第三十九話 消された名
次に探すべきものは、名前だった。
だが、
百年前の勇者の名は、
どの記録にも残っていない。
◇
翌朝。
レインたちは学院長室へ集まっていた。
机の上には、禁書庫から持ち出した音声記録の魔石と、二冊の写本が並んでいる。
「名前を探すと言っても。」
トーマが腕を組む。
「書いてあった名前が全部消えてるんだろ?」
「読める形では残っていません。」
司書が一冊を開いた。
「ですが、文字が消えたことと。」
「最初から書かれていなかったことは、同じではありません。」
机の横には、細い金属の枠が置かれていた。
四隅に小さな魔力導石が埋め込まれている。
「これは?」
「文書の修復に使う術具です。」
「紙に残った魔力の偏りを読み取ります。」
司書が四つの導石へ順に触れた。
淡い光が、枠の内側を走る。
風。
水。
火。
土。
四つの属性を示す色が重なり、白い膜のように紙の上へ広がった。
「魔法で文字を戻せるんですか?」
「完全には。」
「インクが失われても、書いた時の圧力や、術式に触れた痕跡が残る場合があります。」
「百年前の紙にも?」
「残っていれば、ですが。」
司書が魔力を流す。
導石の光が強くなった。
古い紙の上へ、細い線が浮かぶ。
文字だった場所だけが、影のように沈んでいく。
「見える。」
セレスが身を乗り出す。
それは、救護所の記録だった。
『黒衣の負傷者』
『長剣一振り』
『北へ向かう』
既に読んだ文字の間に、
空白が一つある。
司書が光を絞ると、そこに四角い影が浮かんだ。
「何か、書かれていた。」
レインが呟く。
「はい。」
「長さは分かりますか?」
「アルディア文字で、五文字ほど。」
だが、形までは戻らない。
影は滲み、すぐに消えた。
「名前だった可能性は?」
「あります。」
ガレスが紙を見つめる。
「役職や地名かもしれん。」
「これだけで決めるな。」
「はい。」
レインは頷いた。
クロニクル。
【はい】
「今の痕跡を記録して。」
【記録します】
【対象:欠損文字列】
【文字数推定:五】
【内容:解析不能】
「照合できる?」
【比較対象が不足しています】
やはり、答えは出ない。
それでも、
最初から名前がなかったわけではない。
誰かが、
そこに何かを書いた。
そして、
その部分だけが読めなくなっている。
「ほかの記録も調べましょう。」
セレスが言った。
「同じ人について書かれたものなら。」
「同じ長さの空白があるかもしれません。」
司書が、もう一枚の紙を枠へ置く。
討伐後の街道報告。
黒衣の負傷者を見たという、最初の記録。
四つの導石が光る。
紙の繊維に残った凹凸が、ゆっくりと浮かび上がる。
そこにも、
五文字分の影があった。
不意に、右下の導石が赤く瞬いた。
紙の端から、細い煙が上がる。
「離れてください。」
司書がすぐに術式を止めた。
白い膜が消え、焦げる匂いだけが残る。
「すみません。」
「レインのせいではありません。」
「紙に残っていた魔力が、修復術へ反発しました。」
「百年前の魔力が?」
「正確には、保存のために掛けられた術です。」
司書は紙の端を確かめる。
「記録を守る魔法が、読み取ろうとする魔法を拒んだのでしょう。」
「守ってるのに、読めなくするのか。」
トーマが首を傾げる。
「長く残すことと、誰にでも読ませることは別です。」
学院長が答えた。
禁書庫の扉と同じだった。
記録は残されている。
だが、
読む者は選ばれる。
「この保存術を掛けた人は分かりますか?」
「術者印がありません。」
「それも消えてる?」
「いえ。」
司書は首を振った。
「最初から、残していないようです。」
名前だけではない。
記録を守った者も、
自分が誰かを残していなかった。
「同じだ。」
トーマの声が低くなる。
二枚の記録。
別の場所。
別の筆跡。
だが、
失われた部分は、どちらも五文字。
「偶然とは限りません。」
学院長が静かに言う。
「しかし、意図的に消されたとも、まだ断定できない。」
「消えた理由を調べる必要があります。」
レインが影へ手を近づける。
触れる寸前、
視界に青い文字が現れた。
【履歴情報を検出】
【対象:名称記録】
【状態:参照先との接続を喪失】
「接続を、失った?」
【名称に対応する参照先を確認できません】
インクが消えたのではない。
紙が傷んだだけでもない。
名前の向こうにいた誰かへ、
記録が届かなくなっている。
レインは、二つの空白を見つめた。
人が消えたから、名前が消えたのか。
それとも。
名前を失ったから、
その人は歴史から消えたのか。




