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60_罪

「ごめん、大事になっちゃって」


 心桜と2人きりになり、まず翼は彼女が口を開く前に話しかけた。


 しかし心桜の表情は曇ったまま。


 自分の笑顔がぎこちないのは分かっている。

 精一杯の明るさを声に乗せようとするが、それはもはや強がりにもならなかっただろう。


 いまだに翼は十分な睡眠がとれずにいる。

 眠ろうとするたびに、瞼の裏で人の影が揺れ、相手を絶命せんとする自分の凶撃が再生される。

 頭が鉛のように重く、精神の底はとっくに抜けていた。


「……無理に笑わないで」


 そんな彼の様子を見て、心桜の声は痛々しく揺れる。


 翼の精一杯の強がりによって、むしろほころびが際立っていたのかもしれない。


 詰めるわけでも怒るわけでもなく、ただそっと置かれた気遣いに、翼は俯く。


「あなたは、どうしたいのですか?」


 心桜の問いは、答えを要求する問いではなかった。


 『どうしたいか』という内容には、翼の意志を尊重しようとする配慮が滲んでいる。


「おれは……」


 しかし翼の声は芯を伴わず揺れる。


 続きが出てこないのではなく、出てくる言葉を、翼自身が拒んでいた。


「護衛をやめるべきだと、思う」


 それを口に出した瞬間、さらに部屋の空気が冷え込む。


 過度のストレスで憔悴しきっていても、翼の思考は既に結論を出していた。


「どれだけ確率が低くても、無差別に殺人を犯す人間なんて――」


 ――表にいていいわけがない。


 その続きは、言葉にならなかった。


 心桜が自分を案じていることはわかっている。


 だからこそ、あからさまに突き放す言い方はできない。


 戦闘型PTSD。

 それに類似する、戦争によるPTSDは、極めて症状が重い。

 完治には数十年、それどころか治ることすらほぼ不可能。

 その心の傷に人生を狂わされ、社会復帰の糸口を掴めないまま、住む場所を失う元兵士がどれだけいるか。


 症状が残るまま翼が心桜のそばに立ち続け、誰かを傷つけた際には、その被害が取り返しのつかないものとなる可能性が高い。


 それが心桜へ向かなくとも、主人である彼女へ甚大な悪影響を及ぼすことは分かりきっている。


「おれがさらに人を傷つけ、もしそれが心桜さんに飛び火すれば……おれはもう、おれを許せなくなる」


 それが当然の帰結だと、翼は迷いなく述べる。


 両家総出の掃討により、これから心桜への襲撃は減る見込みだ。

 であれば危険な護衛を、いつまでも心桜のそばに置いておく必要はない。

 翼の中でもう答えは出ており、言うべきことはわかっていた。


 にもかかわらず言葉にしてみれば、その重さは予想よりずっと鈍く、じわりと胸の底に沈んでいく。


「また……わたしの心配を、しているんですね」


 心桜の声に責めるようなそぶりはなかった。


 ただ、いつかのようにやるせなさが混ざっている。


 彼女は丁寧に確認するようにそう言った後。


「なら、わたしはあなたに……護衛を続けてほしいです」


 滲み出すような懇願を、翼へ向ける。


 翼が答えを返すまで、一拍の間が落ちた。


「……でも」

「あなたの言うことはわかります」


 翼の反応を見越したように、心桜が彼の否定を遮る。


 ただ真っ直ぐに翼を見つめながら、ハッキリと告げた。


「けれど、まだ時間はあるはず」


 彼女が言うのは、猶予期間のことだ。

 夏休みの間であれば、人との接触は少なく済む。


 だからまだ状況を見極める時間はあるはずだ。


 今すぐ結論を出さないで、と心桜は言いたいのだろう。


「なのでもう少しだけ……一緒にいたい」


 そう言って、心桜が手を伸ばしてくる。

 自らの言葉で傷つき、震え続ける翼の手を、そっと握ろうとして。


 しかし翼は、それを避けた。


 心桜の表情が、驚きののちに、耐えかねるように曇っていく。


 手を避けたのは無意識ではなかった。

 心桜との距離を保つように、翼は自らの意思で腕を引く。


 殺人を自覚したのちから、翼の中で明確に変わった価値観。


(おれの手は……もう汚れてしまっている)


