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67_共犯

 目を覚ました瞬間、翼の意識が現実に追いついてくるまで、少し時間がかかった。


 最初に届いたのは柔らかな感触。


 頭の下に何かある、あたたかく、やわらかく、規則正しい呼吸の音がすぐそばにある。


 甘い香りが、空気に溶けるようにあたりに漂っていた。


 みじろぎとともに、まぶたを持ち上げると、すぐそこに心桜の顔が。


「あ……き、気分はどうですか?」


 翼が起きたことに気づいたのか、心桜から声をかけられる。


 こちらを覗き込むように、真上から降り注ぐ視線。


 そうして翼は自分の状況を理解し、と同時に心臓が跳ねた。


 自分の頭が――心桜の膝の上に乗っているということに。


「な、なんっ!?」


 弾かれるように上体を起こした。


 あまりの衝撃に、頭を打ちつけでもしたかのように、意識が鋭くなる。


「あ、やっと起きた」


 するとアリアの悪戯っぽい声が耳に届く。


 そちらへ顔を向けると、アリアと凛乃がダイニングテーブルで座っていた。


「感謝してよね。ワタシの提案だよーん」


 その一言からこの突然の膝枕について、アリアが発端になったことがわかる。


 しかし動揺に動揺を重ねた翼はそれどころではない。


 振り返って見ると、心桜はごく平然としていた。

 動揺をそのまま顔に出している翼に対して、彼女の表情は不思議なほどに自然。


 アリアも特に気にした様子がなく、二人の空気の温度が、翼の言葉を吸い込んで消してしまった。


 そうして少し頭が冷えた時、翼は思わず声を張り上げる。


「鷹野さん怪我は!?」


 凛乃の姿を見て、自分が何か彼女へ傷を与えていないかと焦りに駆られる。


「してない」


 返ってきた答えは一言のみ。

 短く、乾いていて、それでいて確かな声。


 翼は胸の奥でほっとした。

 自分でも気づかないうちに張り詰めていた何かが、わずかに解けていく感じがする。


 しかし凛乃はさらに表情を歪ませる。

 翼の安堵を目の当たりにして、彼女の表情が一段、その色を変えた。


「お前、しばらく家から出られないんだよな?」

「うん。足がこれだから」


 そうやって問いに対して足を見せる翼。

 ヒビが入っている足は絶対安静であり、外出はおいそれとはできない。


 その返答を見越していたかのように、凛乃が口を開く。


「ならこの家の器具を使わせてくれ。いちから鍛え直す」

「え」


 唐突なお願いを受けて、翼が答えに詰まる。


 ただ断る理由もないのが正直なところであり、迷いがありながらも頷く。


「わ、わかった。それは問題ないけど……なんで?」

「お前と一合すら打ち合えんのは癪だ。だから私のためにやる」


 そういうふうに言われれば、断る理由もない。


 以上でやり取りは終わりと示すように、凛乃が一息をつき、この家へ通うことがすんなり決まる。


 流れに困惑していると、横にいる心桜から「あの」と声をかけられる。


「凛乃さんに習って、わたしも体を鍛えます。前お話ししてましたしいいですよね?」

「え、あ、うん」


 翼の問い返しは、思ったより素直に出た。

 心桜は以前より運動をしたいと言っていたため、これまたすんなり同意する。


 サラッと言われて反応に困るところ。

 しかしこちらも拒否する理由がなく、混乱がさらに極まる。


 翼の気が変わる前にと、凛乃の声が場の空気を切り替えた。


「早速借りるぞ」


 言ったと同時に立ち上がって動き始めている。

 運動用の服を持ってきていたらしく、着替えのためにトイレへと向かっていた。


 ここまで考えていたのだろうと、翼は思う。

 凛乃の行動に、発言に、迷いがない。


 心桜も着替えのためにと一度自分の家へ戻る。

