78_呼び方
翼宅にて凛乃がもくもくとトレーニングをしている間、翼と心桜はアリアと向かい合ってテーブルについていた。
部屋の端では、ダンベルの上下する音が規則正しく刻まれている。
凛乃は翼たちを一切気にしていない様子で、ただ黙々と自分に課した数字だけを消化する構え。
そんな彼女をよそに、和やかな雰囲気でアリアが口を開く。
「どう、変わりない?」
「特には」
アリアの問いに、翼は短く返す。
あれから数日経過しているが、護衛関係の状況が動いた痕跡もなく、翼の日常も凪いだまま。
むしろ動きのなさそのものが、かえって引っかかるくらいのもの。
「真崎も小宮も掃討でめちゃくちゃ忙しいらしいから、一旦ばっさーのことは後回しっぽいね」
軽い口調で告げられる割に、その中身は軽くない。
組織の末端を一枚一枚剥いでいく掃討作業は、人手のかかる総力戦。
そこに真崎と小宮の両家がつきっきりになっているとなれば、現状問題のない翼の障害については急ぐことはないだろうと腑に落ちた。
「討ち漏らすわけにいかないから。この夏休み期間は時間との勝負になると思う」
そう翼が自身の推察を込めて言うと、アリアが視線だけで合図を送ってくる。
それが意味するのは『共犯の話は待て』ということなのは察するにあまりある。
心桜に悟られないようにと、声も文字も使わない密かな意図を受け、翼は小さくうなずいた。
「ばっさー……」
すると横から、微かな呟きが耳に届く。
翼は声が発せられたそちらへ目を向け、さらに疑問を深めた。
心桜がどこか複雑そうな表情で翼とアリアを交互に見ており、どうにも反応に困ってしまう。
「あれ、心桜ちゃん髪型変えたの?」
微妙な雰囲気になる前に、アリアが小首を傾けるようにしてそう切り出す。
すると気を取り直したのか、心桜は少し照れくさそうに答えた。
「リボンも三つ編みも髪を傷めますから」
「ふーん。確か、癖毛が大変って話じゃなかった?」
「えっと、つ……彼に、整えてもらいました」
若干詰まりながらも、心桜が柔らかに答える。
その声にためらいはなく、事実をそのまま告げるだけの口ぶり。
(……言うんだな)
今日の朝も心桜の髪に触れて整えたのは、ほかならぬ翼自身。
心桜の髪型の変化には、いまだに慣れはしない。
髪は肩のあたりまでふわりと下ろされていて、癖毛特有の毛先の動きが、以前よりも穏やかに整っているように見える。
それを見て、指先に蘇りかける、あの髪をすいたときの感触。
翼はそれを軽く手の中に握り込んで散らし、視線を前へと戻す。
「やるねぇ、ばっさー」
アリアがニヤニヤと笑いながら声を漏らす。
まなざしは翼にまっすぐ据えられていて、瞳の奥まで愉快そうに染まっていた。
気まずい話題から逃れるように、返答に詰まっていると、今度は心桜の方から問いかけが飛ぶ。
「気になってたんですが、その呼び方はどうしたんですか?」
「ん?」
「その、ばっさー、というのは……」
心桜が恐る恐るといったように紡ぐ言葉。
不満があるというより、純粋に気になっているという表情。
当初渾名については翼も引っかかっていたので、黙ってアリアの返事を待った。
するとアリアは少し口の端を吊り上げ、ゆるやかに頬杖をつく。
「まぁ、親しみを込めてね。可愛らしくていいでしょ?」
「……そう、ですね」
そう返す心桜の顔には、うっすらと羨むような色が滲んでいる。
なんとなしに呼ばれるその呼び名に、何かを感じているらしい。
そのごく僅かな感情の機微を見逃すアリアではなかった。
「じゃあ、心桜ちゃんが『ばっさー』って呼ぶのはどうだろうね? よし、早速呼んでみよう!」
「え? え?」
困惑する心桜に対して「早く早く」と急かすアリア。
心桜が少し翼の方へ伏し目がちな視線を送り、小さく口を動かす。
「ば、ばっさー……」
「……うん」
声に出した途端、心桜の顔に朱が差した。
テーブルの端を指先でつまむようにして、まなざしを伏せている。
翼は思わず感情の逃げ場を探し、卓上の木目に目を落とした。
「やっぱなんか違うよな〜なんでだろうな〜」
アリアが苦笑交じりに茶々を入れてくる。
言葉の意とは裏腹に、その声には予想通りだという響き。