 触れることが怖いのではない。

 自分が心桜を穢してしまうような気がして、どうしても近寄りたくないのだ


 人を殺したこの血濡れの手が、彼女に触れていいはずがない。


 そう感じる翼に、根拠や理由などなかった。

 あったとしても、自らの許しを覆せるほど、今の翼の精神は整っていなかった。


「おれは、人を殺めたんだ。心桜さんだって思うところがあるだろう」

「……はい。許せないです」


 その一言に、翼は目を瞑る。


 当たり前の話だ。


 人殺しをした自分を、翼としても絶対に許しはしない。

 社会的に明確な罰がない分、より厳しく罰せられるべきだと思う。


 翼は心桜へ別れを切り出そうと、その目を直視する――


「こんなにも傷ついたあなたに……何もできていなかった自分が許せない」


 しかし激しい感情が渦巻く心桜の瞳に、押し留められる。


 目の光のあまりの強さに、翼の思考が一瞬止まった。


 その間に、ふいに心桜が立ち上がる。


 彼女の動きを目の端で追っていた翼が意図を読めないまま、気づけば心桜は翼の背後に回り込んでいた。


 すると後ろから、腕が回ってくる。


「や、やめて」

「嫌なら振り解いてください」


 静かに言い切った心桜の声には、揺らぎがなかった。


 翼の腕は動かない。

 振り解こうとすれば、できたはずだった。

 体格でも腕力でも、どう考えても翼の方が上だ。


 それでも翼の手は、心桜の腕に触れることを、ぎりぎりのところで拒んでいた。


 触れたら、汚れてしまう。


 その一点だけが、翼の全身を縫い留めていた。


「……どうして触ろうとしないのですか?」


 接触を避けようとする意図を読まれたのか、心桜が問いかける。


 そう真っ直ぐに聞かれてしまえば、答えるしかなかった。


「……おれの手は……もう、汚れている」


 自分の罪を吐露するかのように、ゆっくりと語りかける。


 言葉の端々が掠れるが、それでも伝えなければならない。


「だから心桜さんには――」


 しかし言葉が、最後まで出なかった。


 その代わりに、心桜の手が翼の手を探すように動く。


 迷いなく翼の手を、彼女の手が包み込むように握った。


 翼の肩が驚きに震えるが、心桜は彼を包み込むように抱きしめる。


「あなたはきっと……罪の意識に押し潰されたとしても、決して逃げない」


 心桜の声は、翼の背中のすぐ後ろから届く。

 物理的な距離はないと言ってもいいだろう。


 まるで二人の心の距離すらも詰めるかのように。

 どれだけ近くても、罪人である自分と彼女は遠いと思っていたのに。


「誰かのためであっても、理由があったとしても、あなたはその罪を抱えようとする」


 彼女の言葉を受けても、当然のことだと翼は思った。


 この罪を抱えなければ、いつか自分が自分でなくなる気がした。


 抱えて潰れてしまっても、それが自分に相応しい罰でしかない。


 罪には罰を。


 辿るべき末路は決まっている。


 そうあるべきだと思っていた。


「でも、それによって救われた人だっている」


 心桜の声がより凛として翼の心へ響く。


 これだけは誰にも決して否定させないと。


 強さを伴った声が翼の奥深くへと届く。


「それに、あなたが罪だと思うなら……わたしだって同罪だよ」


 そういってぎゅっと翼を抱きしめる心桜。


 翼の喉が、彼女の温かさに詰まる。



「わたしにも……あなたの罪を背負わせてほしい」



 その一言を、翼は拒むことができなかった。


「っ」


 決壊したように、翼の感情が濁流にのまれる。


 あるいは、もうとっくに翼の内側では限界を超えていたのかもしれない。


 ただ言葉に詰まる様を、心桜はどこまでも優しく抱き留める。


 全てを包み込むかのような彼女に、翼は抵抗せず、ただ身を預ける。


 今は、心桜から伝わる温もりだけが、翼の寄る辺になっていた。


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