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白い部屋  作者: 深津メイ
4/9

4.夫婦

 目覚めたとき、伯父は浴衣姿で布団の中にいた。

 障子に朝の光が差していた。

 視線を横に向けた。

 隣の布団には小夜子さんが眠っていた。

 霊安室での彼女の顔が、不意にフラッシュバックして甦った。

 小夜子さんの口元に掌をかざしてみた。彼女は呼吸をしていた。

 両手を頭の後ろで組み、シミのできた板張りの天井を伯父は暫くの間眺めていた。

 客観的に考えようとすればするほど、今いる状況が複雑であるように思えた。しかし主観に立てば、彼にとってこの上なく嬉しいことであることに間違いなかった。素直に状況を喜んでいいのだ、と。

 目だけを動かして、周りの様子を確かめた。

 裸電球。

 漆喰の白壁。

 白、……。

 どうやってこの場所へ来たのか、その記憶が伯父には全くなかった。

 小夜子さんを起こさないように静かに布団から抜け出ると、衣紋掛けに掛けられたシャツの胸ポケットからショート・ピースとマッチを取り出した。

 パッケージから一本抜こうとしたが、小夜子さんの寝顔を見てフィルターまで出しかけた煙草を戻した。そして、それらを袖の中に納めた。

 伯父は煙草を吸える場所を探すことにした。

 襖を開け、浴衣のまま廊下へと出た。

 ビニル製の茶色いスリッパが揃えて置かれていた。

 磨きこまれた板張りの床が、黒く光っていた。

 カケスの間。出てきた襖の隣に、そう標示された木彫りの表札がかかっていた。

 それぞれ襖の隣には、それぞれの表札がかかっていた。

 どれもが鳥の名前だった。

 旅館なのかと伯父は思った。

 三つ先の部屋の向かいに、下へと降りていく階段があった。

 階段は一段踏むときゅっと木材の軋む音がした。二段目も、三段目も同じだった。

 「鴬張りか」

 そう呟き、伯父は段数を数えながら早足で駆け下りた。

 「鶯が鳴きながら、谷を渡っていくようだね。よし、三十一段!」

 一階のそこはロビーだった。

 水墨画の屏風があり、本革張りの応接セットが置かれていた。

 伯父はそれに座ると、深く身を沈めた。

 袖下から煙草を取り出し、マッチで火を点けた。

 ショートピースの先端が赤々と燃えた。

 深く一回吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

 座ったソファーの向かいの奥に、ビロードの掛けられた箱のようなものが伯父の目に留まった。

 テーブルの上に置かれた灰皿にポンと灰を落とすと、咥え煙草でそれに近づいて行った。

 布を捲り上げてみた。

 高級家具のようでもあった。

「ビクターのステレオじゃねぇか」伯父は言った。

 木製の蓋を上に開けた。

 プレーヤーのターンテーブルにメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』のLP盤が置かれていた。

 プレーヤー下のキャビネットを開けた。

 ぎっしりとレコードが入っていた。

 その上に一枚のジャケットが無造作に横に置かれていた。『真夏の夜の夢』だった。

 伯父はその中からエチレン製の包みを出し、そこへレコードを入れ、ジャケットに納めた。

 そして、それを戻そうと隙間を見つけたが駄目だった。

 一枚を入れるためには、別な一枚を抜き出さなくてはならないほどぎっしりとレコードが詰められていたのだ。

 伯父はそのまま上に置いておこうかと思った。

 だが、別な一枚に指が触れたので、それを抜き出し、そのスペースに『真夏の夜の夢』をしまった。

 手に取ったジャケットに目を落とした。

 ドビュッシーだった。

 レコードを取り出し、ターンテーブルに載せた。

 スイッチを入れると、レコードが回りだした。

 伯父は針をそっと落とした。『夢』だった。

 煙草を灰皿で揉み消した。

 目を瞑り、ソファーに凭れた。

 ドビュッシーは素晴らしかった。

 循環しつつ全体が作られていくのだが、作品は小節を反映し、小節は作品全体を投影していた。

 曲が終わった時だった。

 誰かが伯父の肩を叩いた。

 伯父は目を開けた。

 振り向くと、浴衣姿の品の良さそうな初老の男女が微笑んで立っていた。

「おはようございます」と女性が会釈をしながら言った。「私たちも相席させていただいてもよろしいかしら?」

 伯父も微笑んで挨拶をすると、立ち上がって向かいの席を指し示すように右手を広げた。

 二人が座ったのを確認すると、伯父もソファーにふたたび腰掛けた。

「お加減は、もうよろしくて?」と女性が尋ねてきた。

「一体、何のことでしょうか?」伯父は訊き返した。

「昨夜ね、あなたったら、真っ青なお顔でこちらへ担ぎまれてきたんですのよ。」彼女は言った。「白いシャツを着た男の方がね、あなたをこの旅館まで担いで来てくださって。そのときはもう虫の息でしたから、私たちも本当に心配しましたのよ。奥様かしらね。可哀相で見ていられなかったわ」

