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55_ルール

「こんにちは」


 実家に帰ったはずの心桜。


 そのはずが、なぜか今翼の目の前にいて、理解が追い付かない。


「こ、心桜さん!? なんでここに!?」


 驚愕に目を見開く翼に対し、心桜は可憐な笑みを深めている。


「お邪魔しますね」

「えっ!?」


 翼が制止する間もなく、彼女は滑るような足取りで玄関扉を抜け、中へと入ってくる。


 横を通る際に柑橘系の爽やかな香りが、ふわりと翼の鼻腔をくすぐった。


 普段から良い香りに包まれている彼女から、また違った雰囲気を感じるような気がする。


(……あ、やばい)


 と、今はそれどころではない。


 心桜の顔を見れば、有無を言わせぬ笑顔が張り付いている。


 それを受けて背筋の悪寒を感じるのは、気のせいではないだろう。


 自分の身を眺めれば、翼の全身は汗ばみ、服もトレーニング用のものだ。

 その姿を見れば誰しもが、何をやっていたかを簡単に想像できるだろう。

 人一倍他人を気遣う心桜が、それを見逃すはずがない。


 翼の頭の中で警鐘が鳴り響き、ついて出たように口が滑べる。


「え、えっと、一旦外で待ってもらっても」

「松葉杖はどうしたんですか?」


 言葉を遮るように落とされた彼女の一言に、翼は自身の窮地を悟る。


 これは確実に、まずい状況だとしか言えない。


「……ちょ、ちょっと急いでて忘れちゃった」


 別になくても平気だ、などという本音を口にできるはずもなく、苦し紛れの嘘を吐く。


 しかし、澄んだ瞳を細めた心桜の笑みは、凄みを増して翼を射抜く。


「ひとまず、わたしにつかまってください」

「いや、そんな」

「つかまりなさい」

「はい」


 有無を言わさぬ主人の命令に、逆らうことなどできはしない。


 翼は観念して、おずおずと彼女の華奢な肩へ腕を回す。


 よいしょ、と小さな掛け声とともに、心桜が翼の体を支える。


 その瞬間――布越しに伝わる柔らかな感触が、ダイレクトに翼の神経を焼いた。


(や、やばい! でも言えない!)


