80_光
「指示されたのは、英語の勉強だ」
「英語?」
「高校期間中には話せるように、と。講師の人をつけてもらって、集中的にやることになる」
心桜の顔つきが、それまでとは別のものに変わる。
驚きというより、受け取った情報を並べ直しているような顔。
落ち着かない目元を眺めながら、翼は自分の話を続ける。
「英語の勉強とかしてたら、口に出して話すことになるから、心桜さんの邪魔になると思う」
「なるほど……であれば、わたしの勉強にもなりますし気にしないでください」
快諾のわりに、瞳の奥だけが動きを止めない。
どこか引っかかりを残したまま、心桜は一拍置いてから声を落とした。
「なんで、英語の勉強を隠したの……?」
言葉の輪郭が、ほどけている。
誰かに向けたというより、思考の途中がそのまま零れたようなひと言。
次の瞬間、話を噛み砕いていた心桜が、勢いよく顔を上げた。
目を見開き、翼の顔をまっすぐに見据える。
なにかに思い至ったときの、あの素早さで、心桜の口が動いた。
「もしかして、あなたは高校を卒業したら……海外の護衛につく、ということですか?」
これだけの情報で、そこまで辿り着く頭の良さは、さすがとしか言いようがない。
隠したところで、いずれはバレていただろうと思っていた通りだ。
翼はそこで取り繕うことをやめ、そのままを口にする。
「父さんに英語を教えた人に担当してもらうってことは、多分そうなると思う」
「なんで、急に」
乱れを直すだけの余裕が、もう心桜から抜け落ちている。
説明するとなると、どうしても少し長くならざるを得ない。
翼が亡き父と同等以上の能力を有する可能性があること。
父の名声は裏の世界にまで轟いており、それで救われた重鎮が今も存在すること。
そして今回、翼が人を殺めた事実が、流れるところには流れていること。
何かしらのオファーが入ったのだろうという自分の推測まで含めて、翼はひとつひとつ心桜へ渡していく。
ひとつ挙げるごとに、少しずつ鮮明になっていく、これが現実であることの輪郭。
「……あなたはそれでいいのですか」
心桜の声は、翼が予想していたよりもずっと低く抑えられている。
抑えられているだけに、その奥に溜まっているものの気配を、翼は嫌でも察した。
問いの形をしているのに、問いとして機能していない。
翼への確認ではなく、翼へ向けた、声の形をした訴え。
「助けを求めている人がいるなら、おれは行く」
そう返すと、心桜の顔がくしゃっと歪む。
溢れる感情を堪えているのだと、見ればわかった。
目の前の現実を直視しているはずの翼の喉の奥にも、何かがつかえる感覚がある。
それでも、放ったものを引っ込めることはできない。
「あなたのお父様と同じ最後を辿る必要は——」
「いや、これがおれの辿るべき道だろう」
言い切った翼の足元は、微塵たりとも揺れることがなかった。
海外の護衛であれば銃と相対するため、致死率は飛躍的に跳ね上がる。
それでも翼としては、人を殺めてしまった以上、自分の命の価値など惜しむべきではないのだ。
罪を背負ったあの瞬間から、引き返すという選択肢は翼の中に存在しない。
その確信だけは、何をもってしても動かせないまま。
しかし尚も言い返そうとしてくる心桜が目に映る。
そんな彼女を前に、翼は自然と微笑んだ。
「それに、心桜さんはきっと……おれがいなくても大丈夫だよ」
少しの間を置いてから、もうひとつだけ言い足す。
掃討が進めば、心桜の護衛は不要になるはず。
そうなる未来が見えてきたのは、本来喜ばしいものであり、いつだって受け入れられると翼は本気で思っている。
それが優しさになるのか、それとも残酷さになるのか、翼自身にも答えは出ていない。
そうやって翼は、もう遠くないであろう、一つの終わりを告げたが——
心桜の瞳が、その宣告の重さをすべて跳ね返すように、鋭く翼を射抜く。
「つーくんの、どあほ」
彼女の口をついて出たのは、シンプルな罵倒。
その稚い響きを聞いて、翼は頭を殴られたような衝撃を受け、呆けた声が漏れる。
「……は?」
「凛乃さんが言ってました。自分を大切にしない人には『ど阿呆』って言えと」
罵倒の原因は、凛乃の口癖から引っ張ってきたものらしい。
ただその叱られた中身よりも、呼び方のほうが先に翼の耳に残り続けている。
(い、いや、それより『つーくん』って)
翼という名前をそんなふうに縮めて呼んだ者は、これまでひとりとしていない。
『ばっさー』と先に愛称をつけたアリアでさえ、この手のどこか甘さを帯びた呼び方をした記憶はないのだ。
心桜がそう呼ぶのは、主従の関係性やら男女の距離感やらなんやらでどうかと思うのだが、口がうまく回らなかった。
その動揺は、しっかり顔に出ていたらしく、心桜がぷいっとそっぽをむく。
「親しみを込めて、です。アリアさんと変わりません」
悪びれもせず、心桜はそう言い切ってみせる。
どう考えても強行突破としか思えない口ぶりに、翼は慌てて反論を投げた。
「さ、さすがに主従でその呼び方はまずいだろう」
「二人きりのときにしか呼びません」
「そういう問題じゃ——」
「わたしの呼びたいように呼びます。でもあなたの名前が呼べないんじゃ、仕方がないでしょう」
「べ、別の呼び方は?」
「いやです。もうこれにします」
つーんと唇を尖らせる心桜を見て、頭を抱えたくなる翼。
押し通そうとする声の温度が、怒りなのか意地なのか、翼には判別がつかない。
翼が距離を置こうとするたびに、心桜はその分だけ詰めてくる。
突き放せば埋められ、引けば同じ分だけ押し返され、決して譲らないのは、彼女元来の優しさゆえのもの。
慌てる翼を前に、心桜はさらに光を増した目を、決して逸らさない。
「わたしはまだあなたに……返さなきゃいけないことがいっぱいある」
貸したつもりなど、翼にはただの一度もないが、声にはならなかった。
途切れがちな彼女の声は、ひと言ごとに翼の思考を埋めていく。
「わたしだけが救われてさよならなんて……絶対にいや」
何か決意を新たにしたような顔が、まっすぐに翼へ向けられていた。
どれだけ線を引いたところで、この人はその線を踏み越える気でいるのだとわかる。
翼が告げた終わりを、真新しい呼び名がひとつ、さらなる始まりへと切り拓いていく。
返す声を探しあぐねる翼の前で、その光は輝きを失うことはなかった。




