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∞クロニクル・アルディア∞ ~101年目の未来~  作者: 空乃真芽
禁書庫編

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第三十一話 声の在処

『――名前を呼べ。』


 低い声が、


 頭の奥に残っている。


 レインは第二区画の入口を見つめた。


 暗い通路。


 動かない本棚。


 誰かが立っている気配はない。


「今の声、聞こえましたか!」


 結界の向こうへ向かって叫ぶ。


「声?」


 ガレスの返事が遠くから届いた。


「誰の声だ!」


「分かりません!」


「男の人の声です!」


「近くに誰かいるのか!」


 レインはもう一度、室内を見回した。


 机。


 椅子。


 黒い本。


 埃の積もった床には、


 以前から残っている足跡しかない。


「誰もいません!」


「すぐ戻れ!」


 迷う余地のない声だった。


「はい!」


 レインは黒い本へ背を向ける。


 その時。


 ――コン。


【音声記録を検出】


 足が止まった。


 音声記録。


 なら、


 今の声は、誰かがここにいるから聞こえたのではない。


「レイン!」


「戻ります!」


 表示を閉じようとする。


 だが、


【記録番号:0002】


【音声情報:破損】


【再生可能範囲:一件】


 青い文字は消えなかった。


「再生はしない。」


【音声記録の再生を保留します】


 今度こそ表示が消える。


 レインは通路を駆け戻った。


     ◇


 結界を抜けた瞬間。


 ガレスがレインの肩を掴んだ。


「怪我は。」


「ありません。」


「意識は?」


「大丈夫です。」


「見えている文字に変化は。」


「今は消えてます。」


 矢継ぎ早の問いに答える。


 ガレスはレインの顔を確かめ。


 ようやく肩から手を離した。


「戻れと言われてから、なぜ止まった。」


「声が、記録だと表示されたから。」


「それで聞こうとしたのか。」


「聞いてません。」


「本当だな。」


「再生を保留しました。」


 ガレスの眉間にあった皺が、


 ほんの少しだけ浅くなる。


「ならいい。」


「よくありません。」


 学院長が静かに言った。


「聞こえたのは、レイン君だけなのですね。」


「はい。」


「私たちには何も。」


 司書も首を横に振る。


「どのような声でしたか?」


 レインは答えようとして、


 言葉に詰まった。


「男の人です。」


「低くて。」


「遠くから聞こえるみたいな。」


「年齢は?」


「分かりません。」


「知っている声でしたか?」


 もう一度。


 頭の中で声を思い出す。


 知らない。


 少なくとも。


 レインとして聞いた覚えはない。


 けれど。


 胸の奥に、小さな違和感があった。


「知らないはずです。」


「はず?」


 ガレスが聞き返す。


「初めて聞いたのに。」


 自分の胸へ手を当てる。


「前にも聞いたことがあるような気がします。」


 雪原の夢とは違う。


『……遅かったな。』


 あの声よりも近い。


 もっと、


 自分の内側から聞こえたような。


「声は、何と言ったのです?」


「名前を呼べ、と。」


 学院長と司書が目を合わせる。


「解除条件の『声』と関係があるのでしょうか。」


「たぶん。」


「誰の名前を呼べと?」


「それは、分かりません。」


 勇者。


 魔王。


 二つの空白。


 呼ばれぬ名は、役割に呑まれる。


 なら、


 呼ばなければならないのは、


 空白にされた、どちらかの名前なのか。


 それとも。


 二人ともなのか。


「音声記録は、もう一度再生できます。」


 レインは続けた。


「ただ、壊れているみたいです。」


「再生可能なのは、一件だけだと。」


「一度しか聞けないという意味か?」


「そこまでは表示されませんでした。」


 ガレスが禁書庫の奥を見る。


「今日は終わりだ。」


「でも。」


「聞くなら準備をしてからにする。」


「声も記録できる魔石を用意する。」


 司書が頷いた。


「学院に一つだけあります。」


「ただし、長く使われていません。」


「確認には時間が必要です。」


 ここで急いでも。


 聞き逃せば取り返せないかもしれない。


「分かりました。」


 レインは黒い本のある方を振り返る。


「今日は戻ります。」


     ◇


 禁書庫を出ると、


 図書館の窓から夕日が差し込んでいた。


 長い本棚の影が、


 床を横切っている。


「レイン。」


 入口近くの机から声がした。


 トーマとセレスが立ち上がる。


「待ってたの?」


「当たり前だろ。」


 トーマが言った。


「先に帰れって言われたけどな。」


「言われたなら帰りなよ。」


「お前がそれを言うのか?」


「今日はちゃんと戻った。」


「今日は、な。」


 その言い方に、


