第一話 春風の朝
窓から吹き込む風が、白いカーテンをゆっくりと揺らした。
鳥のさえずりが聞こえる。
雲ひとつない青空。
春の匂いがした。
レインは布団を頭まで引き上げる。
「あと五分……」
その願いは、一秒も叶わなかった。
「レイン!」
一階から母の声が飛ぶ。
「今日は何の日か分かってるでしょう!」
「…………」
「返事!」
「起きてる……」
「返事だけは一人前ね。」
階段を上がる音が近づく。
レインは勢いよく飛び起きた。
「やばっ!」
時計を見る。
寝坊だ。
扉が開き、母のエリナが呆れたように笑う。
「入学式から遅刻する子なんて聞いたことありません。」
「まだ間に合う!」
「制服。」
「あ。」
「靴。」
「あ。」
「髪。」
「あ……。」
「全部まだですね。」
エリナは深いため息をついた。
「三回起こしたんだけど?」
「夢の中では起きてた。」
「現実で起きてください。」
十分後。
レインはパンを口にくわえたまま玄関へ向かっていた。
「走りながら食べるな。」
父グレンの低い声。
「時間ないんだよ!」
「だから昨日早く寝ろと言った。」
「寝た。」
「夜更かしして本を読んでいただろ。」
「最後の一章だけ。」
「その一章が長い。」
レインは笑ってパンを飲み込む。
父は厳しい。
でも、今朝だけは少し嬉しそうだった。
「学院では剣だけじゃない。」
グレンは静かに言う。
「人を見る目を養え。」
「うん。」
「一生付き合う友ができるかもしれん。」
「……父さんみたいな?」
「俺よりまともなのを探せ。」
思わず笑ってしまう。
母も吹き出した。
「あなた、自覚はあるのね。」
「多少はな。」
こんな朝も悪くない。
「レイーーン!」
家の外から聞き慣れた声。
「まだかーー!」
トーマだった。
レインは慌てて玄関を飛び出す。
「遅い!」
「お前が早い!」
「今日は入学式だぞ!」
「知ってる!」
「人生が決まる日だ!」
「そんな大げさな。」
二人は笑いながら学院への坂を登っていく。
学院へ続く街並みは、春に包まれていた。
露店が並び、
子どもたちが走り回り、
学院へ向かう新入生が次々と坂を登っていく。
皆どこか緊張している。
「貴族も結構いるな。」
トーマが小声で言う。
「緊張する?」
「いや。」
「嘘つけ。」
「少しだけ。」
「俺も。」
二人は顔を見合わせて笑った。
学院の門が見えてきた。
巨大な時計塔。
白い校舎。
朝日に照らされた石畳。
思わず息を呑むほど美しかった。
「でっか……」
トーマがぽつりと漏らす。
その時だった。
人混みの少し先。
一人の少女が歩いている。
長い金色の髪。
胸いっぱいに資料を抱えていた。
ふと、
レインの胸がざわつく。
(……誰だ。)
初めて見るはずなのに、
懐かしい。
そんなはずはない。
少女が時計塔の真下を通る。
その瞬間。
ギシッ。
どこかで石が軋む音がした。
レインだけが顔を上げる。
塔の装飾。
石の翼。
今にも外れそうだった。
次の瞬間。
世界がゆっくりになる。
音が遠ざかる。
風が止まる。
理由は分からない。
ただ一つだけ。
頭の中で、
誰かの声が響いた。
――動け。
考えるより先に身体が動いた。
「危ない!」
レインは少女へ飛び込む。
二人の身体が石畳へ転がる。
直後。
ドォォォン!!
