第三十二話 勇者の声
翌朝。
レインが学院長室へ入ると、
机の上に、見慣れない魔石が置かれていた。
手のひらほどの大きさ。
透明な表面の奥に、
細い銀色の線がいくつも走っている。
「これが、声を記録する魔石ですか?」
「正確には。」
司書が答える。
「周囲の音を、魔力の振動として保存するものです。」
「学院の式典で使われていた品ですが。」
「最後に使用されたのは、三十年以上前です。」
「動くんですか?」
「試しました。」
ガレスが腕を組んだまま言う。
「俺の声は記録できた。」
「先生の声で試したんですか。」
「何か問題があるか。」
「いえ。」
「再生すると、少し怖そうだなって。」
「レイン。」
「すみません。」
学院長が小さく笑う。
張り詰めていた空気が、
ほんの少しだけ緩んだ。
「昨夜、新しい表示が出たのですね。」
「はい。」
レインは表情を戻す。
「あの音声を、自分の記憶にある声と照合できると。」
「試したのですか?」
「保留しました。」
「よく我慢したな。」
ガレスが言う。
「昨日、ちゃんと戻ったので。」
「今後も続けろ。」
「分かってます。」
「照合には危険があるでしょうか。」
司書の問い。
「表示はありませんでした。」
「ですが。」
学院長は少し考える。
「他の記憶へ触れる可能性はあります。」
現在記憶。
昨夜、クロニクルが使った言葉。
今の人生だけではない記憶が、
自分の中にあるのかもしれない。
「先に、記録そのものを聞きましょう。」
学院長が言った。
「照合は、その後です。」
レインも頷く。
「俺も、その方がいいと思います。」
◇
四人は禁書庫へ向かった。
朝の図書館には、
まだ生徒の姿は少ない。
司書が入口へ札を下げる。
『調査中』
その二文字を見て、
レインは何度目か分からない深呼吸をした。
「緊張しているのか。」
ガレスが尋ねる。
「少し。」
「声を聞くだけだ。」
「先生だって、いつもより怖い顔してますよ。」
「いつも通りだ。」
「なら、いつも怖いってことです。」
返事はなかった。
代わりに、
頭を軽く小突かれた。
「痛い。」
「早く行け。」
禁書庫の扉へ近付く。
青白い光が走った。
【認証済み】
重い扉が開いていく。
◇
最初の部屋を抜け。
深部へ続く結界の前で足を止める。
ここから先は、
レインしか進めない。
「魔石は、首から下げてください。」
司書が細い鎖を渡す。
先には透明な魔石が付いていた。
「記録を始める時は、表面に触れてください。」
「止める時も同じです。」
「分かりました。」
「声が聞こえたら、すぐに内容を伝えろ。」
ガレスの声。
「はい。」
「異常があれば戻る。」
「はい。」
「照合は勝手に始めない。」
「分かってます。」
三人の顔を見る。
学院長。
ガレス。
司書。
今回は、
一人で答えを抱えなくていい。
「行ってきます。」
レインは結界を抜けた。
◇
第二区画の小部屋は、
昨日と何も変わっていなかった。
黒い本は、机の上で閉じている。
埃の上の足跡も。
増えてはいない。
「第二区画へ着きました!」
「聞こえている!」
遠くから返事が来る。
レインは胸元の魔石へ触れた。
銀色の線が淡く光る。
「記録を始めます!」
机の前へ立つ。
「クロニクル。」
【はい】
「音声記録を表示して。」
【記録番号:0002】
【音声情報:破損】
【再生可能範囲:一件】
【再生しますか?】
喉が乾く。
一度、後ろを振り返る。
通路の先に三人の姿は見えない。
それでも。
待っていることは分かっていた。
「再生して。」
【音声記録を再生します】
黒い本が開く。
頁の上に、
青白い光が細い線を描いた。
波のように、
小さく揺れている。
最初に聞こえたのは、
激しい雑音だった。
何かが崩れる音。
遠くで響く金属音。
荒い呼吸。
そして、
『――これを、聞いている人へ。』
男の声。
日本語だった。
昨日よりも明瞭に聞こえる。
若い。
けれど。
疲れ切っているような声。
