79_指示
やることは、勉強と映画鑑賞。
その二つに絞られただけの毎日が、夏休みとしては不思議なほど満ち足りたものになりつつある。
それもこれも、傍で甲斐甲斐しく世話を焼いてくれている心桜の存在が大きいのだろう。
毎日数時間を机に向かい、心桜に手伝ってもらいながら課題をこなしていけば、提出物は着実に減っていく一方。
このまま続ければ数日のうちには終わると、翼はどこかぼんやりとした手応えの端に差しかかっていた。
先の見通しが立つというのは、それだけで肩から重さが少し抜けるものらしい。
別で大きな問題を抱えている翼としては、その達成感をありがたく感じ、ついペンを走らせてしまう。
そんな日々が静かに積み重なる中の、ある夜のこと。
テーブルの上で、スマートフォンが硬い振動音を立てる。
「電話?」
翼の画面に表示されたのは、313の番号。
時刻はすでに夜中に近く、室内には翼ひとりの静けさが広がっている。
翼は少しの緊張を噛み殺しながら、画面をもう一度確かめ、そのまま通話を取った。
「もしもし」
『時間があまりない。端的に当主からの指示を伝える』
藪から棒に、というのは今更か。
よほど急いているのか、313の声から疲労を感じとり、翼はただ「はい」とだけ返す。
『お前、勉学に励んでいるだろう?』
「そうですね」
『それをやめろ』
一瞬、それまで滑らかに回っていた翼の思考が、底の見えない場所で滞った。
耳に届いた音が意味として処理されるまでに、数秒ぶんの間が生まれる。
313の声の表面には、何の感情もにじんでいない。
ただ無味に命令は翼の鼓膜を通り過ぎていくが、彼女はお構いなしに続ける。
『代わりに、お前には語学を学んでもらう』
「……語学?」
オウム返ししかできないほど、話の飛距離が翼の想定を越えている。
電話の向こうの313は、翼の戸惑いを待つ素振りすら見せず、よほど急いでいるのか捲し立てた。
『最低でも高校期間中に英語は話せるように、とのことだ。差し当たって先代の英語講師に繋いでおく』
先代、という響きが、翼の内側で硬く引っかかる。
313の言う「先代」が翼の父であることは、確かめるまでもない。
短い指示の底に畳まれていたのは、彼の引き継ぎの宣告。
大した時間をかけずに理解できてしまうあたり、翼はすでにこの流れをどこかで覚悟していたのかもしれない。
父の名は今も一部の重鎮の記憶に残ったまま。
さらに今回、翼が人を殺めたことは、流れるところには流れている。
そこから嗅ぎつけたのか、何かしらのオファーが入ったのだろうと推測するのは、難しいことではない。
もしかしたらこれを狙って、当主である一弥は翼の殺人を流布したのか。
海外の案件ともなれば危険度とともに報酬も桁違いであり、父の亡き直後は小宮の評判もうなぎ上りだったと聞いたことがある。
そうやって上の意図を測る思考が巡っていくのを、止められない。
『詳細は講師に聞いてくれ。以上だ』
通話はそこで、事務的に切れる。
気がつけば、背筋の奥を冷えたものがゆっくりと通り抜けていた。
覚悟していた流れであり、同時に、覚悟だけでは測りきれない意義を持つ変化。
目を背けていたわけではなかったが、来るときが来た、と思わずにはいられない。
自分はどうしようもなく、この道を辿るしかないという、現実に向き合う瞬間が。
翼はしばらく画面から目を離せないまま、暗転した液晶に映る自分の顔を見つめた。
◇ ◇ ◇
翌日、心桜と共に腰を下ろした翼は、落ち着くより先に口を開く。
「ごめん」
言いながら、深々と頭を下げた。
視界を占めるのはテーブルと、閉じられた課題の端だけで、心桜の反応は気配でしか読めない。
顔を上げてからも、続きがうまく声にならなかった。
それでも義務感だけが、翼の口を動かしていく。
「上からの指示で、勉強は続けられなくなった。ずっと心桜さんに教えてもらったのに……ごめん」
「……律儀すぎますよ、あなたは」
心桜の顔に、仕方がないと言いたげな柔らかさが浮かぶ。
怒っているわけでも、困惑しているわけでもない。
翼が謝ることそのものへの驚きが淡く滲んでいる、といったところ。
非難の色はどこにもなく、むしろその眼差しには何かを労うような温度があった。
「わかりました。でしたら……空いた時間は何をしましょうか?」
心桜の疑問は尤もであり、翼にとっての一つの山場でもある。
当然それには触れないといけないと想定していたからこそ、翼は生唾を飲み込んだ。
「いや、おれは別にやらないといけないことがある」
「というと?」
「……言えない」
いぶかしげに、心桜の表情がわずかに歪む。
翼の返答をそのまま受け入れるつもりがないことは、その目を見れば一目瞭然だ。
あの瞳は、翼が何を言っても引き下がらないときの光。
似たような攻防で何度も敗北してきた翼には、嫌というほど心当たりがある。
「なぜ言えないのですか?」
「知らないほうがいい、と思う」
「でもわたしが肩を貸すなら、知るのは時間の問題だと思いますが」
「おれひとりで、自宅でやるから大丈夫」
「ダメですよ?」
たった一言で、翼の逃げ道はきれいに塞がれた。
心桜が翼の返答を待つつもりがないことは、声のトーンだけで十分に伝わってくる。
柔らかい声なのに、有無を言わせない強さが一文字一文字に含まれていた。
「多分おうちのことですよね? あなたの上司がなんと言おうとも、絶対にトレーニングはさせませんから」
翼の思考が一瞬ずれ、意図せず的外れな方向へ引っ張られる。
トレーニングではないのだが、心桜の心配の矛先がそこにあることは伝わった。
ただのすれ違いとはいえ、翼の体を案じての剣幕だと見て取れるだけに、頭ごなしに否定するのも憚られる。
(……?)
ふと違和感を覚え、いつからこうなったのかと翼は考えてみるが、答えは出てこない。
彼女が心配するたびに、それを跳ね返すことへの躊躇が増えていく。
ただ、ずっと黙り込めば肯定になると思い、心桜の誤解を解きにかかった。
「トレーニングはしないよ」
「でもおうちのことなら、あなたがまた無理するのを見過ごせません。わたしの家でやれないことなんですか?」
「やれる、けど」
「じゃあ今言った方がいいと思いますが」
反論を探しているうちに、心桜はもう次の一手を指してくる。
ただ、こうなる予感はしていた。
彼女の疑念を完全に払拭できる材料を、今の翼は持ち合わせていない。
話せば真意まで汲み取られる可能性はあるが、そうも言っていられないだろう。
これ以上の抵抗に、意義は見いだせない。
翼はゆっくりと息を吐き、それから一度だけ深く吸い込んで、意を決する。




