刺繍
昨日とは打って変わっての晴天。
朝からみっちりと詰まっていた大陸語のレッスンも難なく終わり、部屋に戻りメイに淹れてもらったお茶をいただいて一息ついた。
特急で揃った一式に思いを馳せる。
白いハンカチ、色鮮やかな糸、昨日書籍館で書き写した図案と刺繍枠、そして裁縫道具。そう、刺繍の準備である。
勢揃いした道具たちを見て、刺繍ってすごく貴族の令嬢っぽくない?とアホな感想を抱いてしまった。
とはいえ今生では初めて針を握る。一般的には刺繍のレッスンはもう少し年を重ねてかららしく、用意してもらった裁縫道具はどれも大きめだ。
もう一つの方はどうだと三十余年の記憶をひっくり返してみたが、刺繍らしきことといえば刺し子の練習布を放り出したところで途切れていたから期待薄だろう。
「お嬢様、グレタ・リジウェイ様がいらっしゃいました」
「お通ししてください。メイ、用意をお願い」
部屋の外からの声がけにカップを戻して応える。
メイは手を重ねてお辞儀をすると、お客様をお迎えするために部屋を出たのだった。
「コーネリア様」
「リジウェイ夫人、本日はおいでくださって有難うございます」
「お誘いいただけて嬉しいわ。少し背が高くなられたかしら」
庭園を臨む日当たりのいい部屋で両手を広げるようにして私を迎えてくれたのは、フィッツロイの分家のひとつであるリジウェイ家の奥様だ。
その夫君であるリジウェイ子爵はご当主様の側近の一人とかで、そのためか私に対して含みのあるものの言い方をしなかった珍しいお家のひとつだった。
夫妻と正式に言葉を交わすのはフィッツロイ公領での披露目のとき以来となる。
夫君は職務上このお屋敷に通ってらっしゃるが、滅多に顔を合わせない。私の生息領域が自室を含む二階のエリアということもあるけれど、わざわざ探し出すということをしなければ広いお屋敷の中で幼児とエンカウントする確率は低いのだろう。
そういうところを含め、同じ分家でもレンフィールドとは大分違う。
お辞儀をしてリジウェイ夫人をソファへ誘う。
リジウェイ夫人はにっこり笑った。
「クローディア様へのお誕生日のプレゼントと聞きましたわ。手巾に刺繍をされるとか」
「何をお贈りしようか悩んでおりましたら、ご当主様が提案してくださいました。夫人は刺繍の名手と伺いまして、ほんの少しでもお話が聞ければと…」
「まあ、私の腕なんてそう大したものでもないのだけれど。でも頼ってもらえて光栄です。図案は決まっているの?」
「みどり芽吹く蔦と幸運を運ぶ小鳥、赤い実りにしようかと」
健やかに育ちますようにとの思いを込め選んだものだ。図案をまとめた紙を見せる。
事前にメイに見せたら「無難で大変よろしいかと」と一刀両断にされたが、リジウェイ夫人は「素敵ね」と微笑んでくれた。沁みた。
そもそも間近に迫ったクローディア様、御当主様と奥様の女児である、のお誕生日に際しては私からは本をお贈りする予定であった。
もちろん私は金銭を所有していないのでフィッツロイが支払うのであるが、その分吟味をさせてもらい、これぞという絵本を選んだのだ。
それがひっくり返ったのが数日前のこと。
大変珍しいことであるがお屋敷のなかで御当主様とすれ違った際に、脈絡もなく突然言われたのだ。
「クローディアには刺繍を贈ってやれ」と。
あとはもう、ぽかんとする私を他所にメイが必要な道具を揃え、クライヴがリジウェイへ打診をし、こうして今日に至ったというわけである。
御当主様の思惑はさっぱり分からないが、何としても反抗したいという類のものでもないし、揃えてもらった道具にはなんだかときめいた。図案を考えるのも案外楽しかったため流されたままでいる。
「コーネリア様は針を初めて触られるのですよね。でしたら、まずは使う道具の説明からしましょうか」
「はい、お願いします」
夫人が裁縫道具や刺繍枠を手に取り、簡単にどういうものか、どんな時に使うものか話すのをじっと聞く。
夫人は淡く微笑みながら、時おり失敗談なども混ぜて話をしてくれた。6歳児が退屈しないようにと気遣ってくれているのだろう。
最後の裁ち鋏を両手で箱に戻し、夫人は照れたように笑った。
「…少し喋りすぎてしまったわ。ごめんなさいね」
「いいえ。とても素敵なお話ばかりで、聞き入ってしまいました。私もこの道具たちを大切にしようと思います」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
冷めてしまったお茶を下げ、メイが新しいカップにお茶を淹れてくれる。
夫人はありがとう、と優しく言うとこちらを向いた。
「次は実際に触ってみましょう。針と糸を持って、ああ、気をつけてね」
「はい」
「糸を通してみて。良いわね、ちょっと練習してみましょうか」
手渡された練習布には直線や図形が並んで描かれている。
「これはね、娘に刺繍を教えるのに用意したものなのです。良かったら使ってやってくださいな」
「わ、ありがとうございます。夫人がご一緒されているならお嬢様も将来刺繍の名手になられますね」
「あの子は堪え性がなくて、刺繍は本当に向かないの。布を刺すより指を刺す方が多くてクラヴィアが弾けなくなってしまうと、最近はもう近付こうとしないのよ」
夫人は嘆くように言い小さく肩をすくめた。
クラヴィアは鍵盤楽器のひとつだ。
刺繍は淑女の嗜みと言われるのに対し、音楽は貴族の嗜みと称される。なかでも音域が広く多彩な表現が可能なクラヴィアは華やかで叙情的であり、男女問わず好んで演奏する者が多い。
そういうわけだから引き合いに出されると強くも言えないのだろう、夫人は寂しげだったが半ば諦めてもいるようだった。
「だから、今回のお話はとても嬉しかったのです。あなたには退屈かもしれないけれど、少しだけお付き合いいただける?」
「付き合うだなんて…私こそ出来の良い生徒ではありませんけれど、気持ちを込めて刺しますからどうかよろしくお願いします」
慌てて言えば、夫人は嬉しそうに笑った。
夫人のアドバイスをもとに下絵に沿って針を進める。
集中したためか直線と図形二つを縫い終わるとほうっとため息が出た。
「綺麗にできていますわ、コーネリア様。今日はここまでにしましょうか」
「はい。こんなに細い針ですのに、思ったように動いてくれないものなのですね」
「じきに慣れましょう。次はもう図案に移っても良いかもしれませんね。何度も縫っていくうちに分かってくることもありますわ」
なるほど、それで白いハンカチが束になっていたのですね…。
しかし、と握りしめていた練習布を広げる。
自分が思っていたよりも私は不器用だった。刺し直し過ぎて練習布は穴だらけである。何度か指先を刺しそうにもなったし。
こんな状態でハンカチに着手して大丈夫だろうか。穴だらけ、血だらけの呪具じみたハンカチが爆誕しないだろうか。
…そうなったら、御当主様に責任取ってもらおう。そうしよう。




