57_一線
伝えたいことは以上なのか、その後隆斗はすんなりと帰った。
淡白な退場に思えるが、話題の物々しさは見過ごせない。
彼と話した内容について、確認をしなければならないと翼は、上司へ隆斗が訪問した旨を報告。
考え込む翼の様子を見てか、心桜はあまり積極的には声をかけず、時間は流れていく。
心桜との勉強後、彼女の家での食事を終えて、翼は自身の部屋へと戻る。
あとはもう入浴と就寝するのみだが、このまま入眠できるとは思えなかった。
思い出せない何かに後ろ髪を引っ張られている気分で落ち着かない。
忘れている記憶の中身を正確に掴もうとするたびに、するりと逃げていく。
どこかくすぶる焦燥感を抱えながら、熱いシャワーで思考を流す。
服を着ていくつかの工程を機械的にこなし、時計を見れば日の終わりに差し掛かっている。
心桜の言いつけ通りに大人しく寝るしかないかと考えた――その矢先だった。
バンッ。
と乱暴な音を響かせて、リビングのドアが開け放たれる。
「えっ、ど、どうかされましたか」
肩で荒い息を吐きながらリビングへと踏み込んできたのは、上司である313だった。
なんの前触れもなく突然現れた彼女の姿を見れば、額に汗が張り付き息も絶え絶え。
その様変わりした彼女の様子に、何事かと翼は警戒を露わにする。
「お前に、言わなければ、ならないことが……ある」
開口一番、毒を吐くように313は告げる。
重々しい彼女の様子に、一言二言で済む報告の類ではないと察する。
そのため翼はテーブルへと移動し、313もその前に座った。
「……真崎様から何か聞いたか?」
「いえ、小宮家から直接聞くべきだと。内容自体は話されませんでした。それはそれとして、不審に思われていたようでしたが」
隆斗の言葉と様子を淡々と伝える翼。
それを聞いた313の短く息を呑む気配が、緊張の高まる室内に響く。
彼女の顔はどこか、追い詰められたかのように、苦しげな表情だった。
「……この前の襲撃のことだ」
313は、酷く改まった態度で翼を見据える。
こんな彼女をなかなか見ることはないと、翼は一言一句聞き漏らさぬようまっすぐ見つめ返す。
「末端ではない主犯級を捕らえたことにより、裏社会での大規模な掃討が始まる」
その情報自体は、あらかじめ耳にしていたことにすぎない。
心桜の平穏を取り戻すため、裏で出回っているであろう標的リストを消滅させ、関係者を全て排除する。
真崎及び小宮が総力を挙げて取り掛かるとのことだ。
「しかし逆恨みの危険性や、掃討に人員を割くことになり、お嬢様周辺の警護が一時的に手薄になる懸念がある」
少なくない人数が今回の掃討に参加するだけあって、イレギュラーは見過ごせない。
言わば総力戦。
迅速かつ的確に、標的を取りこぼさないようにと押し進められるため、守りに関してはどうしても薄くなる。
そういったリスクもあり、夏休み後も翼が心桜の護衛を続けることは決まっていた。
しかしいずれも、翼にとっては既知のことだった。
313がわざわざ夜中に踏み込んでくるほどの内容にしては、まだ核心に届いていない。
さらには言葉の組み立てが丁寧すぎる。
本当に伝えるべき何かを核に据え、先にその外堀を埋めるように語ってきた――そう翼は思いながら、口を閉じたまま続きを待った。
「そのため小宮家から、裏社会へ『ある情報』を流布するとの施策を真崎様へ提案し……それが認められた」
ここまでは、前置きだ。
313の言葉の構造が、表情が、それを物語っている。
そして次に来るものこそが、己に直接向かってくる類のものだと、翼は確信していた。
「故にお前はこれを受け入れるしかない……それしか、できることはなかった」
苦しむように呻きながら、彼女は悲痛な視線を翼へ向ける。
その瞳に映るのは、深い憂慮。
しばらく見なかった彼女の様子に息を呑む。
「お前が倒した主犯の、うち……」
言葉が、途中で力無く途切れる。
わずかに開いたままの313の口が、次の言葉を出し惜しむように止まっている。
唇がわなわなと震えた、もう後戻りできない様を経て。
彼女は、血を吐くように零した。
「ひとりが……死亡した」
その報告に、翼の思考は真っ白に染め上がる。
混乱。
恐怖。
いや、それだけではない。
全てが線として――繋がってしまったのだ。
