61_そばにいるから
しばらくして顔を上げた翼は、少しだけ顔色が戻っていた。
彼女に寄りかかったことへの気恥ずかしさはまだ残っている。
それでも、胸の奥で澱のように積み重なっていたものが、少しだけ軽くなった気がした。
「取り乱しちゃって……ごめん」
「ううん。嬉しかったですよ」
そばにいる心桜は穏やかに微笑んでいる。
責めるわけでも慰めるわけでもなく、純粋に頼ってくれたことへの喜びを見せていた。
次いで心桜は表情を引き締めて言い放つ。
「あなたをこのまま放っておくことだけは絶対にしない。誰にもそんなことは……わたしが、させない」
ハッキリと口にしたことで、決意が縁どられる。
心桜の意思はもう変わることはないと、翼は肌で感じた。
これを受け入れるしかないと、感情でも義務感でもなく、ただ揺るがない事実として翼の中に根を張る。
「わかった。ひとまず、夏休みの期間は経過を見よう」
心桜の意向を受けて、翼は313に連絡する。
短い文字を打ち込み、送信。
すると少しだけ肩の荷が軽くなった気がした。
それは、共に『罪を背負う』と言った心桜のおかげだろう。
ひとりで抱えていたものが、今はふたりで分かち合うかのように。
それが何よりも、今は心の救いとなっていた。
「まず、つば――あなたの体調が心配です。ご飯は食べましたか?」
心桜の問いかける声は穏やかだったが、視線に迷いがなかった。
翼を正面から見るその目は、嘘を一切許さない瞳。
「あんまり喉を通らなくて。起きて吐いちゃうこともあるから」
そう言いながら、あらためて自分の状態に気づく。
食欲がないというより、食べるという選択肢が頭から抜けていた。
それが正確なところだろう。
眠れない夜が続き、食事もままならない。
日々鍛えぬいた体力も底をついている。
今なお受け答えができているのが不思議なくらいだった。
「なら、先にちゃんと寝れるようにしないとですね」
そういって、そっと肩を貸してくる心桜。
翼が自分で立ち上がるより先に、自然な動作で体が引き寄せられていた。
こうされると断れない。
断るべき理由を探す前に、体が心桜の温もりを受け入れてしまう。
そうして心桜に導かれるまま、翼の寝室に入る。
しかし踏み込んだ瞬間、「あ」と翼の口から動揺が漏れる。
まず目に飛び込んできたのは――散乱した小瓶と、広げられたままのラベルの群れだった。
「これ、は」
翼の横から、心桜の声が零れ出る。
今更恥ずかしがることはもうないと思っていたが、それでもこれは隠すべきだったと翼は後悔した。
かなり前にショッピングモールで、心桜と一緒に選んだアロマが、机の上に散乱していたのだ。
眠れない夜を積み重ねるうち、藁にもすがる思いで使っていたのをすっかり忘れていた。
不眠に陥った後半は一切余裕がなく、ほとんど意識から飛んでいたため仕方なくはある。
しかしそれを今、こうして心桜本人に見られている。
自らの余裕のない様を察せられた恥ずかしさが、じわりと頬の奥に広がった。
「あ、安眠効果があるって聞いてたから使ってみた」
何でもないふうに言おうとして、微かに間が空いた。
言い訳めいて聞こえても仕方ない状況だとはわかっている。
それに対して返ってきたのは――心桜がより強く翼を抱き寄せる感触。
ぎゅっと心桜の抱く力が、責めるでも笑うでもなく。
強く、強く抱き寄せられる。
そんな彼女の様子に、翼は何も言えなくなった。
ただひたすらに押し黙る心桜。
彼女の表情は見えないが、見るべきではないだろうと翼は待つ。
しばらくして心桜は翼をベッドに導き、そのままそばに腰を下ろす。
さらに散乱していたアロマを整えて、ベッドの近くへ置いた。
「わたしが昔、お母様にしていただいたことで……人の温もりを感じるのも効果がありました」
心桜の声には、翼が知らない過去の重さが滲んでいた。
アロマに続いて明かされる、心桜の母親との思い出。
昔という響きの背後にどれほどの重さがあるのか、今の翼には推し量る余裕がない。
ただそれが彼女の拉致被害のトラウマに絡む、軽い話ではないことだけはわかった。
そうして様子を見ていた翼の手を、心桜は躊躇なく握る。
翼は反射で手を引っ込めようとしたが、それを見越したように『逃さない』としっかり握られる。
「あなたがわたしに触れようとしない理由はわかりましたが、そんな理由で避けられるのは……嫌です」
静かな声だった。
激しくもなく、責めるでもないが、一本芯の通った声音。
そしてただ慈しむかのように、心桜が翼の手を両手で包み込む。
「この手が、わたしを守ってくれた……救ってくれた」
そう心桜は翼へ柔らかく微笑みかける。
あまりにもまっすぐな彼女の感情に、翼は目を逸らした。
それでも心桜の手は離れず、翼の手をしっかりと握る。
「う……」
やがて、体力の限界が訪れ、急速に意識が遠のいていく。
眠気により意識の輪郭が滲む。
ただこの数日間と同じように、眠ってしまえば、悪夢に呑まれることだろう。
その恐れが、思わずうめき声になって漏れた。
「大丈夫」
視界が暗くなる中でも、その柔らかな声は耳に届く。
翼の瞼の上に、心桜はそっと手を添えた。
その手の温もりが、じんわりと染み渡る。
「わたしが、そばにいるから」
その声を最後に、翼は眠りに落ちた。
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