 内心で大いにうろたえながらも、翼は心桜に導かれるままリビングへと足を進める。


 心桜は翼を引き連れながら一直線に、部屋の中央に散乱しているダンベルやトレーニングギアへと歩み寄った。


「ここで、何を、していたのですか?」


 心桜の温度を感じさせない声に、翼の額から冷や汗がとめどなく溢れ出す気がした。


「ちょ、ちょっとリハビリを……」

「おかしいですね。あなたは絶対安静だと思うのですが」


 室内を満たす空気が、肌を刺すようにピリピリと張り詰める。


 その雰囲気に押されて翼は完全に言葉に詰まる。


 焦りからつい器具へ手を伸ばしたが、どう考えてもリハビリの域を超えていると言えるだろう。

 言い逃れなどできるはずもなかった。


 窮鼠とはまさにこのことで、視線を彷徨わせることしかできない。


「まぁ、自宅に帰ったと聞いて、なんとなく察しはついてましたけど」


 気品のある溜息をつきながら、心桜はあっさりと看破してみせる。


「とりあえず椅子に座りましょうか。ほら、行きますよ」

「す、すぐそこだか――」

「早く」


 拒絶を許さない強い口調で、心桜は再び翼の体を自分へと引き寄せた。


 上質な香りと、女性特有の柔らかな感触が、再び翼の理性を揺さぶる。


 『逃がさない』と、そう伝えるかのように、ぴったりと重なる脇腹。


 そこへ、ふよふよとあたる柔らかい何かの感触。


 その何かから意識を逸らすのに必死な翼は抵抗することもできず、導かれるまま心桜に座らせられる。


「今回の件を受けて、ルールを設けます。異論は受け付けません」


 心桜は翼の反対側に座ると、厳格な面持ちで言い放つ。


「まず、基本的にこの家からは離れましょう。ここにいたら、あなたは絶対にトレーニングをしてしまうので」


 的確すぎる指摘に、翼はぐうの音も出ない。


 一切の反論がない翼を見てか、心桜は迷わず提案を告げる。


「なので、お風呂と就寝以外はわたしの家にいてもらいます。いいですね?」

「…………は!?」


 突然突きつけられた途方もない提案に、翼は頓狂な声を上げた。


 さすがに口を挟まずにはいられず、慌てて声をかける。


「心桜さんは実家に帰るんじゃ!?」

「帰りませんよ? 無理をするけが人なんて、ほっとけませんから」

「い、いや! それならおれは実家に」

「ダメです。あなた、なんだかんだ理由をつけて、実家でもこういうことをするでしょう」


 図星を突かれ、絶対にしないとは言い切れず、翼は唇を引き結ぶ。


 そんなことは何があっても絶対に許さないと、心桜はさらに真剣な面持ちになる。


「もし、お風呂と寝る時すらもトレーニングした場合は――」


 強い覚悟を秘めた瞳で、翼を射抜く。


「わたしのベッドで寝てもらいますからね?」

「そ、それは無理無理無理無理!!」

「……じゃあ、絶対にやらないでください」


 絶対にあり得ない提案に、翼は全力で首を振る。


 そんな彼を見て、毅然とした態度で言い放っていた心桜は、少し表情を曇らせる。


 翼がそれに疑問を抱くと、心桜は改めるように咳払いを一つしてから、言葉を続ける。


「次ですが、移動の時は基本的にわたしが肩を貸します」

「いや、さすがにやりすぎじゃ……」

「では今、松葉杖はどこにありますか?」


 なんとか抵抗しようとした翼ではあるが、即座に心桜が言い返す。


 その静かな問いかけに、翼は部屋の隅でいつの間にか倒れている松葉杖を見て、そっと目を逸らした。


「いつも無理をするあなたから、目を離したくないので」


 これは翼の行動を制限する狙いもあるのだろう。

 前科がありすぎる翼は、心桜の徹底マークを逃れることはできなそうだ。


「以上です。わかりましたか?」


 小さく肩をすくめる彼女に、翼は小さく息を吐く。


 まるで言い返せず、すっかり彼女のペースだ。


 それぞれのルールに思うところもあるが、まずは伝えなければならないことがある。


「……心桜さん。おれは護衛だから、怪我したのも仕事の内で……決して君のせいじゃないからね」


 翼は諭すように言葉を投げかける。


 しかし心桜はそれを受けても、一切表情を変えない。


「わかっています」

「だから、君がおれに何かをする必要はないんだよ?」

「わかっています」

「じゃあ、なんで……」


 職務の範疇を超えた彼女の献身に、翼は困惑を隠せない。


 もちろんこういうことは、これまでもあった。

 風邪の看病や模擬戦の手当てで、心桜が労ってくれるのを申し訳なく思っていた。


 しかし今の彼女は、この夏休み期間全てを翼の生活の補助にあてるつもり、というのがありありと伝わってくる。


 流石にそれはやりすぎている、と思わずにはいられなかった。


 そう暗に伝えてみても、心桜は目をそらさない。


「……なんででしょうね?」


 それどころか彼女は薄く微笑み、今までとはどこか色が違う瞳で翼を見つめ返す。


 その言葉の裏に隠された感情を、翼は読み取れない。


 見たことのない雰囲気をまとう彼女へかける言葉を迷っているうちに、心桜はゆっくりと立ち上がった。


「では、わたしの家へ行きましょう」


 そう言って、心桜は再び近くに寄り、足元の覚束ない翼の体をしっかりと支え込む。


 至近距離から漂う彼女の香りと、否応なく伝わる柔らかな感触。


 これが――あと1か月半も続くのかと。


 翼は内心で深く、深く頭を抱えたのだった。


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