77_手入れ
翌朝、心桜のトレーニングを終えたのち、翼は緊張の面持ちで心桜の家のリビングのソファに腰を下ろしていた。
自分以外に人の気配がない室内はやけに静かで、目の前に置いてある器具から目を離せない。
テーブルの上には、行儀よく並べられたドライヤーとコームなどの整髪器具類。
それが意味するのは、これから翼が心桜の髪を乾かす役目を負うということ。
昨日の流れのまま、気づけばこの体勢でいる。
ごくりと唾を飲むほどの緊張感に包まれる理由は、万が一にも彼女の髪を傷めてしまわないかという恐れから。
そんなことは当然あってはならず、試しにコームを手に取り、幾度か目の前を通してみる。
なんでもない動作のはずが、意識した途端に指先が強張った。
自分の髪ならためらいもなく梳けるのに、相手が心桜だと思うだけで、たかがコーム一本の重みが増したように錯覚する。
そうやって不毛な格闘を続けているうちに、遠くから響いてきたのは、からりと扉の開く音。
「お待たせしました」
声に引かれて振り返ると、廊下から差し込む柔らかな光の中に心桜が立っていた。
まず翼の目に飛び込んでくるのは、白茶色の色彩。
濡れた髪はしっとりと重みを含んで首筋に張り付き、いつもの彼女とはまるで別人のよう。
湯上がりの気配というものは、こんなにも人の印象を変えてしまうものなのか。
見慣れているはずの相手が急に見知らぬ誰かに思えて、どこを見ればいいのかわからない。
結局、翼は顔から視線だけを外したまま、身じろぎひとつできずに固まってしまう。
そんな逡巡をよそに、心桜は澱みない足取りで翼の前まで歩いて立ち止まる。
そのまま迷いなく、ソファに座った翼の足元へ腰を下ろす。
一段低い床で背を向けて座った心桜の髪が、すぐ目の前に広がっていた。
(……近い)
息を吸えば届いてしまう位置に女性の艶やか髪があるという状況に、実感がまるで追いつかない。
だが、もう後には引けないことだけはわかっている。
翼は覚悟を決めて、ドライヤーとコームを握り直した。
「で、では……失礼します」
「……敬語」
拗ねたような、それでいてどこかおかしそうな響きが背中越しに飛んでくる。
しかし機嫌を損ねたわけではないように、心桜の細い肩が小さく揺れていた。
からかうような、その笑い方。
張り詰めていたものがすっと緩んで、ようやく手元へ意識を戻すだけの余裕が生まれてくる。
「じゃあ、早速お願いします」
「……うん」
促されるまま、翼はドライヤーの電源を入れ、しっとりとした髪へ恐る恐る温風を当てていく。
途端、シャンプーの甘さと心桜自身の香りが混ざり合って、翼の鼻腔へ忍び込んできた。
温められて立ちのぼる、湯気にも似たほのかに甘い匂い。
すぐ近くに寄らなければ届かないはずのそれが、思ったよりも早く意識の表層へ張り付いてしまい、コームを持つ指が止まった。
(……こんなことで、いちいち手が止まるのか)
たかがこれしきのことで、と翼は内心で自分を持て余す。
気を取り直して手を動かし始めると、白茶色の髪が指のあいだをさらりとすり抜けていった。
細くて、軽い。
それでいてふわふわと浮き立つような手触りが、そこにある。
なるほど、これは丁寧に乾かさないとすぐに跳ねてしまうのだろう。
毎朝気を遣って自分で手入れしているのかと思うと、心桜の気苦労がいまさらのように腑に落ちる。
実際、焦りで見落としてしまって、ゆっくり浮いてくる箇所が数か所あった。
それを一つずつ解きほぐしながら、根元から毛先へとドライヤーを滑らせていく。
熱くなりすぎないよう距離を測り、焦らず、じっくりと。
風に乗って舞い上がる髪の先が、翼の手の甲を何度もくすぐってくる。
そのかすかな刺激のたびに指の運びが乱れそうになるのを、翼はどうにか押しとどめた。
心桜は手の動きにいっさい逆らわず、ただおとなしく全身の力を抜いている。
最初は硬かった肩も、乾かし進めるうちに少しずつ丸みを帯びてほどけていき、髪ごと身を預けるように、その頭がほんの少しだけ後ろへ傾いた。
髪を整えるだけで、これほど無防備に身をゆだねることになるのか。
その事実に驚くと同時に、どこか落ち着かない。
胸の奥のざわつきをやり過ごすように、翼は両サイドの髪を丁寧に整えていく。
乾くにつれて軽さを取り戻し、ふわりと浮き上がる白茶色の髪。
さらりとした毛先が指をこぼれるたび、朝の光を弾いて淡く色を変えた。
「……できた」
「ありがとうございます」
いつしか一心不乱に集中し、たっぷり時間をかけて髪を整え終えた翼は、心桜へと声をかけた。
振り仰いだ彼女が、花が開くように柔らかく微笑む。
翼はテーブルに器具を置いたのち、次いで手鏡を心桜へと差し出す。
「はい。どうぞ」
「いえ、大丈夫ですよ」
「……え? 自分で確認しないの?」
翼の疑問を受けたのち、心桜はふるふると首を横に振る。
遠慮ではなく、端からそんなものは必要ないとでも言いたげな、ためらいのない様子が伝わってきた。
「あなたから見て、いいと思うようにしてくださったのですよね?」
「……うん、もちろん」
「なら……それがいいんです」
そういって少し翼から目線を逸らす心桜。
声のトーンはあくまで落ち着いているのに、耳の先だけがほんのりと赤い。
澄ましきれていない動揺の痕跡を見てしまい、翼は心が揺さぶられる。
「あ、あとですね……もし髪型が崩れていたら直してもらえますか?」
「え、いい、けど」
意味を測りかねながらも翼が小さく顎を引くと、心桜はゆっくりと続けた。
声の端に笑みの気配を滲ませたまま、反応をうかがうように見上げてくる。
「あなたから見て気になるところがあれば、いつでも触れてください」
言い終えて、心桜は唇の端をほんの少しだけ持ち上げた。
それ以上の説明は、彼女の口から何も続かない。
ただその笑みには、どこか満ち足りたものが確かに宿っている。
いつでも触れていい、という響きの裏に何が置かれているのかを、翼はうまく掬い上げられない。
髪を直すという口実で、翼の迷いが晴れるのを望んでいるのか。
それとも翼の考えすぎで、心桜はただ純粋に信頼を差し出しているだけなのか。
どちらとも決めかねたまま、翼は彼女の髪の感触が残る自分の指先へ視線を落とす。
結局、翼にできたのは、ごまかすように小さく息を吐くことだけだった。




