胎の中
男は油で濡れた床を滑るように転がり、そのまま工場区画の奥へと飛び込んだ。
あの怪物は速すぎる。
直線で逃げれば、いずれ追いつかれる。荒い呼吸のまま、周囲に視線を巡らせるた。
壁一面に並ぶ大型プレス機。頭上を走る搬送レール。蒸気を吐き続ける太い配管。無数の機械アームが、火花を散らしながら忙しなく動いている。
ガシャン。
ガシャン。
一定間隔で響く金属音。工場全体が、生き物みたいに脈打っていた。
誰もいない。
なのに機械だけが動き続けている。
コンベアの上を、銀色のフレームが流れていく。
細長い金属部品、球体関節、黒い繊維束、規格化されたネジ。
それらが奥へ運ばれる度、何かの“形”になっていく。
男は息を呑む。
天井から、無数の金属骨格が吊り下がっていた。
人間の……脚?
そう見えた。
鈍く光る銀色。継ぎ目だらけの関節。太腿、脛、足首、爪先。
その隣には、腕のようなフレームもぶら下がっている。
指。
肘。
肩。
どれも異様なほど精巧だった。
まるで、“人間”を部品単位で量産しているみたいに。
ガシャン。
ガシャン。
工場は何事もなかったように動き続けている。それは、ある種の生き物のように。ここは、胎の中なのだ。機械仕掛けの化け物の、胎の中。
ガシャン。
ガシャン。
────ズドンッ!!
不意に、背後の鉄柱が爆ぜた。
轟音が響き、火花が散る。
千切れた金属片が、散弾のように工場内へ撒き散らされた。
男は咄嗟に身を伏せた。頭上を、鉄片が唸りを上げて通り過ぎる。
頬を掠めた破片が、焼けるような痛みを残した。
男は本能のままに振り返る。
そこに、“ソレ”がいた。
工場灯の黄色い光の中で、その身体だけがノイズみたいに断続的に崩れている。
「もう追いついたのか……!」
怪物は、ゆっくりと工場の中へ入り込んでくる。
ギギギ、と。
周囲の機械アームが稼働を続ける中、その存在だけが異物だった。
その瞬間、男の瞳に黒い閃光が走った。
空間にヒビ割れた軌跡が浮かび上がる。
来る。
そう理解した瞬間、男は反射的に横へ飛んだ。
──直後。
黒い腕が、先ほどまで男の居た場所を薙ぎ払う。
爆音が鳴り響き、コンベアが千切れ飛んだ。
吊り下げられていた金属骨格が、一斉に床へ落下する。
ガシャアァン!!
人間の脚みたいなフレームが砕け散る。
腕が転がる。
首のない金属骨格が、糸の切れた死体みたいに床へ崩れ落ちた。
「っ……!」
男は転がるように着地し、そのまま潮騒を構える。
震える指。呼吸が浅い。
だが撃つしかない。
バンッ!!
乾いた発砲音が鼓膜に響く。耳の奥が、ズキンと痛む。
浸蝕弾が、ゴーストの胴体を掠めた。
一瞬、黒い輪郭が揺らいだ。
効いた?
だが次の瞬間、怪物は何事もなかったみたいにこちらを向く。
ぞわり、と。
本能が警鐘を鳴らした。
視界へ走る無数の軌跡。
さっきより多い。
「避けきれない……!」
男は歯を食いしばり、咄嗟に近くの搬送レールの裏へ飛び込む。
瞬間。
ゴーストの腕が分裂した。黒い刃が、暴風の如く、工場内部を切り裂いた。
鉄骨が裂ける。コンベアが吹き飛ぶ。
プレス機へ巨大な亀裂が走った。
工場全体が、巨大な化け物みたいに悲鳴を上げる。
男は息を呑んだ。まともにやり合える相手じゃない。
だが、その時だった。
視界の端。頭上の高圧蒸気配管へ、“別の軌跡”が走る。
赤錆に覆われ、腐食し、限界まで歪んだ接合部。
何故そこに?男の疑問は、再び振るわれた黒い刃によって掻き消される。
出鱈目に、男を探すように、ばら撒かれる連撃は、次第に男の喉元に迫る。
寿命が削れる音がした。心臓が、仮初の肉体が音を立てる。
鼓動。脈動。恐怖が心を締め付ける。現実と空想の境目が、徐々に、徐々に、無くなって──
──パンッ!!
男は飛び出していた。続けざまに聞こえる発砲音。それは、先ほどの結合部。軌跡の走る高圧蒸気配管に向けられて。
ブシューッ!!
次の瞬間、視界が白い煙に覆われた。
男は迷わず走り出す。工場の奥。視界の先にはばら撒かれた義肢の山。
男はその中に飛び込んで、息を殺した。
視界が晴れる。ゴーストはどういうわけか、人間と同じ感知方法を使っている。視覚、聴覚……だからこそ、吹き出した蒸気の中で、男を見つけることができなかった。
このまま過ぎ去ってくれればそれでいい。男は震える手で口を抑えた。
しかし
バキ、パキッ、パキンッ
義肢が割れる音が聞こえる。ばら撒かれたその上を、何かが歩いている。この状況下で、答えは一つだけ。
その音は、段々と近くなり──
ガシャーンッ!!
男の隠れていた義肢の山が、一薙ぎで崩された。上半分が剥がされ、次の一撃は、男の潜伏場所に当たるだろうと容易に想像できる。
思考が巡る。周囲の時間がゆっくりと流れる感覚があった。
男は意を決してその山から飛び出す。同時に、ゴーストの黒い腕が、義肢を薙ぎ払った。
その時、その黒い怪物と、目が合ったような気がした。
男のゴーストから視線を切った。向けられるのはその頭上。天井から吊り下げられた重そうな金属製のアームに向けられていた。
そこに、軌跡が集約する。天井とアームの繋がる錆びた鎖。
また、“壊せる”
パンッパンパンッ!!
男は宙に身を投げ出したまま、発砲。金属同士がぶつかる高い音が響く。
一発、
二発。
弾かれる弾丸。
そして
三発目で“破綻”する
ドッガッシャーン!!!
鎖から解かれたアームは、行き場を失い、重力に従って落下する。そこには黒い怪物。振るわれる腕。
それは、男の左腕を切り離し、ばら撒かれた義肢の一部と化す。
同時に、金属製のアームが、ゴーストへと直撃した。
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