71_トレーニング2
翼はあえて心桜の方向を見ないまま、意識を手元の課題に切り替える。
これ以上そちらへ神経を向けていると、変な感情が湧きそうで。
半ば強引に思考を切り替えるように、時間潰しで用意していた勉強へと翼は意識を向ける。
心桜のトレーニングは、まずは有酸素運動から始めるようだ。
体力が不足した状態で、いきなり高負荷の筋トレを積み込むのは危険。
筋肉以前に疲労だけが蓄積し、翌日には全身が悲鳴を上げて継続不能になる未来が見えている。
結局のところ、基礎体力を段階的に引き上げるのが最も安定すると、翼も凛乃の考えに同意するところだ。
心桜は軽いストレッチののちに、トレッドミルへ乗り込む。
機械音と共にベルトが動き始め、一定のリズムで彼女の身体が上下し始めた。
最初はぎこちなかった歩幅も、数十秒ほどで徐々に安定していく。
その様子を音で聞きながら、翼は頭の中で自然とメニューを組み立てていく。
有酸素の時間。
休憩のタイミング。
筋トレとの比率。
心桜の性格を考えれば、こちらが止めない限り無理を押してでもやり切ろうとする可能性が高い。
だからこそ、負荷設定には慎重になる必要があった。
「あの、ちょっといいですか?」
始めてからしばらく経った頃、遠慮がちな声が飛んでくる。
翼は課題から顔を上げて、そちらへ返事を返した。
「どうかした?」
「あなたがいつもやっているトレーニングをやってみたいです。どうやってますか?」
「……HIITか」
その言葉に、翼は少し考える。
HIITと呼ばれる自分が普段やっているメニューは、初心者向けとは言い難い。
負荷も運動量も極端で、まともに真似すれば普通に潰れる。
ただ、それでも興味を持つ気持ちは理解できた。
翼がどんな視座を持ちながら鍛えているのか。
少しでも前に進みたい心桜は、それを知りたいのだろう。
「まぁ、最初は軽くバーピーをやってみるといいよ」
「わかりました」
説明しながら、翼はスマホで動画を開いてフォームを見せる。
しゃがみ込み。
腕立て姿勢への移行。
そこから一気に跳ね起きる。
全身を連動させる動作だけに、短時間でも心肺への負荷はかなり大きい。
ふむふむと動画を見終わった心桜が、マットに戻る。
どういう反応をするかについては、ある程度予想がついている。
おそらく『思ったより激しい』という感想になるだろうが、まずはやってみることだ。
そうして心桜が実際にバーピーを始めた。
「フォームはそう、それっ!?」
驚き混じりの声が室内へ響く。
運動自体は特段違和感はない。
しかし実際には、問題は別方向で発生していた。
心桜が試しにフォームを真似し、勢いよく飛び跳ねた瞬間。
薄手の夏用ウェア越しでもはっきり分かる存在感が、予想以上の破壊力で視界へ飛び込んできた。
夏場の軽装で全身運動をすれば、そうなる。
冷静に考えれば当然の話だった。
しかし翼の脳内には、その発想自体が完全に抜け落ちていた。
思考より先に、反射で視線が床へ落ちる。
フォーム確認という建前がありながら、全力で現実から逃避。
「……どうかしましたか?」
すると当然、声をかけられる。
視線を戻せば、心桜は不思議そうに首を傾げていた。
まるで自覚がない様子の彼女。
だからこそ余計に罪悪感が募る翼。
「い、いや。じゃあ30秒ぐらい続けてやってみよう!」
空元気な声を上げ、翼はフォーム確認を続ける振りをする。
下を向いていれば、少なくとも理性への被害は最小限で済む。
その判断を必死に正当化しながら、一セットのタイマーを設定し、開始の合図を送る。
すると心桜の呼吸が、明らかに乱れ始めていた。
肩が大きく上下し、額には細かな汗が浮かぶ。
それでもペースを落とさないあたりに、彼女特有の真面目さがよく出ていた。
