56_来訪
外に出た瞬間、刺すような蝉時雨が容赦なく鼓膜を打つ。
その騒めきを全身に浴びながら、心桜の家へと移動した。
移動の道中、なにかと触れてしまった感触が、しつこく意識の表面に蘇ろうとする。
翼はそれを振り払うことに必死になりながら歩き続け、心桜の家に着くや否や、夏休みの課題へと意識を集中。
思考の占有率を勉強に差し向ければ、余計なことを考えずに済む、そうあって欲しい。
切にそう願いながら、翼は課題を広げる。
心桜はそんな翼の姿勢に感心したのか、同じく教材を抱えてテーブルに座った。
しばらくはお互い勉強に集中することで事なきを得そうだと、翼は安心して視線をノートへと戻す。
そうして過ごす穏やかな午後には、ページをめくる音と、ペンを走らせる音が流れている。
広い家の大きなテーブルに向かって、翼と心桜は黙々と勉強している中。
不意に――電子的なインターホンの音が鳴り響いた。
その音に心桜が訝しげな表情を浮かべ、立ち上がってエントランスを映すモニター、ついで玄関へと向かっていく。
直後、慌ただしい足音と共に、悲鳴に近い切迫した声が響き渡る。
「つ、翼くんっ!!」
「……どうかした?」
そんな彼女に翼が応えると、心桜はひどく焦った顔で重々しく口を開いた。
「……お父様が、玄関に、います」
その予想だにしない報告に、翼の背筋を冷たいものが這い上がる。
――真崎グループのトップが、もう目の前にいる。
さらには心桜の家にいる翼を見たとき、父である彼がどう思うかなど考えるまでもないだろう。
「つ、翼くんは、わたしの寝室に隠れてください!!」
考えは同じなのか、必死な様子の心桜。
しかし翼は彼女に対し、静かに首を横に振った。
「いや、このままお迎えするよ」
「で、でもっ」
「今後もおれがお邪魔するなら話を通しておきたい。ちゃんと説明して、それでもダメだったら全部おれが悪いって話にしてくれ」
ダメだったら仕方がないと、翼はせめてもの誠意を見せようと決意した。
そう真っ直ぐに心桜を見据えると、彼女の瞳は揺れを収める。
「……わかりました。その時は一緒に怒られましょう」
心桜は軽く片付けを済ませ、意を決したように玄関へと向かった。
その間に翼は立って姿勢を整える。
緊張からか、ひび割れた骨が軋む幻痛を堪えながら、重鎮の来客を出迎えるべくその場に直立。
暫しの静寂ののち、扉が軋む音がした。
「ご無沙汰しております。真崎様」
リビングへ入ってきた男性へすぐさま恭しく一礼する翼。
すると一拍置いてから、頭上から容赦のない声が返ってきた。
「……なぜ、君がここにいるんだい?」
「はい、申し訳ございません。それは」
「と、いうつもりだったがね。隠れもせず正面から私を待っていたのなら、その潔さに免じて聞かないでおこう」
翼はその判断に驚きながらも、ゆっくりと顔を上げる。
心桜の実の父親――真崎 隆斗。
真崎グループの顔とも言える彼は、その身分に相応しく一切表情が崩れていない。
ただ、その柔らかな視線からは、この状況をすでに看破しているように感じた。
元々翼がいることについて、何らかの方法で知っていたに違いない。
下手を打たなくて良かったと、翼の気が少しだけ緩む。
隆斗はそのまま静かにリビングのソファへと腰を下ろす。
心桜が手早く茶請けを用意して同じくソファに座るが、翼は心桜の後ろで直立したまま微動だにしない。
「お父様、翼くんに座ってもらっても良いですか?」
そんな翼を案じたのか、心桜が提案を口にする。
しかし問われた隆斗は、にっこりと微笑むだけで一切の言葉を発さなかった。
それが意味するのは、明確な拒絶の意思表示。
「足が重傷の彼を立たせたままなんて、許せません」
しかしめげずに心桜は訴えを続ける。
心桜の突き刺さるような視線を真っ向から受けながらも、隆斗は頑なに首を縦に振ろうとしなかった。
「……お父様」
「心桜。君がその態度なら、私も相応の態度を取らねばなるまい」
「…………」
「心桜が公的に接するのであればそう返す。公的であるなら、護衛を座らせるのは彼に失礼だ」
足が重傷であっても翼は心桜の護衛であり、雇い主が目の前にいる状況だ。
護衛としての役目を果たすために、座ることなどできるはずがない。
隆斗は身内なため危険性はないが、翼としても彼が言いたい事はわかった。