 残った翼とアリアのあいだにしばらく沈黙が流れた。



 ◇  ◇  ◇



 マットの上で、二人が向き合っている。


 凛乃が心桜へと何事かを伝え、心桜がそれに相槌を打つ。

 これからの鍛錬についてお互い確認を進めていることがわかる。


 少し離れたダイニングテーブルから翼はその光景を眺めていた。


 今更ではあるが、はらはらするというのが正確な表現だろう。

 心桜が怪我しないか、無理をしないかと、目が離せない。


 止めるべきか、止めない方がいいのか、その判断がつかないままただ見守っていると。


「ほんと、すごいよね。あの二人は」


 唐突にアリアの声が、テーブルの向かいから届く。


 その声に釣られて翼は視線を彼女の方へ向けた。


「わかってると思うけど、君のために努力しようってやってることだよ?」

「……」

「凛乃ちゃんも建前はああ言ったけど、君の様子を見たいからここに来るんだと思う」


 アリアの言葉は正しいと翼も思う。

 二人とも口に出さなかったが、翼を案じてのことだというのは察せられた。


 ただ、素直に飲み込めない何かが、翼の胸の中にある。


 自分のために二人が体を張っているのを、釈然としない思いでずっと引っかかっていた。


「めんどくさい……君がいなくなればいいだけなのに」


 すると正面に座るアリアの声が、一段低くなった。


 その声音を受けて、翼の身が凍ったように引き締まる。


「で? 君はワタシに何の用があるの?」


 アリアが、翼を正面から見た。

 翼もそのまま彼女を見つめ返す。


 こうなることを予想し望んだのは翼の方だと、彼女は告げる。

 凛乃の怒りを逸らすためのアイコンタクト。

 あれはそれだけの意味ではないことを、人の機微を鋭く読み取る彼女に正しく伝わったのだと。


 翼が小さく息をついて、話を切り出す。


「結井さんなら、話を聞いてくれると思った」

「土下座まがいのことをしてまでワタシたちを試そうだなんて、どうかと思うけど」

「おれも必死だから」


 アリアの瞳がさらに細まる。

 それでいて、鋭さは消えていない。


 飄々とした笑みの奥に、何かを測るような知性が光っている。

 この底知れない人間を、翼は侮れないと肝を据える。


「小宮くんの言い分はわかるよ」


 翼が自分の意見を出す前に、彼女ははっきりと言う。


 マットにいる二人を眺める表情は柔らかいが、口から出る言葉は冷たい。


「凛乃ちゃんと心桜ちゃんを壊す可能性のある君を、ワタシが許すわけないって思ったんでしょ?」

「うん。その点、誰よりも信頼している」

「はっ、そんな信頼されても嫌なんだけど」

「……繕わないんだな」


 翼の信頼を受けて、露骨に不快そうな表情を浮かべるアリア。


 今までは建前上、繕うか受け流すかのように飄々としていたはずだ。

 態度の変化を意外に思い、翼は率直に問いかける。


「前ならともかく、今の小宮くんに上っ面見せてもなぁって。怒っても君に通用しないって実践済みだし。あ、言っとくけど、あっちもこっちもワタシだからね」


 そう平然と話す彼女の表情は、一切のブレがない。

 二面性を持ち、それを使い分けていること。

 それが身に染み付いていると示すかのように、澱みなく答える彼女。


 以前翼に怒ってみせたのも、海外でよくあるポーズでしかなく、あくまで手段として使っていたのが頷ける。

 その後のアリアの対応があっさりしていたのも印象的だった。


 次いで彼女は、遠くにいる二人へと顔を向けた。


「あの二人のように、まっすぐ生きられたらいいけどさ……そうも言ってられないのが人間ってもんでしょ?」

「……おれもそう思う」


 翼の返答は短かったが、その重みを理解している。

 まっすぐ生きることの難しさを、中学の悪意にもまれた経験を経て痛感している。


 同じくアリアも何かの波に呑まれて、諦め、それでも歩みを止めなかった者なのだろう。


