ入れた。
この蒸留酒は、メイに頼んで取り寄せてもらった混ぜ物のない蒸留酒とやらをさらにこの部屋で蒸留したものだ。
評判の蒸留酒だというのに薄ら濁っていることが気に掛かったのだ。
蒸留に際しては、きちんとクライヴを通してご当主様にお伺いを立てた。
作業自体は部屋に備え付けられていた簡易器具で十分に目的を果たせると踏んだのだが、倫理観が胸を騒つかせたのだ。
冷静になって考えると、酒は嗜好品の扱いであり課税対象であるからして、勝手に蒸留したら密造扱いになるかもという懸念に思い至った。
結果として、私の懸念は杞憂には終わらなかった。
クライヴはにこにこ笑いながら、「学ばれたことが身についているようでようございました」と一枚の紙面を渡した。
酒造にまつわる申請と誓約を兼ねた公的書類である。
「何も考えずに踏み出した一歩がお前の未来を狭める」
いつかのご当主様の静かな声が脳裏に響いたよね。
一応フィッツロイ家は研究開発を目的として酒造の権利を有しているらしく、このぺら一枚に領主たるご当主様の印をいただきまして、ガーデンルームにて自家蒸留が可能となった。
酒の密造に対する罰則の厳しさを改めて確認し勝手に手をつけなくて良かったと思う反面、正直ここまで面倒ならやらなきゃ良かったという後悔が脳裏をよぎっていた。びびった、とも言う。
しかし今更取りやめますとも言い難く、半ば義務感で作業を続けている。
手助けしてくれた色んな人達に申し訳ないから口には出せないけれど。
残念ながら温度計がないから損失は多分にあるだろうけれど、その分丁寧に再蒸留した蒸留酒は今度こそ透き通った無色の液体となった。
蒸留器も煮沸消毒のあときっちり共洗いしたものを使っている。
最終的に口に入ったり肌につけたりすることを考えると、こういうところにどうも手を抜けない性質らしい。
気付かなきゃ大丈夫なのだけど。
いや、でも自家製剤で中毒とか嫌すぎるし。
ガラス瓶の中、たっぷりとした蒸留酒の中で文桐草が揺らめいている。瓶ごと軽く振って空気の玉を追い出し、最後の作業。
光が当たらないよう、蓋をした瓶ごと布で巻いて遮光し棚の下に保管する。
そして、蓋の上に百合の魔石の欠片をぽいと置いた。
…この工程、母だったら魔石砕いて薬湯の中に放り込んでいた。
でもいくら濾すとはいえ砕いた石を入れるのは躊躇われた。それにこの百合の魔石を使う時はクライヴに話を通す必要があるのだ。
あまりにも黒魔術的すぎるというか、突飛な使い方を説明する気にはならなかった。
「初めて作った薬草酒だから、お守りとして魔石を置いて置こうかしら」という言い訳がギリ理性の範囲内である。
そう言うと、クライヴは怪訝な顔をして、
「はあ、お守りですか。…美味しくできますように、と?」
「…そうですね」
「魔石を置いておくと美味しくなるとは寡聞にして存じ上げませんでしたが」
という至極真っ当なツッコミをいただき、しばらくの間思い出してはベッドの上で頭を掻き毟ることとなったが。
まあこうして今の私に出来る限りの細心の注意を払って、文桐草の仕込みが完了した。
あとは蒸留酒に色が移るくらいまで毎日瓶を振ってあげればいい。
こういう下準備をいくつかの薬草でやらねばならない。森の雫フィッツロイver.完成までの道のりはまだまだ遠いのだ。