だが、無理を押して続けていることくらい、翼にはすぐ読み取れる。
頑張り過ぎる人間ほど、止める側が必要になる。
そのことを翼は嫌というほど知っていた。
「無理しない方がいいよ。一旦休もう」
少し早めに制止をかける。
今必要なのは限界まで追い込むことではなく、継続できる身体を作ることだ。
呼吸を乱しながら、心桜が驚いたように呟く。
「はぁ、はぁ……あなたはこれを何十分もやってたんですね……」
「負荷が高い分、一番効率がいいとは言われてるからね」
「到底真似なんてできない。本当にすごい」
尊敬を隠さない眼差しが、まっすぐ翼へ向けられる。
しかし翼は、どこか困ったように首を横へ振った。
褒められて嬉しくないわけではない。
ただ、自分にとってトレーニングは誇るためのものではなく、生き残るための機能維持に近かった。
必要だから積み重ねてきただけ。
そこへ純粋な尊敬を向けられると、どこか認識が噛み合わない感覚になる。
心桜が向ける真っ直ぐな眼差しと、自分がそこへ込めてきた意味。
その温度差が、翼の胸へわずかな居心地の悪さを残していた。
「焦らないでいいよ。形になるまで、おれも時間かかったから」
「いえ、できればこの夏休みでそれなりに形にしたいです」
返ってきた声には、迷いがなかった。
思いつきで言っているのではない。
本気で変わろうとしている人間特有の熱量が、その短い言葉の奥に宿っている。
その決意を感じた翼は少しだけ表情を引き締め、その続きを促した。
「トレーニング全体はどういう感じなの?」
「まずは体力をつける有酸素をベースに、筋トレと、あとは何か武道も考えてます。凛乃さんが言うには、柔道がいいかと」
その内容に、翼は妙な納得を覚える。
柔道であれば、確かに合理的な選択肢だった。
組み技主体で距離が近く、体格差を利用した制圧力にも優れる。
特に翼のような相手を抑え込むなら、打撃系より現実的な場面も多い。
凛乃が勧めた理由も、おそらくそこなのだろう。
単なる一般論ではなく、翼という存在を想定した上での助言。
そう考えれば自然と腑に落ちた。
ただ、柔道は当然ながら身体接触が前提になる。
組み合い。
密着し。
重心を崩し合う。
一瞬だけ、心桜と組み手をしている光景が脳裏を過ぎった。
そして即座に、その想像を切り捨てる。
(……いや、考えないでおこう)
これ以上そちらへ思考を向ければ、絶対に冷静さを維持できない。
翼は半ば強引に意識を切り替えるように、次の話題へ移った。
「き、筋トレもサポートするからさ。細かいトレーニングを教えてほしい」
「まだそこまで詰め切ってはいないですね」
「じゃあ、おれの方で考えてもいい? 食事メニューも大事だから、そっちも合わせて話できればよりいいと思う」
返事を待つより先に、翼の頭の中ではすでにメニュー構成が組み上がり始めていた。
筋トレ種目。
頻度。
有酸素との比率。
さらに栄養素や摂取カロリーまで含めれば、やっていることは専属トレーナーに近い。
おそらく心桜は、翼がどれほど本気で設計を始めているか、まだ完全には理解していない。
ただ翼自身も、それを負担とは感じていなかった。
本来面倒なはずなのに、自然と頭が回ってしまう。
「あ、ありがとうございます」
心桜が静かに頭を下げる。
先ほどまで息を切らしていたとは思えないほど、表情は穏やかだった。
この夏休みが終わる頃には、今よりずっと動ける身体になっているのだろう。
十分な器具。
そして翼という専属の、プロといって差し支えないトレーナーまでついている。
環境は全て整っており、心桜のやる気も申し分ない。
そして翼自身もまた、気づかないうちにその変化を前提として動き始めていた。
心桜の横顔を眺めながら、彼女の成長を案じながらもどこか楽しみに思った。