 奥様という言葉を伯父は一瞬理解できなかったが、それが小夜子さんを指し示す記号として繋がると、伯父は女性に言った。

「僕たち、まだ結婚してないんです」

「お気持ちはあるんでしょ?」女性が訊いた。

「はい」伯父は答えた。「ただ、いろいろな事情がありまして、…」

「あら、理由ありのご様子ね」

 そんな彼女の問いかけに、伯父は苦笑いをするしかなかった。

 二人のやり取りを横で聞いていた男性が女性の膝をポンと叩いた。

「母さん、もうおよしなさいな」

「あら、だってあなた…」そう言うと、女性は口をつぐんだ。

 男性は伯父を見た。

「申し訳ありませんね。連れ合いが立ち入ったことを伺いまして」

 そう言って、男性は頭を下げた。

 二人は夫婦らしかった。

「特に訊かれて困る関係ではないのですけどね」笑いつつ、伯父は言った。「でも少しばかり説明するのが難しいというか、複雑なんです」

 三人の間に、暫く沈黙が生まれた。

 レコード針が行き場をなくし、ターンテーブルの中心付近を彷徨いながらパチパチという雑音を拾い集めていた。

 伯父は立ち上がった。

 ステレオのところまで行くとレコード針を元へ戻し、スイッチを切った。そして、静かに蓋を閉めると、ビロードの布を元通りに掛けた。

「実は、私たちも理由ありなんですよ」不意に旦那さんが言った。

 伯父は振り返り、旦那さんと奥さんの背中を見つめた。

「あなたの彼女は、もう既に亡くなっていらっしゃるのでしょう?」旦那さんが言った。「私たちも同じなんです。」

 伯父はソファーにゆっくりと座ると、またショート・ピースに火を点けた。

「参ったな」伯父は煙を吐きながら、そう呟いた。そして、今までに至る経緯を彼らに話して聞かせた。

「それは何ともお気の毒なことでしたね」奥さんが言った。「私、てっきりあなたが他に恋人を作ってしまって、彼女が悲観してしまったのかと思いましたの。それで、あの男の方が夢を装ってあなたをここへお連れになったんだとばかり」

「俺がそんな悪党に見えました?」伯父は笑った。「でも、夢の中でそんな風に懲らしめられるってあるんですね?」

「懲らしめるとか、罰を当てるとか、そういうためのものではありません」旦那さんが言った。「不思議ですね。これも何かのご縁かと思いましたよ。結論からすると私どもはあなた方をずっと待っていたんでしょうな。大きな渦の中で、星々のぶつかり合いや誕生、或いは消滅のように、互いに引っ張り合う何かを持っていたんでしょう。あなた方と私どもは本当に会うべくして、会ったのです」

「会うべくして、…ですか」伯父は煙草の火を灰皿で叩いた。

「そうです」そう言って、旦那さんは笑った。「赤い糸で結ばれた恋人のようですよ」

「どういうことです?」伯父は訊いた。「俺にはまったく理解できませんが」

 旦那さんは奥さんを横目で見た。旦那さんと目が合うと奥さんはにっこり笑い、頷いた。

「よろしいでしょう」旦那さんが言った。「あなた、お時間はありますかな?」

「あるようで、無いらしいです」伯父は笑った。「時間は俺の都合なんて待ってはくれないみたいですから、善は急げです。今すぐ出来ることは、今伺っておくべきかと思いますが」

「これは何ともせっかちな」旦那さんは言った。

「そうですわよ」奥さんも笑いながら言った。「せっかちは、いけませんことよ」

「参ったな、どうも」そう言って伯父も笑った。

 山鳩の鳴き声が聞こえてきた。

「本当にここで会ったのも、何かのご縁なのでしょうね。もし都合が許すのであれば、是非ともお昼前の、そうですね十時頃でしょうかね、私たちの部屋へお越しいただけますかな?」と旦那さんが言った。「あなたと、彼女にお見せしたいものもありますので」

 伯父は午前十時に部屋へ行くことを約束し、部屋の名前を訊いた。

 彼らはソファーから立ち上がった。

 伯父に軽くお辞儀をすると、静かに階段を上がって行った。

 やはり板張りが軋み、きゅっきゅっと音がした。

 伯父は煙草を消した。

 肺からゆっくり煙を吐き出すと、ソファーから身体を起こした。

 一旦部屋へ戻ろうかと思ったが、外を少し散歩してみるのも悪くないなと思った。

 伯父は玄関へと向かった。

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