59_ディソシエーション
事態を重く見た313が、迷わず応援を呼ぶ。
しかし、応援が駆けつけるより先に――翼は糸が切れたように崩れ落ちた。
その光景に、心桜も、313も息を呑む。
前触れもなく時間が経ってから倒れ込む様。
それは模擬戦と、先の倉庫での襲撃で力尽きた時と酷似していた。
嫌な予感が313の脊髄の奥をじわりと走り抜ける。
そうして気を失ったまま搬送された翼は、すぐさま精密に調べられることになった。
事象が起きた原因。
起きた条件。
記録、映像、証言――あらゆる資料が精査され、数日をかけて調べ尽くし、至った結論は――
「脳に、障害があると思われます」
翼宅のテーブルにて、313がそう口を開いた。
ダイニングテーブルの片側には313と翼が並んで座り、その対面に心桜が座っている。
並んで座った二人のうち、313は背を伸ばして心桜へ毅然と振る舞った。
しかし翼はテーブルの一点を見つめたまま、頭を垂れている。
そして心桜は、息を呑んだまま、まだ言葉を発せずにいた。
まるで咎を負わされるかのように首を垂れる翼の姿が、心桜の胸に突き刺さる。
翼は何かを言おうとしているわけでも、拒絶しているわけでもない。
心桜が翼に会って見た彼の顔色はより悪化の一途を辿り、断罪待ちのように表情が抜け落ちていた。
「近しい症状としては、『戦闘型PTSD』が挙げられます。戦争の帰還兵が、フラッシュバックを起こして戦闘態勢をとってしまう症状です」
そう告げる313の声は平坦だった。
感情を排した、情報の伝達。
そのことが、かえってこの状況の重さを際立たせる。
事実を淡々と述べなければ正気を保てない――それほどまでに、重大な問題が発生していると。
「それだけではなく、窮地に陥った脳が、先日の急性ストレス反応を成功例だと学習し、無意識のまま反撃してしまうようです」
急性ストレス反応については前に313より説明を受けていた内容だ。
過度のストレスによって生理的リミッターを外し、火事場の馬鹿力のような常人ならざる力を引き起こしてしまう症状。
「強いストレスを受けた脳が意識と解離――症状名としては『ディソシエーション』となり、意識が飛んだまま体だけが動いてしまうようです。これを防ぐ手立ては……ありません」
報告の間も、翼は何も言わない。
俯いた頭がわずかに揺れる気配はあったが、それ以上の反応はなかった。
翼の状態が気が気でない心桜だが、ここで313より心桜へと強く呼びかけが飛ぶ。
「そして、発症条件はさまざまありますが、お嬢様をお呼びしたのは他でもありません」
改まった態度に、心桜は息が詰まる。
お互い一呼吸ののち、313はゆっくりと口を開く。
「あなたが『名前』を呼ぶことで、起きてしまう」
「え……?」
思ってみなかった話に、心桜は言葉が出ない。
思わず漏れた音ですら、おそらく自分でも気づいていないだろう。
「襲撃の際、283の名前を呼んでいましたか?」
「……はい」
答えた瞬間、心桜の視線が下に落ちた。
確かに呼んでいた記憶がある。
痛ぶられる翼の身を案じて、反射のように何度も何度も。
「この戦闘PTSDは特に音に反応しやすい。そのためこれはお願いではなく、必ず厳守してください」
お願いではなく、絶対に守らないといけないこと。
それが事態の重さを表している。
そして、次の言葉が残酷なまでに心桜の胸を穿つ。
「283の名前を呼ぶことは禁止とさせていただきます」
場に落ちるのは沈黙。
313の言葉を受けて、心桜は目を見開く。
次いで何かを言おうとして言葉にならなかった。
唇がわずかに開いて、しかしそのまま閉じる。
たかが名前を呼ぶこと。
だが、心桜と翼の間にはそれだけでは済まない経緯がある。
それを――手放せと言われている。
受け入れたくない気持ちが、理由が、心桜の中にあることは、313にも伝わっていた。
しかし313としても見過ごすことはできず、より冷徹に事実を述べる。
「あなたが名前を呼ぶたびに、周りを危険に晒す。常人の比ではない力で人を傷つける……また死人が出てもおかしくありません」
「……死人……?」
心桜が313の一部の言葉を反芻。
なんのことを言っているかわからないと言った表情を浮かべる心桜。
その疑問が唇をついて出た瞬間、313が短く沈黙した。
確認するような、逡巡するような、ほんの一瞬の間。
そののちに、翼を苦々しげに見る。
「……言ってなかったのか」
翼は頭を垂れるのみで、反応はない。
独り言のように漏れた言葉に続けて、313が静かに告げた。
「283は、先の襲撃を退けた際……一人、殺めています」
その瞬間、心桜は息を呑んだ。
華奢な肩が、強張ったように大きく揺れる。
