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68_鍵1

 騒動は、ひとまず収まりを見せていた。


 完全な解決とはまだ言い切れない。

 ただ少なくとも、血の匂いと緊張が張り付いていた日々に比べれば、今はようやく呼吸を整えられる段階に入ったと考えていいのだろう。


 経過観察という名目のもと、翼は心桜との日常を取り戻す方向で日々を過ごすことになっている。


 もっとも、その『日常』は以前とまったく同じ形ではない。


 凛乃がトレーニングに顔を出し、その付き添いとしてアリアが確認のために訪れては、翼と短い密談を交わしていく。

 内容そのものは淡々としている。

 だが、そのどれもが以前より妙に踏み込んでいて、翼自身もまた以前通りでは済まされなくなっているのを感じていた。


 夏休みの輪郭が、そうしてほぼ定まってくる。


 そうして経た一幕。


 夕食の後片付けも終わり、一日の終わりが差し迫る時間帯のころ。


「いやさすがに、毎日寝るのに付き添ってもらうのはちょっと……」


 翼宅にて翼と心桜の二人が、まだ蟠りを残していた。


 発端は、心桜の発言によるもの。

 彼女としては自然な提案だったのだろう。


 しかし翼からすれば、それはどう考えても自然の範囲を超えている。


「でもまた眠れないかもしれないじゃないですか。それにまだ万全ではないでしょう」

「それはそうだけど……」


 翼は頬をかく。

 反論が出ないのは、反論するには身に覚えがありすぎるからだ。


 実際、ここ数日の睡眠状況を考えれば、心桜が隣にいた時の方が明確に眠れている。

 自分でも情けない話だとは思う。

 だが、事実として身体がそう反応してしまっている以上、否定のしようがなかった。


「どう考えても大変でしょ。心桜さんの睡眠時間を奪うことになるし」

「そんなの……あなたが苦しむのに比べれば、大したことじゃありません」

「いやでもそうなるとずっと付き添うことになる。そんなに負担をかけるわけにはいかないだろう」

「……忘れていませんか?」


 そういって心桜は表情を引き締める。


 その変化は微かだったが、声には一切の揺れがない。


「わたしも背負う、と言ったはずです」


 強い瞳の光が、翼を正面から押す。


 そこから目を逸らすように、翼は迷いを抱えたまま横を向いた。

 抵抗の声は喉の手前で固まり、結局出てくることがない。


(……どうすれば)


 別に嫌なわけじゃないが、あまりにも負担をかけすぎる。

 ただそれすらも彼女は正面から応えるつもりだと、その瞳の光がはっきり物語っていた。


 翼が自分を軽く扱えば扱うほど、心桜はそこへ踏み込んでくる。

 まるで、自分一人で傷を抱えることを許さないとでも言うように。


「あと今日は昼に寝たので、多分わたしは眠れないと思いますし」

「……うーん」


 それはもっともであり、反論するのも難しい。

 論点ひとつひとつを着実に潰してくる相手に、翼の言葉は少しずつ追い詰められていく。

 理屈として破綻していないのが厄介だった。

 感情論で押し切っているわけではなく、彼女なりに全部考えた上で口にしているのが伝わってくる。


 だから無碍に拒絶すると、自分がひどく薄情な人間みたいに感じてしまう。


 そうして閉じかけた出口の向こうに、もう一つ棚上げにしていた話題が見えた。


「い、一緒に寝るとか……やってしまってるし。やっぱりよくないと思うんだよね」

「うっ……ご、ごめんなさい」


 顔を真っ赤にした心桜は、慌てたように謝罪を口にする。


 論理で押し切られそうなところを感情で差し返す。

 それはあまりにも効果がありすぎたのか、心桜がモジモジと手をいじり始めた。

 わざとやったわけではないと理解しているが、それでも心桜が無防備すぎると。


 彼女もその自覚があったようで、責めすぎたと翼はフォローを入れる。


「い、いや、別に嫌とかじゃないけど! なんていうか、主従としてここまでしてもらうのはさ……」

「……嫌じゃ、ない」


 短い一声が、翼の言葉を反芻する。

 心桜の声は小さく、ほとんど独り言に近い音量だったが、それゆえにどこか重さがある。


 翼はとっさに気の利く言葉が見つからず、しかたなく思ったままを告げた。


「気遣ってもらってる身だし、心配してくれるのはありがたいよ。でもだからと言って心桜さんにさせることじゃないというか」


 どこか言い訳がましく言葉を並べる翼。


 それに対して指先をいじりながら、心桜がひとつ息を吸う。


 伏し目がちだった瞳が、チラッと伺うように翼へと向かった。


「わたしも……嫌じゃない、ので……はい」


 「は?」と間抜けな声が出る寸前で飲み込む。


 次の返答が、とっさに出てこない。


 少し気恥ずかしそうに言う彼女は、それでも引く姿勢だけは一切見せない。

 翼の側が言い出したはずの話。

 なのに、いつのまにか足場を失っているような感覚がある。


 このまま正面から続ければ、どこかで完全に押し負ける。

 そんな予感が、脳の冷えた部分でじわじわ広がっていく。


 なんとか逃れたくて「そ、そうだ」と話を切り返すかのように、机へと向かった。


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