石の翼が落下した。
ついさっきまで少女が立っていた場所へ、
土煙が舞い上がる。
悲鳴。
ざわめき。
学院中が騒然となる。
「大丈夫か!」
教師たちが駆け寄る。
レインは呆然としていた。
どうして分かったんだ。
本当に偶然だったのか。
少女がゆっくり身体を起こす。
青い瞳が真っ直ぐレインを見つめた。
「……ありがとう。」
小さな声だった。
レインは照れ隠しに笑う。
「たまたまだよ。」
本当にそうだった。
そう思おうとした。
でも。
胸の奥だけが否定していた。
――また助けられた。
誰かがそう囁いた気がした。
しかし、その言葉の意味を知る者は、まだ誰もいなかった。
騒ぎは十分ほどで落ち着いた。
落下した石材は教師たちによって片付けられ、新入生は予定通り講堂へ案内される。
「本当に大丈夫だったのか?」
トーマが何度目かの確認をする。
「大丈夫だって。」
「頭とか打ってない?」
「打ってない。」
「でも、お前……」
トーマは少し言いにくそうに口を開く。
「なんで分かった?」
「……え?」
「あんな高い場所見てた奴、お前しかいなかったぞ。」
レインは答えられなかった。
確かにそうだ。
石が落ちるなんて普通は気付かない。
ましてや、落ちる前から身体が動くなんて、
「偶然じゃない?」
自分に言い聞かせるように呟く。
「まあ、お前昔から勘だけはいいもんな。」
トーマは深く考えず笑った。
その一言に救われた気がした。
講堂は満席だった。
新入生だけでも数百人。
王国中から集められた少年少女が、少し緊張した表情で椅子に座っている。
壇上には学院長。
白い髭を蓄えた老人だった。
「諸君。」
静かな声なのに、講堂の隅々まで響く。
「本日より、君たちは王立学院の生徒となる。」
誰一人として私語をしない。
「知識は剣より人を救う。」
「剣は知識なくして人を傷つける。」
「その両方を学びなさい。」
ありきたりな祝辞。
……のはずだった。
レインは途中から何も頭に入ってこなかった。
さっき助けた少女が気になる。
(無事だったかな。)
名前も知らない。
もう会わないかもしれない。
それでも妙に気になってしまう。
式が終わる。
新入生たちは各教室へ移動した。
教室の扉には名簿が貼られている。
「おっ!」
トーマが声を上げる。
「同じクラスだ!」
「ほんとだ。」
二人は顔を見合わせて笑った。
「これで安心だな。」
教室へ入る。
窓際。
後ろから二番目。
レインの席だった。
「悪くない。」
荷物を置いた、その時。
教室の扉が開いた。
静かに、一人の少女が入ってくる。
長い金色の髪。
澄んだ青い瞳。
朝、助けた少女だった。
(えっ。)
教室が少しざわつく。
「綺麗……」
「貴族かな?」
「誰だろ。」
少女は周囲を気にする様子もなく歩いてくる。
そして、
レインの一列前の席に座った。
偶然とは思えない近さだった。
少女は椅子へ腰掛けると、小さく息を吐いた。
そして振り返る。
二人の目が合う。
数秒。
時間が止まったようだった。
「……。」
少女は少しだけ目を見開いた。
驚いたような。
信じられないものを見るような。
そんな表情。
次の瞬間。
ふわりと微笑んだ。
「さっきは、ありがとうございました。」
教室のあちこちから視線が集まる。
レインは慌てて手を振った。
「いや、本当に偶然だったから。」
「それでも。」
少女は立ち上がる。
そして深く頭を下げた。
「助けてくださって、ありがとうございました。」
レインは照れくさくなって頭をかく。
「名前……聞いてもいい?」
「セレスです。」
その名を聞いた瞬間。
胸の奥が、小さく痛んだ。
まるで、
何度も呼んできた名前のように、
理由は分からない。
「俺はレイン。」
「はい。」
セレスは優しく笑う。
その笑顔を見た瞬間。
レインは初めて思った。
――この笑顔を、どこかで見たことがある。
教壇へ教師が入ってくる。
「静かに。」
一瞬で教室が静まる。
「これから一年間、君たちの担任を務めるリヒトだ。」
教室に緊張が戻る。
学院生活が、いよいよ始まる。
その誰も知らない。
この教室にいる一人の少年が、一年も経たないうちに世界の運命を背負うことを、
そして、その少年自身もまた、まだ何一つ知らなかった。
――自分の十六歳の誕生日が、すべての始まりになることを。




