5.庭番と配膳男と贈り物
三和土には、男物の下駄と女物の下駄が五組ずつ、きちんと揃えられて並べられていた。
伯父はその中の一つを突っかけると、磨りガラスの戸を引き開けて外へと出た。
外はすっかり明るくなっていた。
藍染めの絣を着た若い男が、旅館正面の街道の掃き掃除をしていた。
彼は伯父よりも年下に見えた。
髪を短く刈り込んでいるせいなのか、見た目は十代後半か、二十代前半かといったところだった。
庭番の男の子、と伯父は思った。
伯父はその男と目が合った。
「おはようございます」
お辞儀をしながら男に声をかけた。
男は微笑み、ゆっくりとお辞儀をした。
それは日頃からそのようにしているために出てくる、押し付けがましくない自然な印象の慇懃さであった。
彼の笑顔も無理に作ったものではなく、自然と生まれてきたものであるように、つまり昼の太陽や夜の月のように、或いは山や川のように昔からずっとあるもののように伯父には感じられた。
とても晴れ晴れとして、清々しい印象だった。
「いい天気ですね」
空を見上げ、伯父は更に話しかけた。
男は微笑んだままだった。
伯父は少し不思議に思い、自分の耳を指さして「聞こえる?」という身振りをしてみせた。
男は微笑んだまま首を横に振った。
それを見て、伯父も納得したように微笑んで頷いた。
「さて、訊きたいことがあったんだけどなぁ」と伯父は呟いた。
暫く彼の仕事を眺めながら、伯父は彼と意思の疎通を図るための方法を考えいた。
閃いた。
若い男の肩を軽く叩いた伯父は、小石を手に取り、彼に微笑んだ。彼は少し首をかしげる仕種をしたが、表情は柔らかだった。伯父は地面に文字を書き始めた。
この辺りで景色の良い所とかありますか。
若い男はそれを見ると、笑い、大きく頷いた。
そして、箒の柄の部分で地面に文字を書き始めた。
それは非常に美しい文字だった。
あります。
この街道を真っ直ぐ、山に向かって歩かれるといいです。
行かれれば、きっとわかります。
伯父は街道の奥の方に目をやった。
道は緩やかに右に曲がって伸びていた。
右にこんもりとした森があり、左には田んぼが山すそまで広がり、道の脇に沿うように小川が流れていた。
その場所は近いですか。
伯父がそう地面に書くと、若い男はさらりと書いた。
近いです。歩いて五分ほどです。
伯父は男の腕時計に目が留まった。
彼に時間を尋ねた。
彼は笑顔のまま伯父に時計を嵌めた方の腕を差し伸べた。
伯父は時計を覗き込んだ。
七時二十分。
もう小夜子さんが起きているだろうと、伯父は思った。
若い男に手を合わせるようにしてお礼をすると、伯父は一旦部屋へ戻ることにした。
玄関に入ると、中年の男性がお膳を抱えて慌しげに歩いていた。
しかしながら、足袋を履いた足は物音を立てるでもなく、軽やかに廊下を歩いていくのだった。
伯父は下駄を揃え、上がり框に足をかけ、スリッパを履くとロービーを抜け、階段の方へ歩いていった。
歩くとスリッパが床を叩き、踵を打った。
そのたびにペタッペタッというリズムが廊下に響いた。
伯父はスリッパを脱いぎ手に持った。
あの中年男のように早足で歩いてみた。
やはり、彼のように静かに歩けなかった。どうしても踵が床を叩くのか、鈍い打撃音が足元で鳴ってしまうのだ。
今度は、爪先だけに神経を集中して歩いてみた。
音はしなくなった。しかし、爪先歩きのようになってしまい、思ったように速く歩けなかった。階段でも鴬張りが鳴ってしまった。
階段を昇り終えた伯父は、二十八段しかないことにふと疑問を感じた。
降りた時の段数は確か三十一段だったように記憶していたからだ。
もう一度確認で降りてみた。やはり、三十一段だった。
首をかしげつつ、再び昇った。
すると、今度は三十段だった。
何だか数え方が悪いのか、狐につままれた気持ちだった。
昇ったり降りたりをを何度も繰り返した。
