第七十一話 最初の黒い本
禁書庫の扉が開く。
古い紙と、乾いた木の匂い。
北方へ出る前と。
何も変わっていないように見えた。
「ここで待つ。」
ガレスが言う。
前室の奥。
レインだけを通す境界が、淡く光っている。
「一人で進める範囲を決める。」
「円形の部屋まで。」
「新しい扉は開けない。」
「表示が変わったら戻る。」
「体調に異常が出ても戻る。」
「分かりました。」
「本当に?」
トーマが尋ねる。
「先生と同じこと言わなくていいから。」
「俺は確認しただけだ。」
「前にも、その返事を聞きました。」
セレスまで加わる。
「戻ってくる。」
レインは二人を見る。
「見つけても、一人で答えを決めない。」
それを聞いて。
ガレスが境界から離れた。
「行け。」
◇
一歩、越える。
背後の声が遠くなる。
石の階段を下りながら。
レインは壁へ手を触れなかった。
初めて来た時は。
何もかもが、自分を呼んでいるように感じた。
今は。
呼ばれている、とは思わない。
ここに記録がある。
自分には、一部を読める。
分かっているのは、それだけだった。
階段の途中で。
右手が、わずかに熱を持つ。
十六歳の誕生日の前夜。
夢の中で、黒衣の男へ触れた場所。
北方から戻ってからも。
時折、同じ熱を感じていた。
「記録。」
レインは足を止めて帳面を開く。
『右手に熱。痛みなし。』
『黒い本との関係は不明。』
感じたことを。
答えへ変えない。
書き終えると。
熱は、もう消えていた。
◇
円形の部屋へ着く。
壁には。
今も日本語が残っていた。
『これを読める者へ』
その下にある文章も。
以前と同じ。
レインは壁ではなく。
床を見る。
「ない。」
黒い本は落ちていなかった。
最初に見つけた場所。
壁際。
机の下。
棚の隙間。
見当たらない。
「閲覧履歴に一致する記録を表示。」
【検索中……】
【現在位置との一致を確認】
「場所は、ここ。」
【記録媒体との接続を確認できません】
接続できない。
名前の表示と似た言葉だった。
だが。
同じ現象とは限らない。
レインは帳面へ、そのまま書いた。
◇
もう一度。
最初の日の順番を思い出す。
階段を下りた。
円形の部屋へ入った。
足元で音がした。
黒い本を拾った。
表紙を開いた。
文字は読めなかった。
それから。
壁が光った。
「最初から、ここに落ちてたんじゃない。」
レインは呟く。
あの時。
本が床へ落ちる音を聞いた。
どこから落ちた?
上を見る。
円形の壁を埋める棚。
高い場所にも本が並んでいる。
一か所だけ。
黒い背表紙の間に、細い空間があった。
「あそこだ。」
手は届かない。
部屋の端にある梯子を運ぶ。
一段。
また一段。
空いた場所の奥へ、指を入れた。
何かに触れる。
本ではない。
小さな金具。
押す。
棚の下で。
乾いた音がした。
――コトン。
レインは梯子を下りる。
壁の一部が、少しだけ前へ出ていた。
隠し扉ではない。
本を一冊収めるだけの、浅い箱。
箱の縁には。
薄く埃が積もっている。
開いた形跡が新しいかどうかは。
レインには分からない。
帳面へ。
棚の位置と、金具の形を書く。
見つけた順番も。
押した場所も。
一人で見たものほど。
細かく残す必要がある。
その中に。
黒い本があった。
最初の日に見たものと。
同じ傷。
同じ留め具。
同じ本だと、思う。
けれど。
まだ照合していない。
「見つけた。」
声が。
円形の部屋へ小さく響く。
レインは、すぐには開かなかった。
開けば。
今度こそ、読めるものがあるかもしれない。
名前が。
書かれているかもしれない。
指先が留め具へ伸びる。
そこで止めた。
一人で答えを決めない。
そう約束した。
黒い本を抱え。
レインは、前室へ戻る階段を上り始めた。
その表紙の内側に。
まだ誰も読んでいない名前があることを。
レインは、まだ知らなかった。