「でもすぐに君を消しても、あの二人はほっとかない。特に今の心桜ちゃんは地獄でも追ってくるよ」


 地獄にまで。

 それが一切の冗談でもなく、比喩でもないことが自然に受け入れられる。


 翼としてはここが一番自力でどうにもならないと痛感している部分であり、すぐにでもなんとか手を打つべきだと考えていた。

 そのため協力者を求め……それが最も翼へと非情になれる、アリアだった。


「さすがのワタシもこうなると思ってなかったな〜。あっちは君のため。こっちは心桜ちゃんのため……まさか協力者が入れ替わるなんて、ね」


 協力者の入れ替わり。

 お互いの一番大切なもののためという点で、翼とアリアの利害が一致。

 それが主の心桜と本来の協力者である凛乃と対立する形になったのが、なんとも複雑な心境だが。


 あの二人を諦めさせるのは困難を極めるだろう。

 現状、翼では対処法がわからないため、無理をしてでもアリアに頼った方がいいと判断した次第だ。

 それに応えるが如く、アリアは考えを巡らせる。


「ま、ワタシも考えとく。強引にでも引き剥がさなきゃいけない時もあるだろうし。この学校内であればワタシにできることがあるはず」


 理事長の娘であるアリアは、この学園では影響力が増幅されている。

 それは先の決闘騒ぎの誘導と制止でも感じているところだった。


 権力を使う気になれば、それは抑止力ではなく処刑の刃になり得る。

 これ以上の適任はない。

 翼は彼女へ信頼を込めて、頭を下げる。


「その時はなんでもやるから、恥を忍んで頼む」

「……あーあ。君がもっと悪人だったらよかったのに。気が重いよ」


 そんな彼女の気だるそうな態度を受けて、翼は一瞬口を止めた。


 言うべきか、言わなくてもいいことかもしれないが、それでも言わずにいられなかった。


「……おれはもう殺人犯だ」

「そういうとこだよ。今更汚れ仕事ができないわけじゃないけどさぁ」


 沈黙が短く挟まり、アリアが小さく息をついた。


 諦めたように、あるいは何かを受け入れたように、その息は静かだった。


「んじゃ、共犯ってことで。もしなんかあったら容赦なく君を消すから。よろしく」

「ありがとう……恩に着ます」

「かったいなー。そんなんだとバレちゃうって」


 アリアが、ふうっと息を吐いた。


 それから何かを思いついたように、にやりと笑う。


 翼が警戒するより先に、アリアは続けた。


「よし、カモフラージュのために仲良くなった風をみせかけて……愛称で呼ぶね!」

「愛称?」

「女子はそういうもんなんだよ〜」


 アリアはすでに「翼って名前ならもうこれしかない。と思ってたんだよね〜」と何かを決めたらしく、ひとりで頷いている。


 翼の反応など最初から期待していないような顔だ。


「ってことで。よろしく、ばっさー!」

「ば、ばっさー?」

「あれ、知らない感じ? 翼バサバサでばっさー。飛んでる感じしていいじゃん」


 ノリすぎてわからんと思ったのが表情に出たのを見られたのか、アリアは満足そうに笑った。


 ただアリアの雰囲気が、それをそのまま笑い流すことを許さない感じがして、結局何も言えなかった。


「……それに、ヤキモキしてるの辛そうで見てられないから。今ならワタシに引っ張られるはずだし」


 アリアの声のトーンが、わずかに落ちた。


 先ほどまでの軽さとは違う種類の何かが、アリアの言葉に滲んでいる。


 翼はその変化を感じ取ったが、意味まではつかめなかった。


「……なんの話?」

「んー、その時のお楽しみってことで」


 それで話は終わり、かのように会話が途切れる。


 アリアはまたマットの方へと視線を向け、仮面を被るように口端を吊り上げた。


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