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76_接触

「ご、ごめんなさい」

「いや、疲れてるだろうから仕方ないよ。気にしないで」


 目を覚ました心桜は、すぐに謝罪の言葉を口にした。

 長時間もたれていたことへの申し訳なさが、彼女の表情にそのまま出ている。


 ただ、翼としても自分勝手な理由で、心桜の体勢をそのままにしていた経緯がある。


 そのためあっさりと流そうとしていたが、心桜は心配そうに翼の顔を見つめていた。


「重かったでしょう。肩、大丈夫ですか?」

「うん。なんともないから大丈夫だよ」

「そうですか……わたしが言えたことじゃないかもしれませんが、どけてもらっていいんですよ? あなたは怪我人なんですから」


 心桜の視線が、翼の肩から全身へとゆっくり動く。

 声音からして責めているわけではなく、ただ翼の体を案じてくれているのがわかる。


 状態を確かめるように、ひとつひとつを丁寧に見ていく目つき。


 こうまで慮ってもらうことへの居心地の悪さが、翼の背筋にじわりと広がる。


「それなら……毛布とかクッションってある?」

「あ、すぐ用意しますね」


 これからも気苦労をかけてしまう可能性があると思い、対応策を提示する翼。


 それを受けて、心桜はすぐに立ち上がった。


 まるでこちらの意図を読んだかのように、ささっと押し入れの方へ向かう。


「どうぞ」

「ありがとう」


 心桜から受け取った毛布とクッションを、手の届く場所に丁寧に整える。


 ソファの上、必要になればすぐ手が届く場所。


 これでいいだろうと翼が手を離すと、心桜が不思議そうに首を傾けた。


「……使わないのですか?」

「もし心桜さんが眠った時に使えればと思って。寄りかかるのも首を痛める可能性があるし」

「あ、ありがとうございます……できる限り寝ないようにしますね」


 心桜がそう言いながら、少し照れたような表情を浮かべる。


 居眠りに関して彼女としては気恥ずかしいのだろうが、翼としては慣れつつあることでしかない。


 それよりも急激に変わった環境の中で、無理をする方が気がかりだった。


「疲れてる時は寝た方がいいよ。これで触れないように済むから横にできるし」

「……え?」


 さりげなく言ったつもりだったが、言葉が空気にひっかかる感触。


 ぽろっと出た心の声を受けて、心桜が固まっているのが見え、思わず視線を逸らした。


 翼は手元を見たまま、何でもない調子を装う。


「まぁ、次からは負担にならないようにするからさ。こっちのことは気にしないで」


 そう笑って表情を緩める翼。

 彼女の方へは向かず、平然としたように何でもない顔を作る。


 しかし、しばしの静寂が降りた。


 心桜が何かを考えるように、翼の方をじっと見ている気配がある。


 視線を逸らしクッションをいじりながらも、翼はそれを感じ、何をすることもできない。


「……もしかして」


 その確信めいた声音を受けて、翼は視線を彼女へ戻す。


 心桜はその視線に応えず、もう少し考えるような間を取った。


 すると彼女は、恐る恐る手を伸ばして、翼の方へと近づけてくる。


 ゆっくりと向かったのは、翼の掌。


 それを認識した途端、思考より先に体が動く。

 気づけば翼の手は、心桜の指先を避けて引っ込んでいた。


 心桜の手は空を掴み、次いでまっすぐに翼を見つめる。


「……なんで避けるんですか」

「い、や……その」


 彼女の問いに、言葉を濁す翼。


 つい先ほど自覚した自身の負い目を、こうも瞬時に看破されるとは思わなかったため、咄嗟に反論を用意できない。


 当然ながら、心桜は翼の本意を見破っているようで、落ち着いた声で翼へ諭す。


「前にも言ったはずです。あなたの手が汚れているなんて、わたしは思わない」


 迷いのない声が凛と通る。


 迸るような心桜の覚悟。


 翼の脊髄の奥が、その言葉の重さを思考よりも先に感じ取る。


「うん……」


