66_対峙
場が、緊張感に満ちる。
翼の表情から、何かが消えた。
あるいは、何かが入れ替わったと言うべきかもしれない。
さっきまでそこにいたはずの翼が、その輪郭だけを残してどこかへ行ってしまったようだ。
無表情が、冷徹さを纏う。
何も持っていないはずなのに、ただ剣を構えているだけで、空気が鋭く身を刺す。
目の前に立っているのは翼だが、そこにいるのは翼ではない何か。
人を傷つけることに臆する彼はもうそこにはいない。
その威圧感に、息を吸うことすら躊躇われる。
アリアも、心桜も、無意識に息をつめていた。
そうしなければならないような、本能的な警戒が体を縛っていた。
凛乃が一歩を踏み出す。
その一足が、すでに満ちていた緊張をさらに一段引き締める。
誰も声を発することができない。
リビングの空気が、密度を増したように思えた。
しかし、凛乃は間合いに入ることなく――足を止める。
「……無理、だな」
短くそう言って、凛乃は大きく後退した。
額に薄く浮かんだ汗を、手の甲で一度だけ拭う。
その仕草が、今しがた本能的な危機を感じていたことを物語る。
ほっと、心桜の表情から、わずかに力が抜けた。
安堵が全身から滲み出るような、そういう顔だった。
「どんな感じなの?」
アリアが、少し間を置いてから声をかける。
部屋に漂う緊張を解こうとするような、あるいは自分自身の気持ちを整理しようとするような、そういう問いかけだった。
「剣道の有段者に対峙した時と同じだ。後の先として、手を出せば何をしても返されるだろう」
凛乃の言葉は淡々としていた。
感情が乗っていない分、その評価は却ってなまなましく響く。
「事前にその威力と、人を殺めたという情報を知っていれば、手を出すことはできん。護衛としては比類がないと言える」
称賛でも批判でもない、ただの評価だった。
感情を排したその言葉が、かえって重みを持って場に沈んでいく。
そして、アリアは翼のほうを見て呟く。
「……小宮くんの中では、今でもまだ心桜ちゃんを守ってるんだね」
心桜の目に映る翼の姿が、あの日の倉庫と被る。
過去に囚われた象徴たる様が、そこに在り続けている。
いずれにせよ、あの日の心の傷は翼にとって一生残るものとなったと誰しもが感じることだろう。
その記憶が、感触が、脳裏に焼きつき、防衛本能だけが残り続けている。
心桜を守る、というたったひとつの意志が、どんな状態であっても消えることなく、呪いのように刻みこまれた。
それを象徴するかのような彼の姿を前に、心桜の表情が大きく崩れる。
「翼くん……」
◇ ◇ ◇
「んで、ふたりはどうべきだと思う?」
ひとしきり続いた重い話の余韻を場ごと引き取るような短い間を置いてから、アリアが場全体に向けて口を開く。
問いかけの形をとってはいるものの、すでに答えを知っていて確認しているような口調で、問う意図よりも確かめる意図の方がその言葉には強かった。
「どこまでできるかわからんが、鍛え直す」
凛乃の返事はいつも通りに短く、余分なものを一切削ぎ落とした、判断というよりは宣告に近い一文。
どこまでできるかわからないと前置きしながらも、その声にためらいのようなものは一切混じっていない。
「ちょうど設備もあるしな」
「ここに通うって事?」
「ああ」
使い込まれたフロアと、壁際に沿って並ぶくすんだ器具の数々。
それぞれに刻まれた、年季の入った摩耗の跡。
一人で集中できる上に、申し分ない環境が揃っていると断言できる。
「ふーん」
アリアの返事は短く、それ以上を問おうとしない素振り。
何を言っても凛乃の決定を変えられないと理解しているように、かわりにその視線が、すっと心桜の方へと向いた。
「心桜ちゃんは?」
そう切り替えたアリアの目には、何かを確かめようとする意図がはっきりと宿っていた。
多分に疑念を含む視線を受けて、心桜が口を開く。
「考えていたことがあります」
「へぇ?」
ゆっくりと動いていく心桜の瞳が、アリアではなく凛乃へと向かっていく。
それを受けて、凛乃もわずかに眉を動かした。
「凛乃さん」
「なんだ?」
「わたしに――戦う術を教えてください」
心桜がその言葉を口にし終えた瞬間、それまで重くよどんでいた雰囲気が一枚の膜を張るようにして静止した。
アリアも凛乃も、すぐには口を開こうとしない。
場全体がのみ込んだ、ひとつの沈黙。
問いかける柔らかさなど最初から存在しない言葉で、すでに決めてきた人間だけが持つ重さがその一言にそのまま詰まっていた。
「理由は……聞くまでもないか」
「はい」
凛乃はそれ以上問わず、かわりに心桜の瞳を覗き込む。
迷いを示すような感情の揺れがどこにもない。
決め終えた者だけが持つ、静かな表情。
決意というよりも、もっと深いところで固められた覚悟とでも呼ぶべきものが、その輪郭全体に張り付いていた。
「いやいや、なんで?」
アリアが眉を寄せながら困惑の色をあらわにして、心桜の言葉の余韻を断ち切るようにして割って入る。
心桜が抱えている覚悟の重さとは裏腹に、アリアの声には理解できないという感情がにじんでいた。
