第七十二話 開かれた一頁
レインが前室へ戻ると。
三人は、同時に黒い本を見た。
「あったのか。」
トーマが立ち上がる。
「同じ本ですか?」
「見た目は。」
レインは机へ置いた。
「でも、まだ照合してない。」
表紙の右下に、細い傷。
黒ずんだ留め具。
背表紙には、題名がない。
初めて拾った時の記憶と。
一つずつ比べる。
「傷の位置は同じです。」
セレスが帳面の絵を見る。
「留め具も。」
「見つけた場所は違う。」
ガレスが言う。
「最初は床。」
「今回は棚の中です。」
「誰かが戻した?」
「深部へ入れたのは、レインだけです。」
司書が答える。
「少なくとも、私が知る限りは。」
だからといって。
本が勝手に戻ったとも決められない。
最初から別の本だった可能性もある。
レインは推測を二つに分けて書いた。
◇
「開きます。」
レインの指が、留め具へ触れる。
「待て。」
ガレスが全員を机から離した。
司書が紙の周囲へ導石を置く。
学院長も扉の近くに立った。
「異常があれば、すぐに閉じます。」
「はい。」
留め具を外す。
乾いた音がした。
表紙を開く。
最初の頁には。
文字が一つだけ書かれていた。
アルディア文字ではない。
日本語だった。
「……蓮。」
レインは声に出した。
「レン?」
トーマが繰り返す。
「何と書かれているんですか?」
「蓮。」
レインは帳面へ同じ文字を書く。
「日本では、植物を表す字でもある。」
「人の名前にも使う。」
「名前なんですか?」
「この頁にあるだけでは、まだ分からない。」
表紙にも。
頁の上にも。
名前だと示す言葉はなかった。
ただ。
一文字だけが、中央に残されている。
◇
「クロニクルは。」
ガレスが尋ねる。
レインは文字へ指を近づけた。
【記録情報を確認】
【言語:日本語】
【文字情報:蓮】
【名称情報との照合を実行します】
少し長い間。
【名称候補:判定保留】
【対象識別との接続:確認できません】
「名前の可能性はある。」
「でも、誰のものかは分からない。」
「百年前の勇者とは?」
【照合情報が不足しています】
「現在の魔王。」
【照合情報が不足しています】
同じ答えだった。
◇
司書が導石の光を弱める。
文字を正面から。
次に、斜めから照らした。
「削られた跡はありません。」
「王都の台帳とは違う?」
「はい。」
紙の表面は滑らかだった。
切り取られた場所もない。
文字の周囲だけが傷んだ様子もない。
「消えずに残ってる。」
トーマが言う。
「名前かもしれないものが。」
これまで見つけた名前は。
切られ。
削られ。
参照できず。
本人も口にしなかった。
けれど。
この一文字だけは。
紙の上に、そのまま残っている。
「文字の状態を確認。」
【文字情報:保持】
【物理的欠損:なし】
【参照先:未接続】
「消された文字じゃない。」
レインは表示を書き写す。
「でも。」
「誰を指すかは、つながってない。」
「文字が残ることと。」
セレスが言った。
「その人の名前として残ることは、違うんですね。」
一文字は読める。
意味も分かる。
それでも。
その向こうにいる人までは見えなかった。
一文字を見つけただけで。
百年前の勇者の名前と決めることはできない。
「次の頁は?」
トーマが尋ねる。
レインは一枚めくった。
何も書かれていない。
もう一枚。
白紙。
最後まで。
目に見える文字はなかった。
司書が白紙の頁も、一枚ずつ確かめる。
光へ透かし。
指を触れずに、表面の凹凸を見る。
「書いた跡もありません。」
「最初の頁だけか。」
「現時点で確認できるのは。」
余白があるからといって。
消された文章があったとは限らない。
白紙は。
欠損ではなく、最初から白紙かもしれない。
「名前が一つだけ。」
セレスが最初の頁を見る。
「名前かもしれない文字、です。」
レインは言い直した。
「今、分かっているのは。」
「日本語の『蓮』が残されていたことだけ。」
勇者でも。
魔王でもない。
一つの呼び方が。
ようやく、空白の端へ現れた。