 声に出した意味がどれほどあったかは、翼自身にもわからない。

 ただ何か返さなければという反射で、それだけが出てきた。


 それでも翼は、その掌を隠すようにして心桜から遠ざける。


 心桜の表情が、少しずつ険しくなっていく。

 柔らかかった目の線が引き締まっていくのを、翼は視界の端で追っていた。


「その感じだと、さっきだってわたしに触れないようにしていたでしょう」

「……まぁ。そうだけど」

「なんでですか」

「そもそも女子にベタベタ触るなんて良くないでしょ」

「…………」


 咄嗟に出た反論はいくばくか効果があったらしい。


 ぬぬぬ、という声にはならない唸りを、心桜が漏らす。


 眉がわずかに寄り、背が丸まっていく。


 そうしてしばらくの間逡巡していた彼女は、「……そうだ」と呟きふいにパッと翼へ顔を向けた。


 何かを思案するかのように、心桜が自身の髪をくるくると指で巻きだす。


「わたし、毎朝大変なんです」

「……?」


 文脈の飛躍に、翼の思考が一拍遅れた。

 直前の話から何がどうつながったのか、まだ追えていない。


 その疑問を補完するように、心桜が自身の髪を手ですく。


「癖毛で髪が上手く整わなくて……リボンや三つ編みで誤魔化していますが、髪が痛むのでできればやめたいんです」


 補足が加わっても、翼はまだ行先が見えていなかった。


 その間も、心桜はこちらをまっすぐ見上げている。


 その瞳には、既に決意が固まっていることを示すような、強い光が宿っていた。


「だから、あなたがわたしの髪を手入れしてください」

「……は!?」

「毎朝」

「毎朝!?」


 翼の声が、どこか間抜けな形で室内に反響した。


 髪の手入れ。

 毎朝。

 それが具体的に何を意味するのか、考えるまでもない。


 かなりがっつり触れることになるのを、絶対に避けられないことは容易に想像できた。


「じょ、女性の髪に触れるのはタブーじゃ!?」


 当然ながら簡単に同意することはできず、咄嗟に言い返す。


 しかしやはりというべきか、心桜はまるで揺れる様子を見せない。


「それは崩れるからですよ。あなたが整えてくれるなら、わたしはとても助かります」


 そう穏やかに微笑む心桜。


 理屈として成立しているようで、どこかに論理の飛躍がある気がする。


 だが翼には、具体的にどこがおかしいのかを指摘できない。


 心桜が無理やりにでも触れさせようとするための、口実を作ったのだということは、察するにあまりある。


 ただそれを確認する勇気も言葉も、今の翼には出てこない。


「いや、でも……」


 どれだけ探してもうまい断り方が出てこず、言い淀むしかない。


 触れたくないという気持ちと、そんな理由で断るのは筋が通らないという気持ちが、胸の中でほぼ同時にぶつかっていた。


 すると心桜が精一杯のお願いをするように、改めて尋ねてくる。


「だめ、ですか?」

「だ、ダメってわけじゃないけど……」


 答えながら、翼は頭の中を整理しようとした。


 最近は散々迷惑をかけてきた事実がある。

 心桜が睡眠を削って居眠りしたのも、その一因が翼にあることは確か。

 歩く時に肩を貸すのも、家事のほとんどを心桜が率先してやろうとしているのも、今後ずっと続くことだろう。


 髪を整える程度のことなら、心桜がやっている分を思えば、断るのは不誠実に思える。


「ならぜひお願いしたいです」


 言い返す言葉が潰えた。

 反論の形が整う前に、先回りされている。


 そんな彼女へ強く出られず、翼は困ったように視線を落とした。


「……じゃあ、夏休み期間はやるよ」

「もちろん夏休みが終わっても続けて欲しいですよ?」

「え、えぇ……?」


 翼の歯切れの悪い返事を聞いた心桜が、こらえきれないように小さく微笑んだ。


 得意げで、それでいてどこか稚いその笑みに、翼はただ折れることしかできなかった。


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