そんな彼女へ心桜が意味ありげな視線を送ると、アリアは考えるポーズをとった。
「心桜ちゃんのばっさーの呼び方、どうするの? いつまでも『あなた』とか『彼』とかだと不便じゃない?」
「……どうにかしたいですね」
心桜の声には、珍しいほどの強さが宿っていた。
翼は喉まで出かけた相槌をのみ込んでから、彼女の想いを察する。
苗字ではなく名前を呼ぶことが、二人の関係をはじめるきっかけになった。
それを彼女は何よりも大切にしていることが、肌で伝わってくる。
「なら、ワタシのイチオシがあるよ!」
アリアが身を乗り出すようにしてテーブルを回り込み、心桜の耳元にそっと顔を近づける。
何事かを吹き込む、その唇の動き。
ひそめられた声は、翼の耳までは届かない。
「ええっ!?」
心桜が椅子ごと引く。
隠しようもないその動揺に、翼の背が自然と伸びた。
「ひ、人前でそれはちょっと……」
「ふーん? まぁ、心桜ちゃんに任せるよ」
心桜は何事かをごにょごにょと呟きながら、椅子をゆっくり引き戻した。
(な、何を言ったんだ)
聞こえなかったが、あの反応を見ればだいたいの方向は察しがついた。
人前では使えない類の呼び方なのだろうが、流石の心桜も顔が真っ赤になっていて無理そうだ。
解決したのかどうかは微妙なところだったが、この話題に一段落がついたようにアリアが「あ、そうだ」と手を叩いた。
「一旦呼び方は置いといて。それより、オススメした映画はどうだった?」
「勉強になる。内容も新鮮で面白いし。見てよかったよ、ありがとう」
「いいってことよ〜」
翼が先に口を開く。
映画を一本通して観るたびに、恋慕の感情の動きがぼんやりと見えてくる気がする。
娯楽でありながら、考える材料に事欠かない。
翼にとっては、なかなか悪くない時間を過ごせていた。
「でもさ、男側グイグイ行きすぎじゃなかった? 尺が限られているのはわかるけど、ちょっとどうかと思うんだよね」
「確かに。あのシーンは意外でした」
心桜が静かに相槌を打つ。
翼もそこは同じ印象を持っていたので、自然と口が開いた。
「おれも思った。あんなやり方じゃダメだろう」
「好きな人だとしても、さすがに気になりますよね」
好意があるとしても、進め方というものがある。
相手の反応を置き去りにしたまま前に出るのは、誠実さとは別の話だ。
画面の向こうの出来事だからこそ、こうして口に出せるのかもしれない。
心桜の言う『好きな人』という一節が、妙に明瞭な輪郭で翼の耳に残る。
翼はそれを口に出すことなく、少し目を細めた。
価値観が近いのか、ただ単にあのシーンが誰の目にも引っかかる作りだったのか、判断がつかない。
翼はそれ以上の問いに答えを出すのをやめ、目を前に戻した。
「……んふふ〜。こうやって二人で価値観を擦り合わせていくのがたまらんのです」
アリアの意味深な言に、翼と心桜が揃って首を傾げる。
タイミングまで一緒だったことに、翼は少し遅れて気づいた。
何かを収穫するような眼差しで、アリアが二人を眺め声を弾ませる。
「ばっさーの足が治ったら映画館とかも行ってみてよ。絶対楽しいからさ」
「いいね」
「いいですね」
素直に頷く二人を前に、アリアが目を細める。
次いでスマホを手に、心桜の方へ次々と写真を見せていく。
「映画館といえばさ、近くにオシャレなカフェがあって……これとか、これも良くない?」
「わぁ……素敵です」
心桜の声が弾む。
映画を観て、カフェで感想を話す流れまで、もう思い描いているらしい。
その光景を楽しんでいるかのような表情は、素直で隠しようがない。
「こういうの、あそこらへんいっぱいあるから結構楽しめるよ。もちろん、ばっさーがあちこち連れてってあげてよ?」
「わかった」
返答は難しいことでもなかった。
翼としては、護衛任務を続けるのであれば然るべき同行でしかない。
むしろ心桜が外に出たいと思えるようになってきたのなら、自身の都合は目を瞑るべきだと思っている。
迷いないまっすぐな返答を受けて、アリアが自分の世界へと入っていくかのように、独り言を漏らす。
「共通の趣味に、映画館からのカフェで感想会……ああ、ワタシの理想が作られていく……うふふふふふ」
「「?」」




