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白い部屋  作者: 深津メイ
8/9

8.出口

 伯父と小夜子さんは靴を履き、外へと出た。

 煌々と照らす青い月明かりで、辺りがはっきりと見えた。

 伯父と小夜子さんは手を繋いだまま街道を てくてくと歩きながら、山裾の際の向こう側を目指した。

 コオロギがあちらこちらで鳴いている。

 伯父は深まり行く秋を感じていた。

 もう少し経てば、この辺りは紅葉が始まり、山々が美しく彩られるにちがいない。

 伯父は山々を見上げ、真ん丸い月を見た。

 ふたりを照らすそれは、どこまでも黙ったまま後をついてきた。

 山裾の右カーブを抜けた。視界が一気に開けた。

 青い月明かりの中に白く浮かび上がった道は、お椀を伏せたような丸い丘を目指して真っ直ぐ延びていた。

 芝なのか、何かの草が丘の表面を覆っていた。

 その天辺にはこんもりと葉の茂った大木が一本生えていた。

 そしてその麓の平坦な道の両脇には、漫珠沙華が一面に咲いていた。

 月の光のせいなのか、その妖しげな赤い色は影を潜め、淡く青いユリの花のように伯父には感じられた。

「すごいな、ここ」と伯父は言った。

 小夜子さんも頷いた。

 漫珠沙華の中の一本道を二人して歩きながら、小夜子さんが言った。

「写真、撮ってくれるかしら?」

「写らないよ」伯父はそう言った。「フラッシュ無いし」

「そうなんだ」と、小夜子さんは少し寂しそうな表情を浮かべた。

「そんな顔をするな」伯父は言った。「ダメでもともとだ。写真撮るから、笑ってみな」

 伯父はファインダーを覗き、彼女にカメラを向けた。

「表情が暗いぞ」伯父は言った。「せっかくの美人が台無しだぜ」

「暗いのは夜のせいよ」彼女は笑った。

「いい顔になった」そう言って、伯父は何度もシャッターを切った。

 まるい丘を登り始めた。

 松杭の階段が天を目指すように延びている。

 思ったよりも急峻だ。

 伯父は小夜子さんの手を引きつつ、時折ファインダーを覗いた。

 上目遣いに伯父を見る彼女は、妖しげな美しさを帯びていた。

「お前は、どうしてこうも美しいかね?」伯父は言った。

 伯父にとっても、それは新鮮な驚きだった。

 表情の一つ一つが愛おしく、何気ない仕種の一つ一つが可愛く思えた。

「なんなの、あらたまって?」彼女は微笑んだ。

 伯父はシャッターを切った。

「俺が理解してたと勝手に思い込んでいたものは、実はそれの極一部に過ぎなかったんだと今初めて気づいたよ。」

 丘の頂上に着いた。

 そこにはブナの巨木が生えていた。

「まぁ、大きな木」小夜子さんが巨木を見上げながら言った。

 二人してそれに近づいていった。

 ごつごつと瘤のできた幹に、二人で抱きついた。

 互いの両手が触れるには、あと三人か四人分足りない感じだった。

「樹齢にしてどれくらいなんだろうな?」

 伯父は幹を見上げつつ、裏側の小夜子さんに訊いた。

「解らないわ」小夜子さんの声が答えた。「でも、ずっとずっと昔からここでこうしてるんでしょうね」

 小夜子さんはブナの幹に耳を当てた。

 幹の中を何かが流れていく音がする。

 それは川のせせらぎのようにも聴こえた。

「川が流れてるわ、木の中に」小夜子さんが言った。「渓流かしら?」

 伯父も耳を当てた。

「本当だ」彼は言った。

 ふたりは暫くそうやって巨木の中を流れる水脈に耳を傾けた。

「利根川だな。源流手前の幽ノ沢だ。たぶん」伯父が言った。

「なんで、幽の沢なの」小夜子さんが訊いた。

「理由なんかないさ」伯父は答えた。「俺がお前をこんなにも好きで、愛していることに理由がないようなもんだ」

 小夜子さんは少し驚いた。

 そして幹から耳を離し、伯父を見た。

「うれしいわ、ありがとう」小夜子さんが言った。

 二人は手を繋ぎなおし、見晴らしの良いところへ歩いた。

「初めてね」小夜子さんが言った。

「何が?」伯父は訊いた。

「私のこと、あなたの方から愛してるよとか好きだよとか言ってくれたの」小夜子さんは微笑んだ。

「言ってたはずだけど、言ってなかったか?」伯父も微笑んだ。

「言ってくれてなかったわ。プロポーズの時だって……」小夜子さんが言った。「でも、本当にうれしいのよ。私ね、ずっと待ってた気がするの。すっと、ずぅっと昔から貴方のこと」