「わたしは翼くんに攻撃されません。なので、わたしが止めればいいでしょう」
「今はそうだけど、ずっとその保証はあるの?」
問い返しの言葉自体は短かったが、その中に込められている鋭さは刃のように刺さる。
心桜の口が何かを言おうと動きかけるよりも早く、アリアはそこへかぶせるようにしてさらに言葉を重ねた。
「凛乃ちゃん、小宮くんは上司の人を大怪我させたって聞いたけどほんと?」
「ああ」
「プロの人でそうなら、もし心桜ちゃんが攻撃されたら怪我で済むと思う?」
「思わん。というか、私ですら命の保証は皆無だ」
凛乃は余分な感情を交えることなく、アリアの問いかけを否定することなく、ただ端的に事実として返した。
反論があるなら聞こう、とでも言いたげに、アリアの視線が再び心桜へと向かう。
「ほらね。それでもやるの?」
「はい」
「……殺されるよ、簡単に」
「覚悟の上です」
心桜の返事は短い。
場へと置かれたその言葉は、一切の揺れを見せない。
アリアが心桜の顔をしばらく見つめる。
どれだけ瞳の奥を覗き込んでも、動揺や迷いは一切見られない。
それでもアリアはすぐには引き下がらず、であればと切り口を変えた。
「いやさぁ……小宮くんの気持ちも考えたら?」
「……翼くんの?」
心桜の声にこれまでの語り口には存在しなかった、ほんのわずかな揺れが初めて混じったように聞こえた。
その揺れをゆっくりと受け止めてから、アリアは声のトーンを一段だけ落として次の言葉へと続けていく。
「心桜ちゃんを殺したら……いや、もし少しでも傷つけたら」
アリアがそこで言葉を一度区切る。
次に来るものを自分でも量りかねているかのような、短い沈黙。
何度か逡巡するそぶりを見せながらも、やがて口を開いた。
「この子、絶対自殺するよ」
場が、しんと静まり返る。
危機感を最大限まで引き上げるには、この一言で十分すぎる。
「ただでさえ、ワタシたち相手でもそんな感じのこと言ってきたのに」
「そんな、ことが……」
次を続けようとしたのか、あるいは続けることができなかったのか、心桜の声が掠れて言葉が途切れた。
翼が心桜には見せなかった自決の覚悟を聞き、感情の揺れる心桜へとアリアは畳み掛ける。
「あんだけ必死だったんだから、本当にどうしようもないんだろうし……それにこの子は相当自分の命を軽く見てる」
誰もその言を覆そうとはしない。
アリアの言葉は正確だと、ここにいる全員がわかっている
「心桜ちゃんがその最後のきっかけになるのは……残酷すぎると思わない?」
周囲が一段冷え切った気がする。
心桜が目線を床へと落として、しばらくのあいだ何も言わない。
その沈黙を待ちながら、アリアも凛乃も口を挟もうとしなかった。
「……そうですね」
言い終えた後、心桜の口がそこで一度止まって、ひとつ大きな間が場に落ちた。
しかし心桜はそれらを引き受けた上で、全て吹き飛ばすかのように、凛とした声音で言い放つ。
「でもわたしは……今わたしのできることをやるべきです」
「……はぁ」
アリアの短い溜息が場に落ちる。
低く乾いたその声は、言っても聞かない子供を相手にするかのような怒りが混じっているようだった。
「私が教えたところで、敵う見込みがあるわけじゃない」
凛乃がそう言い切るのと同時に、アリアがその言葉をすかさず引き取るようにして間を置かずに口を開いた。
「ほら、凛乃ちゃんもこういって――」
「少し前に翼くんは、わたしに言いました」
アリアの言葉が最後まで言い切られる前に、心桜の声がその先を断ち切るようにして割り込んだ。
その声には感情的な激しさはなく、ただひとつのことを伝えようとする確かな意志だけがある。
「できる、できないじゃない。――やるしかない、と」
場の空気がわずかに変わった。
凛乃もアリアも、口を挟もうとしない。
ただ心桜だけが、静かに言葉を続ける。
「何度傷つけられても、どれだけ無謀な戦いでも……翼くんは逃げなかった。決して諦めなかった。そうやって、傷だらけになりながらでも前を向くことだけはやめなかった」
心桜が語るその言葉のひとつひとつが、自分で確かめるようにして間を置きながら、ゆっくりと場に積まれていった。
彼女の雰囲気に、アリアも凛乃も言葉を発することができない。
場を満たしていくのは、心桜の強い意志だけだった。
「わたしも……そうありたいんです」
そう短く区切る。
もう変わることはないと。
そう示すかのように、心桜はアリアから視線を外した。
「お願いします、凛乃さん」
次いで心桜は凛乃へ深く頭を下げる。
その動作はひどく静かで、願いというより説得に近かった。
「わかった」
次いで凛乃がゆっくりと口を開く。
凛乃がその一言を置いてから、少しだけ声音を和らげるように告げる。
「ただ、まずは基礎からだ」
「ありがとうございます」
心桜の声は穏やかで落ち着いており、決まるべきことが決まったと話は進む。
アリアの乾いた溜息が、心桜の意思をそっと押し流すようにして場に漏れた。
ブックマーク・評価が執筆の大きな励みになりますので、応援いただけますと幸いです!




