Ex.『植えられた猜疑心』
今回は閑話休題ということで、Ex回になります。また本編と合わせての2話連続投稿にしました。1本目のお話になります
西条凪紗。彼女との出会いは、男の人生において、一つ目の結末であった。
彼女は男に対して、過去を多く語ることはなかった。断片的な情報だけが、男が彼女に対して抱くことの許された印象。花とは、季節が変わる度に、新しい蕾を芽吹かせるもので。
しかし、それが全て、全く違う死の形をしているのなら。
猜疑心とは、美しい姿を見せるのかもしれない。
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俺が祖父の家業を継いで、3年が過ぎようとしていた、ある夏のことだった。
その日は酷く風が吹き、太陽はその姿を失っていた。光の遮られた森の中というのは、暗闇に支配される。死を待つ只中で、命を眠らせるように。
「コウくーん?お弁当忘れて……あれ?どうしたの、その腕……」
「西条さん、わざわざありがとう……ございます。ああ、これは、その。ちょっと」
昼下がり。いつもなら陽射しが痛いほどに突きつける時間帯であるが、その日は、ただ鬱屈とした湿り気を漂わせるばかりだった。
この時期になると、俺と……彼女は、ひとつ屋根の下で暮らすようになっていた。毎日のように遊びに来る彼女が、大荷物を持って現れた時は大変驚いたものだ。お陰で、だだっ広い部屋が、賑やかになってしまった。
「怪我……って感じじゃないわね?」
「…………」
彼女は、作業着の下から覗く、俺の腕についた切り傷を目ざとく見つけてしまった。蚯蚓脹れのように広がるそれは、まともな理由で説明できるものではないことがわかる。
「何が、あったの?」
彼女は酷く心配そうに見えた。俺はあの時、確かに、選択を違えてしまったのだ。
「今日は入道雲が居座っているものですから。森の中に入ると、足元も見えないほどで……細かい木の枝に、擦ってしまって」
俺は指で耳の裏に触れる。ズキンとした痛みが、確かに、肺の中に広がっていた。
「もう。しっかりしてくださいな。仮にもこの家の大黒柱さんなんだから」
「大黒柱…………いやぁ、俺にはまだそんな……」
「荷が重いって言いたいんですか?ふふ、私がここにいれるのは、一体誰のおかげだと思って?」
「はは……たまたま、何とかなってしまったんですよ。探偵だって時には思い違いをするもんです」
彼女を家に入れることを、家族からは強く反対された。出自も不明、親兄弟のことも、自分のことも話せない。仕事もせずフラフラしているような、綿毛のような彼女を、受け入れようとはしなかった。
俺は三日三晩かけて、説得した。下心……が、あったのだろうか。あの時は兎に角必死だった。俺は、追い詰められると、自分でも思ってもないことを言ってしまうタチらしい。記憶は曖昧だが、自分よりなにか、上位の次元、そこから無理やり植え付けられた言葉を、吐いているような感覚があった。
「……今日くらいはのんびりしませんか?」
そんな俺の様子を見かねたのか、悪戯っぽい笑みを浮かべて彼女が尋ねた。陽の光こそ差していなかったけど、目の前に陽炎が浮かんだような、そんな気がした。
「西条さんこそ、最近、家のこと任せっきりにしてますし……今日くらいは、俺がやりますよ」
会った時と同じ美しさで、彼女はただ俺の傍にいてくれた。格好こそ、都会のそれではなく、地味なワンピースや、エプロン姿が増えてしまったけど。
「あら、慣れている場所で怪我をした貴方が?お祖母様から聞きましたよ?厨房に立った姿を見たことがない、って」
「それは、そうなんですが……」
「ふふ。いいんです。私の方こそ、貴方に、何もしてあげられてないから」
「そんなことは……!」
俺が声を張り上げようとした瞬間、遠くの方で雷鳴が轟いた。暗い、暗い、雲の隙間を縫うように。俺の瞳には、閃光が走った。
「あら……雨になりそう」
「洗濯物、取り込んできますよ」
これ以上、彼女に何かを言う前に、俺は逃げるようにその場を立ち去った。庭に干された真っ白いシーツは、未だ、濡れたままであった。
「どうしちまったんだか……」
彼女が来てから、生活は一変した。良い意味でも。悪い意味でも。俺は、何かを生み出せるような人間ではなかった。意味も、価値も、ただ落ちていたものを拾っただけ。色もなく、形もなく、匂いもない。ただ生きている、咲いているだけの小さな花。
彼女は、俺とは違った。咲く場所も、季節も、自分で選べた。もっと澄んだ空気の中でも、豪奢なレストランの花瓶でも、狂い咲く水仙の中でも。
日が沈む。この辺りは街灯がない。娯楽も少ない場所では、暗くなったら眠る他ない。
「お酒、飲めないって聞きましたけど」
「まだ、起きてたんですか」
俺は灯りを消した居間で、煙草の火を頼りに、安酒を煽っていた。偶然起きてきた彼女に見られるまでは、あの時の、何も無い安寧に戻っていたのだろうか。
「なんだか、眠れないので。コレに頼るのは、良くないとは思うんですが」
「まぁ。まさか責められると思って?」
「違うんですか?」
「現実を直視できる人は、きっと、空想に想いを馳せることはないんでしょう?」
彼女は微笑んでいた。紫煙の向こう側で。ただ、いつも通り。
「俺には……分かりません。ここより良い場所も、悪い場所も知りませんし」
「……ねぇ、コウくん。私、貴方に会えて本当に良かったと、心の底から思っているのよ」
「……初めて聞きましたよ」
その声色からは何も読み取れない。俺はただ、開けられるのを待つ、本のページに過ぎないのだから。
「ふふ。いつかね、いつか、コウくんが今よりもっと幸せになったら」
「なったら……?」
「その時、傍にいるのが、私だったらいいな、って思うの。これって、いけないことかしら?」
俺は目を伏せたまま、彼女の手が、白い指先が、俺の掌に重ねられるのを見ていた。
「空想に想いを馳せるのは、俺も、同じですから」
その日は、酷く強い雨が降った。全ての音を、掻き消すように。汚れを、洗い流すように。ただ、打ち付けていた。
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