70_トレーニング1
鍵を渡してからというもの、翼の生活に新しい流れが生まれた。
朝、二人で話した時間に扉の鍵が鳴る。
そして玄関から、トレーニングウェア姿の心桜が入ってくる。
それが、この夏の当たり前になるのだろうと思った。
心桜は遅れることもなければ、逆に早すぎることもない。
まるで秒単位で管理されているかのような正確さで、朝の決めた時間にやって来る。
その規則正しさには、彼女の生来の几帳面さが色濃く表れているのだろうと、翼には自然と腑に落ちていた。
「おはようございます」
「おはよう」
そうリビングにて挨拶を返した翼。
ただ、心桜の様子がいつもと少し違うことに違和感を覚える。
普段は下ろしていることの多い白茶色の髪が、今日は首の後ろでひとつに束ねられていた。
高い位置で結われたポニーテールが、動くたびにさらりと揺れる。
すっきりと露出した首筋の白さが、妙に目につく。
普段より活発な印象を受ける反面、気品そのものはまったく損なわれていない。
むしろ隠れていた輪郭が見えることで、彼女の整った横顔がより際立っているようにも見えた。
「髪型、変えたんだ」
「『運動するなら束ねた方がいい』と、凛乃さんに言われたので」
「確かに。すごく似合ってるしいいと思う」
ピタッと心桜の動きが止まる。
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。
褒めようと意識していたわけではない。
ただ目に入った光景を、そのまま声に出してしまっただけ。
後から取り消そうにも、すでに言葉は届いてしまっている。
今さら訂正したところで余計に意識しているように聞こえるだけだろうと判断し、翼はわずかに視線を逸らした。
「あ、ありがとうございます」
心桜が、小さく照れたように答える。
その瞬間だけ琥珀色の瞳が泳ぎ、しかしすぐに平静を取り戻した。
切り替えの速さを見る限り、どうやら彼女にとっても完全に不意打ちだったらしい。
照れているのはこちらだけではないのだろうと察し、翼は内心で少しだけ安堵する。
もっとも、その空気感を深掘りするほどの余裕はない。
にも関わらず、その瞬間に別の問題へ気づく。
夏だからか、心桜の着ているウェアが薄い。
肩から腕にかけて白く眩しい肌が露出しており、華奢な太ももがスラっと伸びている。
全体的にかなり軽装寄りのデザインだ。
スポーツウェアとして見れば機能的で、むしろ健全な範囲なのだろう。
ただ一点。
翼にとっては、その露出量があまりにも刺激として強すぎた。
普段の制服姿や私服は、夏にしても厚着だったり、白タイツを履いていたりと肌を見せず、令嬢として整えられている。
しかし今目の前にいるのは、少女としての体のラインが、妙に現実感を伴って視界へ飛び込んでくる格好だった。
目のやり場に困るとは、まさにこのことだろう。
「……あの、もうちょっと服着た方が良くない?」
できる限り事務的な声音を装いながら、翼は慎重に言葉を選ぶ。
真正面から見ないよう意識しつつ返答を待つが、それ自体がすでに不自然になっている自覚もあった。
「暑いですし」
返ってきたのは、実にもっともな返答だった。
昨今気温が上がりっぱなしな状況であれば、エアコンが効く室内だとしても、言い分は正しい。
夏場に厚着で運動をすれば熱中症の危険もある以上、機能性を優先するのは当然ではある。
しかし問題はそこではない。
翼がうまく言語化できずにいると、心桜は不思議そうに小首を傾げた。
「見られるとしても、あなただけでしょう?」
さらりと言い切られた瞬間、翼の思考が一瞬止まる。
そこに悪意も羞恥もない。
ただ事実を並べているだけという顔だった。
だからこそ余計にまずい。
(いや、その状況が一番まずいんだけど……)
脳内では即座にそんなツッコミが浮かぶ。
しかしそこを真正面から説明するのは、どう考えても難易度が高い。
仮に「異性として意識するから困る」と説明したところで、主人相手に言うべきことなのか。
なにより、その説明自体が恥ずかしすぎる。
「まぁ、できる限り見ないようにするよ」
結果として、翼は逃げるような結論に着地した。
「……もう」
小さなため息が聞こえる。
呆れ半分なのか、あるいは別の感情が混ざっているのか。
そこまでは読み切れなかった。