何度目だったろうか。降りた時と昇った時の段数がようやく合った。
伯父は少しばかり腑に落ちないところはあったが、取り敢えずはそれで部屋へ戻ることにした。
部屋に戻ると、小夜子さんはすっかり目覚めていて、制服に着替えていた。
帰ってきた伯父を見ると、正座で座りなおした。
「おかえりなさいませ」
そう言いながら小夜子さんは三つ指をついて出迎えてくれた。
「おいおい、そんな仰々しくされると調子狂っちゃうんだけど」伯父は笑いながら言った。
「一度、してみたかったのよね」小夜子さんも悪戯っぽく笑った。「あなた、お腹減ったでしょ?」
「当たり」伯父も笑った。「解るかい?」
小夜子さんは頷いた。
「さっきね、食事の準備ができましたって男の方が来てくれたわ」小夜子さんが言った。
「下に降りるのかな?」伯父は訊いた。
小夜子さんは首を振り、山と川の水墨画が描かれた襖を指差した。
伯父がそれを引き開けると、二膳とお櫃、そして魔法瓶がきちんと4畳半の真ん中に揃えられていた。
二人して、隣の部屋へ移った。向かい合うように座布団に座った。
納豆、たまご、それにたくあんと茄子の浅漬けが三切れずつ、シジミのお味噌汁がゆらゆら湯気を立てていた。伯父たちからすると、それは大変豪華な朝食だった。
小夜子さんが茶碗にご飯をよそってくれた。
伯父は彼女に礼を言い、いただきますと手を合わせた。
ご飯を一口、口の中に放り込んだ。
噛みしめるほどに、燦々と降り注いだ日光の結実した豊かな味わいが広がっていった。
「うめぇなぁ」伯父は言った。
小夜子さんは、それを見て嬉しそうに微笑んだ。
二人で朝食を食べながら、伯父は今朝あったことを小夜子さんに話して聞かせた。
その間、ずっと彼女は頷いて微笑んでいた。
食事を終えたところで、小夜子さんが茶筒を手にとり、蓋を開けた。
伯父は小夜子さんの指先を見つめた。彼女は親指と中指で匙を摘むようにし、その頭に人差し指を添えるようにしてそれを押さえた。
一杯、二杯、三杯。
それが小夜子さんの流儀だった。
流れるようにしなやかな彼女の指の動きが、伯父は好きだった。
「あなたが話してくれた、その二つのこと」と、小夜子さんは魔法瓶のお湯を急須に注ぎながら伯父に言った。「何だか興味が湧いてくるわね。どんなことが待っているのかしら?」
「解からないな」伯父は小夜子さんからお茶を貰うと、啜りながら言った。「二人とも、そこに行くと解かるみたいだからね。勿体つけないで教えて欲しいね」
「あら、解かったら楽しみがなくなっちゃうわ」彼女は笑って言った。
「そいうものかな」と言って、伯父は立ち上がると隣の部屋の卓袱台から腕時計取り上げた。
まだ、八時前だった。
伯父は障子を開けた。
畳ほどの幅の縁側になっていた。
縁側のところにも障子窓があった。
伯父はそれを開けた。
自然光が直に差し込んできた。
庭園だった。
窓の下には澄んだ水を湛えた大きな池があった。早朝目にした小川が流れ込んでいるのだろうか。
鏡面のごとき水面には、周りの山々が映りこんでいた。
周囲には松が植えられ、所々に碧い三波石が配されていた。
視界の左側のところには鳥居と朱塗り橋が架かっていて、それは池の中央に向かって弧を描くように伸びていた。
池の真ん中には茶室ほどの社が見えた。
伯父は視線を上げた。
山間の棚田の風景が、まるで競り上がっていく客席のように、喝采を内に秘めつつ穏やかに静寂を保っていた。
視界の右側、旅館の建物の端に先ほどの山裾が見えた。
今朝見ることができなかったその奥を、わずかに窺うことができた。何かが赤らんでいるように伯父には思えた。
伯父は小夜子さんを呼ぶと、二人でその景色を眺めた。
「ね、ちょっと行ってみましょうよ」小夜子さんが言った。「まだ時間は大丈夫よね?」
伯父は頷き、早速浴衣を脱いで着替えようとした。