「バカ、照れるよ」伯父は言って、はにかむように笑った。「真んまるお月さんのせいだな」

 円い月はいよいよ高くなり、その輝きを増してふたりのいる丘を照らした。

 柔らかな風が、ふたりの頬を撫でていった。

 ぱちぱちと、何かが爆ぜるような音がした。

 伯父は耳を澄ますように、手のひらを耳の後ろにかざした。

「小夜子、この音」

 小夜子さんも耳を澄ませた。

「私を迎えに来たのかしら? 月からの使者ね、きっと。」彼女は寂しそうに微笑んだ。「竹取物語みたいだわね」

「嘘だろ?」その言葉が虚しいものであることは、伯父にも解っていた。

 麓を見下ろすと、華奢な漫珠沙華の花弁から煙のようなものが細く立ち昇り始めていた。

 それは供えられた無数に線香のように伯父には感じられた。

 旅館の在る山裾から、霧の塊がまるで雪崩でも起こったように溢れ出てきた。

 音も無く一気に谷を満たし、ふたりのいる丘の頂を目指してせり上がって来た。

 見る間に、ふたりの足元は霧に包まれてしまった。

 伯父は、小夜子さんを抱き寄せた。

「俺も一緒に、お前の世界へ……」

 伯父がそう言うと、小夜子さんは悲しそうな表情を浮かべ、首を振った。

 腰の辺りまで、霧が満ちてきた。

「私のことは、忘れて」彼女は言った。「いい女性ひとと、いい家庭を築いて」

「バカヤロー」伯父は言った。「お前みたいな、バカヤローは忘れられるわけねぇだろう。生まれ変わっても、またきっとお前を見つけるぜ」

 小夜子さんの目から、涙が零れ落ちた。

「泣くな」伯父は言って、彼女の髪を撫でた。

「泣かないぞって思ってたんだけど、泣いちゃったね」

 伯父の胸に顔を埋めた小夜子さんが言った。

「もういい。何も言わなくていい」伯父は小夜子さんの背中を叩くように撫でながら言った。「俺のことは心配するな。だから、お前は安心して向こうへ行きな」

 白い霧が、伯父の首のところまで満ちてきた。小夜子さんは真っ白な霧に呑み込まれていった。

「ありがとう」小夜子さんの声が霧の中から聴こえた。

 伯父の頭が霧に包まれる頃、彼の腕から彼女の柔らかな身体の感触が萎むように消えていった。

 また独りぼっちだな、そんな思いが伯父の胸に押し寄せてきた。

 しかし、それはかつて味わったほど残酷なものではなかった。

 霧の中で、伯父の意識は薄れていった。



 目覚めたとき、伯父は暗闇の中にいた。

 雲に隠れていた月が夜空に再び現れると、辺りがぼんやり明るくなった。

 見慣れた風景だった。

 諏訪若御子神社の社だ。

 どうやら賽銭箱に凭れ掛かるように眠ってしまったらしい。

「全部夢だったのか?」伯父は呟いた。

 俯いていた伯父の視界に白いテニスシューズとサンド・ベージュのチノパンツの裾が見えた。

「いえ、すべて現実ですよ」

 男の声だった。

 伯父は顔を上げた。

 自転車。

 その傍らに立って、男はハンドルを握っていた。

「現実ですか?」

 伯父の問いかけに、自転車の男は頷いた。

「あなたの見聞きしたものは、すべて現実のことです」男は言った。「俄かには信じがたいでしょうから、首から提げたカメラのフィルムを現像に出してみるといいでしょうね」

 伯父はカメラに触れてみた。

 それはそうだ。あのようなこと、どこの誰が信じられるだろう。そう思ったら、自然と笑えた。パズルの足りなかったピースがはめ込まれたような気分だった。

「おかげさまで、良い旅が出来ました」伯父は言った。

「そうですか。それは良かった」男が言った。

「ありがとうございました」そう、伯父は言った。

「その言葉は」と男が言った。「小夜子さんに言ってあげたかったのではないですか?」

 一瞬、伯父は言葉に詰まった。

 そうだ。霧に巻かれながら、抱きしめた彼女に一番かけたかった言葉。

「参ったな。あなたには隠し事が出来ないですね」伯父は笑った。「俺は、小夜子に甘えてるんですよ。だから、素直にそれが言えなかったんでしょうね。でも、おかげさまで清々しい気持ちです。ちょっぴり寂しいですがね」

「そうですか」男は言った。「あなたにそう思っていただけて、私としては尽力した甲斐がありました」

「今度お会いするとしたら、俺が死ぬときですかね?」と伯父は訊いた。

「それは何ともお答えできませんが」男は笑いながら答えた。

「それじゃ、また会う日を楽しみにしていますよ」伯父も笑いながら言った。

「私もです」男はそう言うと、鳥居の方へ自転車を押して歩きだした。

 石畳の途中で、男は一度伯父の方を振り返った。

「一つ、言い忘れていました」男の声が闇に響いた。「あなたは独りぼっちなんかじゃありませんよ。あなたの身近に、新たな生命が誕生します。その生命があなたと小夜子さんの魂を受け継ぎ、伝えてくれるはずです」

 再び月が雲に隠れてしまった。

 男の姿も夜の闇に紛れて消えて行ってしまった。

 

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