 少しだけ腹が立つ。


 けれど。


 二人の顔を見たら、


 強くは言えなかった。


 セレスがレインの様子を確かめる。


「何か、あったんですね。」


「どうして分かるの。」


「顔に出ています。」


「そんなに?」


「かなり。」


 トーマまで頷いた。


 三人は図書館を出て、


 人の少ない中庭へ移った。


     ◇


「声が聞こえた?」


 話を聞き終えたトーマが、


 怪訝そうに眉を寄せる。


「禁書庫の中に、誰かいたんじゃないのか?」


「いなかった。」


「隠れてたとか。」


「足跡も増えてなかった。」


「じゃあ、本が喋った?」


「クロニクルは、音声記録だって。」


「本に声が残ってるのか。」


「分からない。」


「本から聞こえた感じじゃなかったから。」


 頭の中に直接届いた。


 そう説明すると、


 トーマはさらに難しい顔になった。


「危なくないのか、それ。」


「だから今日は戻ってきた。」


「偉い。」


「子ども扱いするなよ。」


 セレスは黙っていた。


 何かを考えるように、


 胸元で両手を重ねている。


「セレス?」


「その声は。」


 ゆっくりと顔を上げる。


「アルディアの言葉でしたか?」


「え?」


「禁書庫の壁には、日本語があったのでしょう?」


「声も、同じだったのではありませんか?」


 考えていなかった。


 意味は、


 最初から自然に理解できた。


 だから、


 どの言葉だったのか、意識しなかった。


 だが、


 記憶の中で、


 もう一度、声を聞く。


『――名前を呼べ。』


 名前。


 呼べ。


 その響きは、


「日本語だ。」


 レインは呟いた。


「あの声、日本語で話してた。」


 風が、


 三人の間を通り過ぎる。


「それって。」


 トーマが声を落とした。


「書いた奴と、喋った奴が同じってことか?」


「まだ分からない。」


「でも。」


 レインは禁書庫のある建物を見る。


「あの記録を残した人は。」


「日本語を知ってた。」


 桐谷玲以外に、


 この世界で、


 日本語を知る誰かがいた。


 それはもう。


 疑いようがなかった。


「レインさんと同じ場所から来た人が。」


 セレスが静かに言う。


「百年前に、ここへ来たのでしょうか。」


「たぶん。」


 百年前の認証者。


 属性は、勇者。


 失われた名前。


 日本語の記録。


 すべてが、


 一人の人物へ繋がり始めている。


 けれど。


 その人物が誰なのかは、


 まだ分からない。


     ◇


 寮へ戻ったあとも。


 レインは何度も声を思い返していた。


 桐谷玲として生きていた頃。


 聞いた声ではない。


 会社にも。


 学生時代にも。


 あの声の人物はいなかった。


 それなのに、


 なぜ、懐かしいと思ったのか。


「クロニクル。」


【はい】


「さっきの音声記録。」


「俺は、前に聞いたことがある?」


【検索します】


 青い文字が、


 静かな部屋へ浮かぶ。


【桐谷玲の記憶領域】


【該当なし】


 やはり。


 日本で聞いた声ではない。


「レインの記憶は?」


【検索します】


 少し長い間があった。


【現在記憶領域】


【該当なし】


 現在記憶。


 その言葉が引っ掛かる。


「現在じゃない記憶もあるの?」


【閲覧権限がありません】


「あるかどうかだけ。」


【閲覧権限がありません】


「相変わらずだな。」


 聞き方を変えても、


 答えは同じだった。


 けれど。


 否定もされなかった。


 雪原の夢。


 教わっていない剣の動き。


 トーマの叫び。


 セレスの涙。


 自分の中には、


 今の人生だけでは説明できないものがある。


 そのどこかで、


 あの声を聞いたのかもしれない。


 ――コン。


【音声記録の解析が完了しました】


 レインは顔を上げる。


【使用言語:日本語】


【記録者:不明】


【記録時期:不明】


【照合可能な音声:一件】


「照合って。」


【利用者の記憶内に存在する音声と照合しますか?】


 鼓動が強くなる。


 記憶のどこかに、


 同じ声があるかもしれない。


 だが、


 今、一人で試すべきではない。


「保留する。」


【音声照合を保留します】


 文字が消える。


 明日。


 学院長とガレスへ話す。


 そして、


 記録に残された声を聞く。


 そこに、


 名前へ繋がる何かがある。


 窓の外で、


 時計塔の鐘が鳴った。


 その余韻へ重なるように、


 もう一度だけ。


 遠い声が蘇る。


『――名前を呼べ。』


 今度は、


 その言葉の後ろに、


 ひどく小さな息遣いが聞こえた。


 誰かを急かす声ではない。


 まるで、


 忘れないでくれと、


 願っているような声だった。

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