第七十三話 日本の名前
『蓮』
レインが書いた一文字を。
全員が見つめていた。
「俺には、ただの線にしか見えない。」
トーマが紙を回す。
「逆じゃないですよ。」
セレスが元へ戻した。
「分かってる。」
「一応、確認しただけだ。」
緊張が。
少しだけ緩んだ。
◇
「日本の名前と言いましたね。」
学院長が尋ねる。
「名前にも使う文字です。」
レインは答えた。
「でも、植物の意味もあります。」
「植物の記録である可能性は?」
「あります。」
日本で見た花を思い出す。
水の上に広がる葉。
その中央に咲く花。
けれど。
この本には絵も。
説明もない。
一文字だけでは。
どちらにも決められない。
「日本では。」
セレスが言葉を選ぶ。
「一つの文字だけで、人の名前になるのですか?」
「なる。」
「でも。」
レインは自分の名前を書く。
『桐谷 玲』
「俺の場合は。」
「桐谷が家族の名前で、玲が個人の名前。」
「レイン・アークライトと順番が反対なのか。」
「そう。」
「じゃあ、蓮にも前がある?」
「人の名前なら。」
「家族の名前がある可能性は高い。」
ただし。
蓮が個人名だという前提での話だった。
レインは、その条件も紙へ書いた。
◇
「蓮と、玲は。」
セレスが二つの文字を見る。
「同じ名前ですか?」
「違う。」
レインは答えた。
「音も。」
「使っている字も違う。」
「レイと、レン。」
トーマがゆっくり発音する。
「似てるけど、別か。」
「うん。」
桐谷玲として。
名前を書いた記憶がある。
仕事の書類。
荷物の受け取り。
病院の受付。
書く場所が変わっても。
その二文字を、自分の名前として書いていた。
蓮という字を。
自分の名前として書いた記憶はない。
「これは。」
「桐谷玲の別の呼び方ではありません。」
レインは事実の欄へ記した。
「俺とは別の名前です。」
「そこは確定できるんだな。」
ガレスが言う。
「はい。」
二つの人生の記憶があるからこそ。
区別できることもあった。
◇
「日本語を使った人が。」
トーマが黒い本を見る。
「日本の名前を残した。」
「なら、その人も日本から来たんじゃないか?」
レインは答えかけて。
止まった。
禁書庫の壁。
日本語の音声。
黒い本の一文字。
すべて、アルディアにはない言葉だった。
「可能性はある。」
「でも。」
「日本語を教わった人かもしれない。」
「誰かの名前だけを書き写したのかもしれない。」
「本人とは決められない。」
「慎重だな。」
「一度、決めつけかけたから。」
『名前を残せなかった。』
あの一文も。
誰が、誰の名前を残せなかったのか分からない。
同じ間違いはしない。
「この文字を。」
学院長が尋ねる。
「アルディアの人が、偶然同じ形で書く可能性は?」
「形だけなら。」
「でも、クロニクルも日本語として判定しました。」
「では。」
「少なくとも、偶然の線ではない。」
「はい。」
誰が書いたかは分からない。
誰を指すかも分からない。
それでも。
日本語として書かれたことまでは。
推測ではなかった。
◇
司書が黒い本へ光を当てる。
表紙。
背表紙。
頁の端。
「綴じ方は、禁書庫にある古い書物と同じです。」
「日本の本ではない?」
「少なくとも、紙と製本はアルディアのものです。」
日本から本が来たわけではない。
アルディアで作られた本へ。
誰かが日本語を書いた。
「紙の時期は分かりますか?」
「正確には。」
司書は紙の色を見る。
「禁書庫へ収められた時期も不明です。」
レインは事実の欄へ記す。
『本はアルディアの製本。』
『文字は日本語。』
『蓮が人名かは未確定。』
『書いた人物も未確定。』
その下へ。
推測として書く。
『日本を知る人物が、アルディアにいた可能性。』
もう一つ。
『日本語を読める者へ、意図して残した可能性。』
壁にも。
『これを読める者へ』とあった。
黒い本も同じ相手へ向けたものかは分からない。
だが。
読める者が現れることを。
誰かが考えていた可能性はあった。
桐谷玲以外の。
日本を知る誰か。
百年前の勇者へ続く空白が。
初めて、別の世界へつながった。