「どうする?」
念押しのように隆斗がそう問いかけた結果。
心桜は素直に受け入れるように答えた。
「……わかったよ……パパ」
「よろしい。それでは小宮くん、遠慮なく座りなさい」
隆斗からの指示が下り、翼はおずおずと足を庇いながら移動し、浅く腰掛ける。
(それにしても……やっぱりか)
翼も聞いたことがある、心桜の『パパ』という呼び方からして、やはり実家での口調は大きく違うのだろうと察する。
ならば心桜の感情が発露した時に、口調が崩れがちだったのも頷ける。
隆斗の表情も柔らかくなり、彼も家族としての雰囲気で会話をしたかったのだろうと察した。
しかし当の心桜は口調を誤魔化したいのか、この場を早く終わらせるかのように切り込む。
「それで、何しにきたの?」
「娘が急に家から出て行って帰らないとなれば、心配して当然だろう?」
「……顔は見せたでしょ」
「数日だけだったじゃないか。夏休み期間中は実家にいる話だったろうに」
そう話を蒸し返すかのように、隆斗は心桜へ告げる。
すると心桜は軽く唇を尖らせて、不満げに顔を逸らした。
「絶対、帰らないからね」
「はぁ……仕方がないな」
その呆れたようなため息を受けても、心桜は姿勢を変えようとしない。
その一連のやり取りに、娘への深い愛情が滲み出ている、と翼は思った。
彼女のわがままをすんなり認めたあたり、よほど大事にしているのだろう。
普段から心桜に振り回される隆斗の姿が目に浮かぶ。
それを目の当たりにした翼は眩しいものを見るように目を細める。
心桜が拉致被害の中でも今のように真っ直ぐ育ったのは、この両親からの愛があったからこそなのだろう。
そうどこか胸の内に感情をためつつ思っていると、今度は隆斗が翼の方へ視線を送る。
「ただ、用は他にもあってね。小宮くんと話がしたいから、心桜は外してくれるかな?」
「……え?」
その言葉に、心桜は呆気にとられたように固まる。
翼としても驚きを隠せず、改めて姿勢を正した。
何を言われるのか、思い当たる節が多すぎる。
先の護衛としての失態か、今の心桜との距離感か、何にしても心桜に聞かれたくない内容だとするとかなり重要な事なのだろう。
そのことを察した心桜は、より一層、眼差しが引き締まる。
「翼くんを責めたら、わたし――怒るよ」
端的だが、はっきりと感情の乗った声を放つ心桜。
横にいる翼がその気迫にたじろぐほどの圧を感じる。
「約束はできないな」
しかし隆斗ははぐらかすかのように答えた。
その返事を受けてさらに迷いが滲む心桜へ、今後は翼が声をかける。
「心桜さん。おれは大丈夫だから」
「……わかりました」
翼のお願いするような呼びかけに、彼女は渋々といった様子で頷いた。
心桜は躊躇いながらも立ち上がって、実の父親を凝視してから歩き出す。
終始、翼の味方として気を配り続けている、心桜のその背中に翼は静かに感謝した。
そうして残った2人きりのリビングには、重苦しい沈黙が下りる。
「さて、改めて小宮くん」
「はい」
何を宣告されるのかと、翼は密かに身構える。
「すまない」
しかし予想に反して、隆斗は深々と頭を下げた。
思ってもみなかった光景に翼は焦る。
「あ、頭を上げてください」
「いや、これだけは言っておかなければ」
隆斗は頑として謝罪をやめようとはしない。
その謝罪は、一切の混じり気のない本意を感じる。
ただ翼の動揺が伝わったのか、隆斗は頭を上げて微笑んだ。
「順番が逆だったね。困らせてしまって失礼した」
「……いえ。私は問題ありません」
「そう言ってくれると助かるよ」
動揺から立ち直った翼。
そんな彼を見て、隆斗は一つ咳払いをし、改めて姿勢を整える。
「まず、心桜を助けてくれてありがとう。今回君がやったことは、心桜にとって……とてつもなく大きな意味を持つ」
まず伝えられたのは、糾弾の類ではなく純粋な感謝。
彼の言った『心桜にとって大きな意味を持つ』という内容について、概要を翼もすでに聞いている。
今回の襲撃では先鋒に隠れた、本命である組織に繋がる人間を生け捕りにできたのだという。
そこから情報を抜き出し、裏組織や情報ネットワークの殲滅へと動くことができる、という大きな成果が得られたとのことだ。
それについて翼は入院中に、313から概要を聞いており驚き自体はない。