「あ、そうだ」と伯父が独り言のように言った。「小夜子、そこのバッグにお前の服を用意してるんだ。開けて見てごらん」
小夜子さんは言われたとおり、バッグを開けた。
綺麗に包装紙で包まれた荷物が何個か入っていた。
「開けても良いかしら?」嬉しそうに彼女は訊いた。
「もちろんだよ」伯父は笑顔で頷いた。
小夜子さんは包みをそっと開けた。
淡いベージュのスリムなシルエットのコットンパンツ。白地に桃色のピンストライプが入ったブラウス。ターコイズブルーの薄手のカーディガン。青紫に白い刺繍をあしらったブラとショーツ。そして、小箱がひとつ。
「女性店員にさ、お前のイメージを伝えたら、これが良いって奨められたんだよ」伯父は下着に目をやりながら、照れを隠すように言った。
「私は好きよ。ありがとう。本当に、嬉しいわ」小夜子さんは伯父の目を見つめて言った。「この箱は、何かしら?」
伯父は答えるべきか、躊躇った。
小夜子さんが小箱を開けた。
「あ」彼女は驚いて声を上げた。「そうだったんだ」
「そう」伯父は言った。「いろんなことの処理に追われてね。忘れてたというのもあったんだけど、これを断ると、何だかお前を無碍に捨てるような気がしてな。俺の中で噛み砕いて納得できるまで、持っていても良いんじゃねぇかなと思ったんだ」
小夜子さんは小箱からプラチナの指輪をひとつ、右の人指し指と親指で摘み上げた。彼女はそれを左の薬指に静かに嵌めた。
「あなたにも、してあげる」そう言って、彼女はもうひとつの指輪を手に伯父のところへ来た。
彼女は伯父の左手を取ると、薬指に指輪をそっと挿しいれた。
伯父は小夜子さんを見つめた。彼女の瞳は潤んでいた。
熱くこみ上げてくる衝動に、伯父は突き動かされそうになった。
「さぁ、早く着替えて行こうぜ」彼は言って、伯父は彼女から離れた。
小夜子さんは頷いた。
服を手に縁側へ出ると、彼女は障子を閉めた。
彼女の影がそこに映し出された。
女の影はブラウスのボタンを外し、白い薄絹が淡い影となって彼女の身体を離れていった。
サイドのホックが彼女の美しい指先の妙技で外され、はらりと肢体から滑り落ちた。
「なぁ、小夜子」伯父は彼女に話しかけた。「俺さ、下で待ってるわ」
「ダメ。そこで、私を見ていて」そう言うと、彼女はゆっくり下着を脱いだ。
彼女の指先からそれらの淡い影が離れていくたびに、梅や桜の花びらがはらはらと散るイメージが伯父の頭の中に浮かんでは消えていった。
「ねぇ、私を見たい?」一糸纏わぬ小夜子さんの影が言った。
「何を馬鹿なこと言ってるんだ」そう言うと、伯父は深く息を吸った。「だけど、見たくないというと、それは嘘になる」
伯父は障子を開けた。
右腕で胸を隠すようにした小夜子さんを、伯父は抱き寄せた。
小夜子さんは目を閉じた。
伯父は彼女に口づけした。
二人は熔け落ちるように、床に転がった。たぎった熱を確かめ合うように、伯父も小夜子さんも互いを交わした。
極みに昇りつめ打ち震えた二人は、暫くぼんやりとシミのできた板張りの天井を眺めていた。
小夜子さんは素肌に浴衣を纏い、新しい服を持ってお湯を浴びに行った。
伯父は彼女を待つ間、全裸で窓辺にもたれながらピースを3本吸った。青い煙が、どこまでも青い空に吸い込まれるように消えていった。
最後の煙草を灰皿で消すと、彼は小夜子さんが畳んでいった服を着た。
新しい靴下を履こうとしている時だった。小夜子さんが真新しい服で部屋に戻って来た。
「流石、何を着させても似合うね」伯父は言った。
「あら、お見立てが良かったのよ」と言って彼女は微笑んだ。
伯父は腕時計に目をやった。約束の時間の十分前になっていた。
「例の夫妻に会って用事が済んだら、耳の聞こえない庭番が教えてくれたところへ行ってみよう」
そう伯父が言うと、小夜子さんは静かに微笑み、頷いた。




