72_距離感
「では、わたしの部屋に移動しましょうか」
「……うん」
心桜がトレーニングを終え、一度自分の家へ戻って汗を流したのち、そう言って寄り添ってくる。
忘れていたわけではないが、心桜は当然のように肩を貸そうとしてきた。
以前設けられたルールは当然ながら今も健在。
移動の道中、なにかと触れてしまう感触が、しつこく意識の表面へ蘇ろうとする。
柔らかい。
ただ、それだけで済ませていい感触ではない。
シャワー上がりなのか、彼女の香りをより強く感じる。
どれだけ気を逸らしても、不意打ちのように脳裏へ浮かび上がるたび、思考の冷えた部分が警鐘を鳴らす。
意識するな。
考えるな。
そう言い聞かせる反面、余計に鮮明になっていくのだから始末が悪い。
翼はそれを振り払うことに必死になりながら歩き続け、心桜の家へ着くや否や、またもや逃げ込むように夏休みの課題へと意識を集中。
冷房の効いた室内は外とは別世界で、火照っていた皮膚が少しずつ冷えていく。
それでも脳の奥に残った熱だけは、なかなか引いてくれそうになかった。
心桜も同じく、自分の課題を持ってくるため一度部屋を離れ、数分後には飲み物まで用意してテーブルへ戻ってきた。
「ありがとう」
翼の近くに置かれたガラスのコップに浮かぶ氷が、からりと涼しげな音を立てる。
彼女へと感謝を告げ、ようやく体の火照りが冷え、平常を取り戻せる気がした。
しばらくはお互い勉強へ集中することで、妙な空気にならずに済む。
翼はそう判断し、ひとまず胸を撫で下ろす――前に、違和感に気づく。
(……?)
どういうわけか、心桜はなかなか座ろうとしなかった。
課題を広げているローテーブルはかなり大きい。
対面はもちろん、斜向かいでも十分な距離が確保できるはずだった。
それなのに、なぜか心桜は立ったまま位置を決めかねている。
翼は疑問を抱きながらも、家の主である彼女に口を挟む理由もなく、視線だけをノートへ落とした。
そうしているうちに、ようやく心桜が腰を下ろす。
(……え?)
声には出さずとも、彼女の行動を受けて呆気に取られる。
十分な広さのあるテーブルにて。
心桜が座ったのは――なぜか翼の隣に腰を落ち着けた。
テーブルの対面でもなければ、斜向かいでもない。
拳数個ぶん空いているとはいえ、今までとは比較にならないほど近い。
近々で心桜の家へ来た際は、もっと距離を取って座っていたはずだと翼は記憶している。
だからこそ、脳が状況を理解するまで数秒ほど遅れた。
とにかく近い、近すぎる。
彼女の熱を感じるほどに。
肩が少し動けば触れてしまいそうな距離感が、翼の神経を必要以上に刺激してくる。
「……心桜さん?」
困惑を隠しきれず、翼は思わず声を漏らした。
その反応を予想していたのか、心桜はどこかぎこちない仕草で髪を耳へかける。
「かっ、肩を支えるのに、ここが最適ですので」
その説明を受ければ、一応は理屈として成立している。
怪我人である翼を支えるには、確かに隣のほうが動きやすい。
反論できるほど不自然な理由でもない。
だが、納得できることと、平静でいられることは別問題だった。
またもや心桜の髪から漂う甘い香りが、空調に乗って確かに鼻先を掠める。
近いからこそ感じる香り。
そして近いからこそ、余計に意識してしまう体温。
心臓が跳ね上がり、落ち着かないのはおそらく自分だけではないだろう。
しかしそれでも、心桜はそこから動こうとしない。
むしろこれが自然な距離だと主張するかのように、翼そっちのけで課題を開き始めた。