昼間の隆斗の言葉。
313の夜中の訪問。
外堀を丁寧に埋めるような、回りくどい語り口。
全てがひとつの事実を中心に、整然と収束していく。
「そのことを、当主は裏社会へ意図的に流布させるとご判断された。実際に人を殺めた護衛がついているということで、敵対者への脅威は凄まじいものとなる」
人を殺めた護衛。
それが自分のことを言っている。
これが今後、公然の事実となっていく。
そんな状況を頭の中で転がしてみても、違和感は来なかった。
冷徹な計算の中に組み込まれた自分の過ちが、使い勝手のいい駒として打たれていく。
「今後、下手に襲撃を企てる輩はいなくなるだろう。お前がいる限り、常に死の危険性があることになる。命と金を天秤にかけて釣り合うわけがない」
――これこそが、昼間に隆斗の言っていた業の正体。
「死んだ者は戸籍を持たず、日本人でもない不法滞在者だと思われる」
――殺人を犯したという明確な罪。
「殺人の証拠はすでに小宮家が回収しており、完全に隠滅され、お前が法的な罪に問われることは決してない」
――ずっと恐れ逃げ続けてきた一線を超えてしまった現実。
「万が一の際も、正当防衛として処理する手筈が整っている」
どこか遠い場所で――話がされている。
313の声は確かに耳に届いているのに、それが己に関する話だという感覚がひどく薄い。
意識の芯から少しずれたところで言葉を受け取っていて、処理が一歩遅れているような、そんな奇妙な浮遊感だった。
罪が、丁寧に紐解かれていく。
己が人を殺した現実が逃れられない物だと、整えられていく。
証拠が消え、法的な問題も処理され、全てが事務的に片付けられる。
「……大丈夫か」
「えっ、あ……はい」
抜けた響きを持った掠れ声が、翼の喉から漏れ出た。
確かにこれは、当事者である彼に伝えなければならない重大な事項だったのだろう。
それをどう伝えるべきか、313は深く悩んでいたのかもしれない。
しかし真崎から直接接触があったことで、今すぐ話すしか選択肢がなくなったのだ。
翼はそう理解しながら、しかし思考の先は別のことに気を取られていた。
どこか現実味がなく、足元がおぼつかない感覚。
いや――奇妙なほどに彼の内側ではしっくりときてしまっていた。
襲撃以降から浮かぶ何か。
思い出せない情景。
この晴れぬ思考のモヤの正体は、きっとあの時に人を殺めたという生々しい感触に違いない。
骨を砕き。
肉を切り裂き。
命を奪った瞬間の、鈍い衝撃と鉄の匂い。
それが決して忘れてはならないと――自らへ訴えかけている。
「お嬢様がこちらに残る話は聞いている。お前に関しては、定期的にカウンセラーを呼ぶことで事後の経過を見ようと思うが……実家に帰ることもできる」
「いえ、こちらに残ります」
言葉を選んだ覚えがなかった。
それでも迷いなく口をついた答えを、翼はほんの少しだけ意外に思う。
感情が動くより先に答えが出たのはなぜか。
すでにもう酷く定まらない心の内を、誰にも見られたくないと本能的に思ったのかもしれない。
「わかった。これぐらいはお前の意思を尊重しよう」
それだけを告げた彼女は、こちらの言葉を待っているかのようだった。
しかし、言葉が出てこない。
鉛を飲み込んだように、喉が動かない。
やはりというべきか、自分はどこまでも甘かった。
まともに受け答えすらできない自分の様を、313に見られていることすら考えたくない。
そして、殺人を犯した自分を――心桜はどう思うのだろうか。
その先を考えられない……考えたくもない。
自分の中での濁流が、抑えきれないでいる。
そんな翼の様子を見た313は、静かに立ち上がった。
「私もしばらくは近くにいる。何かあれば信号で呼べ。お嬢様に伝えるのは……お前に任せる」
「はい」
その短いやり取りだけで、事後報告は終わった。
扉が静かに閉まる音が、一拍遅れて意識に届く。
殺人。
それを自分が犯した現実。
罪。
一線を超えてしまった過去はもう覆らない。
静寂を取り戻した部屋の中で、翼は己の手のひらをじっと見つめる。
人を殺した感触が残るその手は……血に塗れているようにしか見えなかった。
「おれは、もう……」
――戻れない。
その独白は、血を吐くように心の深い内へ爛れ落ちていく。
明日の12時に投稿します!