『俺は、この世界で。』
大きな雑音が入る。
『――勇者と、呼ばれている。』
レインの呼吸が止まった。
勇者。
百年前の認証者と同じ属性。
「勇者と呼ばれていると言っています!」
後ろへ向かって叫ぶ。
声の記録は続く。
『でも。』
『それは、俺の名前じゃない。』
胸の奥が強く揺れた。
『勇者は、役割だ。』
『俺が、誰なのかを示す言葉じゃない。』
黒い本の文字。
『呼ばれぬ名は、やがて役割に呑まれる。』
あれは、
誰かから聞いた教えではないのかもしれない。
この声の人物が、
自分自身について残した言葉なのかもしれない。
『名前は――』
音が乱れた。
何かを言っている。
けれど。
聞き取れない。
「もう一度!」
思わず声を上げる。
【音声記録を再生中です】
巻き戻らない。
声は先へ進む。
『ここには、残さない。』
『残せない、と言った方が正しい。』
息を呑む。
誰かが名前を消したのではない。
少なくとも。
この人物は、自分で残さないと決めている。
『もし。』
雑音。
『俺が戻らなかったら。』
声が遠くなる。
『書かれた役割だけを。』
『信じないでくれ。』
そこで、
音声は途切れた。
◇
【再生を終了しました】
静けさが戻る。
魔石の中では、
銀色の線が強く光っていた。
記録はできている。
「終わりました!」
大きな声で伝える。
「戻ってこい!」
ガレスの声が返ってきた。
レインは魔石へ触れ。
記録を止める。
その時。
黒い本の頁に、
新しい文字が浮かんだ。
『討伐前夜』
「……討伐。」
何を、
誰を、
次の行へ文字が現れる。
『帰還記録なし』
胸の奥が冷たくなる。
勇者は戻らなかった。
だから、
名前を呼ぶ者がいなくなったのか。
「新しい文字が出ました!」
「何と書いてある!」
「討伐前夜!」
「それと、帰還記録なしです!」
返事が途切れる。
レインは表示を見つめた。
「何を討伐しに行ったの。」
【該当情報を検索します】
【対象:不明】
「勇者は死んだ?」
【死亡記録:なし】
「じゃあ、どうして戻らなかった?」
【帰還記録:なし】
同じ答えしか返らない。
死亡した記録はない。
帰った記録もない。
ただ。
勇者としての名前だけが歴史に残り。
その人自身の名前は消えた。
「レイン!」
ガレスの声。
「今、戻ります!」
これ以上は調べない。
黒い本が閉じるのを待ち。
レインは小部屋を出た。
◇
結界の外へ戻ると、
司書がすぐに魔石を受け取った。
学院長とガレスは、
レインが読み上げた言葉を書き留めている。
「聞こえた内容を、最初から話してください。」
学院長の言葉に、
レインは一つずつ説明した。
日本語を話す男。
勇者と呼ばれていること、
勇者は名前ではなく、役割だということ、
自分の名前を残さなかったこと、
役割だけを信じるなと伝えたこと、
討伐前夜。
帰還記録なし。
「百年前の認証者と考えるべきでしょうか。」
司書が尋ねる。
「断定はできません。」
学院長が答える。
「ですが。」
「勇者。」
「日本語。」
「名前の欠損。」
「無関係と考える方が不自然です。」
ガレスは何も言わず、
記録された言葉を見つめている。
「先生?」
「討伐前夜と言ったな。」
「はい。」
「百年前。」
ガレスが顔を上げる。
「勇者が討伐する相手など。」
「歴史には、一つしか残っていない。」
レインにも分かった。
子どもの頃から、
何度も聞かされてきた歴史。
世界暦が始まる前。
勇者が世界を救った物語。
「魔王。」
その一言が、
禁書庫の中へ低く響いた。
百年前の勇者は、
魔王を倒す前に、
ここへ声を残した。
そして、
帰ってこなかった。
けれど。
勇者が魔王を倒したはずなのに、
世界には今も。
魔王がいる。
「どういうことなんだ。」
答えのない問いへ、
クロニクルの音だけが返った。
――コン。
【音声記録と記憶情報を照合可能です】
まだ。
もう一つ。
確かめなければならないことが残っていた。