これから真崎グループと小宮家を含む関連企業、総出で『掃討』が始まる。
それによって、ようやく心桜が自由になれる兆しができたということだ。
「私たちはどうしても……ここまで娘を危険に晒す気にはなれなかった。そのせいで君には大怪我を負わせてしまい、申し訳なく思う」
なるほど、怪我を案じての謝罪だったのか、と翼は腑に落ちる。
重傷具合もそうだが、あの現場の状況は、詰みの一歩手前だっただろう。
あそこまで愛娘を窮地に陥れ、警護を徹底的に薄くし、敵が出て来ざるを得ない状況にするのは、もはや博打としか言いようがない。
ただ結果として翼自身が怪我をした程度で済み、心桜の未来を切り開けたのであれば、それだけの価値があったと思える。
「いえ。これが私の仕事ですので」
翼がそう端的に答えると、直後、隆斗の表情がピシッと歪む。
今まで表情を崩さなかったのに何事かと、翼が疑問を抱いた瞬間、隆斗は自嘲気味に息を吐いた。
「気にしないでくれ。ちょっとした父親心というものだよ」
「そ、そうですか?」
「ああ、もちろん君が悪いわけじゃないから安心してくれ」
そう言い含められるが、翼にとってはどうにも反応に困る。
父親心という内容からして、心桜に関することなのだろうが、真意までは不明だ。
続けて、隆斗は誰の目にも分かりやすい大きなため息をついた。
「こうも言うことがないと認めるしかなくて、癪じゃないか。まぁ、うちの子の方がいい子だけど」
その言葉の意図も全ては計りかねる。
しかし心桜がいい子ということについて、何か拘りのようなものを感じたため、そこへ同意を挟む。
「心桜さんであれば素晴らしいお方です。日々、この上ない主人に恵まれたことを感謝しております」
「……それ、心桜に直接言ってるの?」
「はい、もちろんです。感謝は絶やさぬようにと教わりましたから」
毅然として言い放つ翼。
それを見て隆斗の顔が、さらに面白くなさそうに歪んだ。
「はぁ……まぁ、あいつの子ならそうだよね。わかっていたことだ。嘆いても仕方がないことは、もういいか」
呆れたように肩をすくめる隆斗に対し、翼は微かな違和感を覚える。
(……父さんのことだろうか)
あいつの子という言についてひっかかり、推測されるのは隆斗と翼の父の間に何かがあったこと。
思い返せば翼の父は心桜の護衛についていたことがあり、隆斗と何かしらの関係があってもおかしくはない。
そうやって翼の思考が深まる中、隆斗は思わずといったように疑問を口に出した。
「……意外と、なんともなさそうだね」
「? 不便ではありますが、どうにかなります」
「……ん?」
翼はすぐに答えたが、内容がそぐわなかったのか、隆斗の眉間に皺が寄る。
そんな謎に空いた間を受けて、今後は翼が尋ねた。
「怪我のことではないのですか?」
「それもあるが……」
最初に挙がった怪我の話かと思えば違うらしい。
ではなんなのか?と問おうにも、礼を尽くすべき相手のため言葉を待つ。
すると翼の様子を察した隆斗の顔に、明らかな戸惑いが浮かんだ。
「まさか、聞いていないのか?」
どこか理解できないかのような感情をこぼした言葉。
ここまで言われれば、流石に翼も聞き返さずにはいられず、頭を下げて問う。
「申し訳ございません、なんの件についてでしょうか?」
「……いや、知らないなら、これは小宮家から聞くべきだろう」
そう言葉を区切り、隆斗の「小宮家は何を考えているんだ?」と微かな呟きが、静まり返ったリビングに落ちた。
状況としては芳しくなく、翼にも大きな動揺が走る。
翼の預かり知らぬところで、小宮家が何かを取りこぼし、真崎のトップが懸念している。
しかし隆斗は今考えても詮無いと、気を取り直したように手を組んだ。
「まぁいい。またすぐ会う機会もないから、分からなくても今告げておく」
そして隆斗の目が、酷薄な光を帯びて翼を射抜いた。
「小宮家から打診があったとはいえ、君には重い業を背負わせることになる。恨むなら、恨んでくれていい」
重い業と恨み。
鉛のように重い宣告。
あまりにも物騒な物言いののち、隆斗は再び頭を下げた。
「しかし我らにとっては、何よりも心桜が優先だ。だから……すまない」
そう謝絶されても、翼には返す言葉など見つかるはずもなかった。