翼が今のように塞ぎ込んでしまった理由を、察したのだろう。
殺人への恐怖。
そのことを翼が悩んでいたのを、心桜は今までずっとそばで見て来た。
故にこそ一線を超えた罪の意識が、翼の中でどれほど渦巻いているのか。
心桜がそれを理解したのを、翼は確認するまでもなく、空気で感じていた。
「先日一撃を受けた私としても、急所に当たれば死ぬ、と身をもって言えます。十分警戒し、完全に防ぎ、283の足が折れている状態でも……腕はこの有様です」
313のギプスに覆われた腕が、テーブルの上に置かれた。
心桜の視線がそこに落ちる。
足が折れた状態でなお、それほどの威力が出る。
万全の場合だと、もはやどれほどの被害が出るかわからない。
その事実の重さが、改めて部屋に沈んでいく。
「当然名前を呼んでも発症しないケースはあると思いますが、ふとしたときに条件が重なることを防ぎたい。そのため厳守願います」
「……でも、わたし……襲撃後も呼んでましたよ」
313の言に、初めて心桜が意見を投げる。
反論ではなく、確認を求める問いかけだが、それでもどこか縋るような響きがあった。
「殺人を犯したと告げる前ですよね? 283のPTSDが重症化し、フラッシュバックを起こしているため、その後から条件になってしまったと思いますが……いずれにしても脳障害のため断定はできません」
しかし313が即座に返す。
答えの用意が最初からあったように、淀みなく事実を突きつける。
「脳に強い外傷を受け、病室では記憶が定かではなかった。しかし今は鮮明に浮かび上がるということですので、もう前と同じにはなれません」
もう前と同じにはなれない。
どうしようもなくなってしまった現実に、心桜も翼も次の言葉を継こうとしない。
しかしこれだけは確認しなければならないと、313が心桜に問う。
「もちろん護衛を変えるという選択肢もあ――」
「いや」
心桜の声は、静かだった。
静かだったが、その一語に揺らぎは一切ない。
護衛を変える。
誰がどう考えても最も合理的な結論を、心桜はただ一言で切り捨てた。
そのあまりの意思の強さを受けて、翼は自らの唇を噛む。
「であれば納得してください」
313はそれを受け流すかのように、平然と告げる。
心桜はその命令に、一言も反論できなかった。
もう何があっても、翼の名前は呼べなくなる。
その事実が心桜の胸を締め付ける。
次いで313は一呼吸置いてから、話を報告へと移した。
「現在真崎家および小宮家の両家が今後の方針について検討中です」
『両家』という単語が、心桜の喉の奥につかえた。
翼を管轄する二つの組織が、今まさに翼の行く末を論じている。
彼を目の前にして口にするには、あまりにも事務的な言い方だった。
翼自身は視線をどこかへ落としたまま、決定を無抵抗に受け入れる姿勢のまま。
313はただ淡々と続ける。
「幸い、真崎家はまだ利用価値があると思っているとのことです。何よりもお嬢様が優先のため、お嬢様を傷つけないなら、と」
真崎家については、かろうじて呼吸ができる内容だった。
心桜を傷つけない限り、今すぐ翼を排除しようとはしていない。
しかしそれは保護ではなく、猶予だ。
『利用価値がある』という思惑が、その実態を正直に示していた。
「ただ、小宮家はそうではありません。悲願とも言える成功事例ができたため、すぐにでも退学の上……研究を深めたいと考えている模様です」
心桜の目が大きく見開かれ、その先の言葉が、心桜の中で自然と紡がれた。
まるで、モルモットのように――と。
研究対象として、ただ消費されて生きる未来。
翼を『成功事例』と呼ぶ声が、この部屋の外のどこかで既に動いている。
そう313が報告する『小宮家の思惑』の意味を、心桜は正しく理解し、翼へと視線を送る。
当然翼はそれを知っていて、だからこそ俯いたまま何も言えずにいるのだろう。
翼の未来は、もうすぐ目の前で閉ざされかけている。
それが自分に相応しい罰だと。
「しかしこの三年の契約期間、契約上最も優先されるのは、お嬢様の意思です。……今後どうされるかを……ご決断いただきたい」
313がそう締めくくって、わずかに間を置いた。
心桜は、少しだけ目を伏せる。
ほんの数秒。
それから、顔を上げる。
「つば――彼と、話したいです」
言いかけた名前を、心桜は自分で飲み込んだ。
『彼』と呼び直した声に、翼がぴくりと反応した気がした。
「わかりました。結論が出たら283を介してご連絡ください」
そして313が立ち上がる。
313がドアを閉めて退出したのち、翼はゆっくりと息を吸い込んだ。
そして顔を上げた翼は、精いっぱいの微笑みを浮かべる。
これが――最後の別れになるかもしれない、と。
また土曜の12時に投稿します!




