53_救い
目が覚めても、鉛のように重い瞼が開かなかった。
顔中を何かが覆い尽くしているような、息苦しい感覚がある。
さらには全身の骨が軋む強い倦怠感に襲われ、体を起こすことすら叶わない。
「っ……」
少しの間呼吸を整えて、痛覚の波に耐える。
そしてようやく薄く開いた瞼の隙間から、白い光が鋭く網膜を焼く。
「ここ、は……」
視界に滲むのは、無機質で白い天井。
背中に伝わる慣れないベッドの感触と、鼻腔を突く消毒液の匂いにより、ここがどこであるかを理解する。
ぶり返してきた灼けるような痛みが全身の神経を逆撫でする中、さらに息を整えること数度。
全身に僅かな力が戻り、軋む上体をゆっくりと起こした。
「……病院、か」
清潔な空気が肺を満たす。
周囲に視線を巡らせ気付いたのが、ここが個室の病室だということ。
「あ……」
そして傍らには、ベッドに突っ伏すようにして眠っている——心桜の姿があった。
彼女の華奢な両手が、翼の傷だらけの手を、祈るように強く握りしめている。
冷たく感じる病室の空気の中で、そこからだけは優しい温もりが伝わってくる。
「おれは……」
鈍い衝撃の余韻が頭蓋に響いているのか、直近の記憶が定かではない。
ただ、全身を包むひどい倦怠感と、顔面を覆い尽くすガーゼの感触が、事の重大さを物語っている。
さらには頭に分厚い包帯が巻かれ、片足を重々しいギプスで固定されていた。
「しばらく、何もできそうにないな……」
見るからに重傷な片足が今どういう状態にあるのかすら、麻痺していてわからない。
真っ先に思い浮かんだこととして、今の自分では護衛という役目を果たせず、今後どうなるのかという不安が巡る。
時間も日付も、確認ができない。
頭部に受けた外傷のせいか思考の歯車がうまく噛み合わず、泥に足を取られたようにひどく鈍い。
「……心桜さん」
それでも、決して翼の手を離そうとしない心桜の細い指先から伝わる温もりが、確かな安心感を与えてくれる。
彼女へ声をかけても、今はひどく無防備な様子で、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。
不安が表に出た無意識だろうか、その柔らかい手をそっと握り返す。
「んっ……」
その僅かな動きに気付いたのか、心桜の肩がかすかに跳ねた。
以前の様子からそう簡単に目を覚ますとは思っていなかったので、翼も身構えてしまう。
彼女は次いで、ゆっくりと上体を起こし、目をこすりながら翼を見上げる。
「つばさくん……?」
「ごめん、起こして」
まだ夢の中にいるような彼女の震える声に、いつも通り笑いかけようとした。
しかし、ガーゼまみれの顔面の筋肉が引きつり、うまく表情が作れない。
いつまでたっても格好がつかない自分を呪いかけた、その時だった。
「翼くん!!」
心桜が椅子から弾かれたように、翼の胸元へと勢いよく抱きついてくる。
「な、な、な」
想定外の行動に、翼の身体は丸太のように硬直する。
押し付けられた柔らかな感触と、彼女の髪から漂う甘い香りが、ひどく理性を揺さぶる。
混乱する寝起きの頭では、この状況をどう処理していいかわからない。
しかし、胸元から伝わる怯えたような震える感触に、翼の動揺はすっと凪いでいく。
今はただ、心配をかけてしまった彼女を受け止めようと、ただ見守り続けた。
「た、体調は……大丈夫ですか?」
少しして体を離した心桜が、赤く腫れた瞳で心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫って言いたいけど……今の姿じゃ、説得力ないよね」
そんな彼女へおどけたように笑ってみせた翼。
今度はうまくいったと思ったが、その言葉は逆に彼女の表情を暗く曇らせる。
心配をかけまいと配慮しようにも、翼の姿を見れば誰だって強がりだとわかってしまう。
ただ翼としてはまず先に確認したいことがあり、迷わず彼女へ声をかける。
「それより、心桜さんは大丈夫?」
「……え?」
「ごめん、あんまり記憶が定かじゃないんだけど……おれのせいで、何か怪我させてたら申し訳ないから」
護衛としての最大の失態を恐れ、そう尋ねる。
自分よりも主の身が最優先なのは、当たり前のこと。
生涯全てを護衛のための研鑽にあてた翼としては、どうしても聞かずにはいられなかった。
すると、悲しみに暮れていたはずの心桜の瞳に、キッと強い光が宿った。
「……こんなに傷ついたのに、まず他人の心配ですか?」
その声音には、やり場のない感情が滲んでいる。
翼はそんな彼女を見て、次の言葉を察した。
焦りから尋ねた翼の自身を顧みない思考が、彼女の心をどれほど抉っているか、その瞳から痛いほど伝わってくる。
「……いえ、その前にちゃんと言わなければいけないことがありますね」
しかし彼女は自らの感情を飲み込み、改めて姿勢を正す。
翼が戸惑っていると、心桜はベッドの傍らで深く頭を下げる。
「わたしのせいで、こんな目に遭わせてしまって……」
「ごめん」
彼女が言い切る前に、翼は短い言葉で遮った。
「おれが甘かったせいで、心桜さんを危険な目にあわせちゃったんだろう……護衛失格だな」
「そ、そんなことはありません!」
本心から後悔の滲む声で、翼が心情を明かす。
すると痛々しいほどの必死さで、心桜が異を唱える。
この反応は想定通りであり、だからこそ翼は心桜へ強く諭す。
「なら、心桜さんも気にしないで欲しい。もし君のせいだというなら、もとはといえばおれのミスが原因なんだから」
「……でも」
なおも責任を感じて目を伏せる彼女に、翼は静かに言葉を紡ぐ。
「おれとしては、謝られるよりも、別にやってほしいことがあるかな」
「やってほしいこと?」
潤んだ瞳で尋ねてくる心桜。
護衛に謝罪は必要ない。
もし叶うなら、一言。
その一言で、十分だから。
できる限り彼女が自分を責めないように、痛む顔で精一杯の微笑みを作る。
「心桜さんが無事で良かったよ。……おれは、君の役に立てた?」
自分の存在意義を確かめるようにそう伝える。
すると心桜は、くしゃっと顔を歪めた。
気丈に振る舞おうとしていた彼女の口元が、微かに震える。
そう思った次の瞬間、翼は大きく動揺した。
大粒の涙が――琥珀のような瞳から溢れ落ちる。
「わたしを、助けてくれて……ありがとう」
そのまま、彼女は再びゆっくりと翼の胸元に顔を埋めた。
堪えられなかった泣き顔を見られたくないのだろう。
胸元に広がる熱い涙の温度を受け止めながら、翼自身の胸の奥も、締め付けられるように熱を帯びていく。
「絶対に、忘れないよ」
その声は揺れながらも芯を伴い。
「あなたがわたしを、救ってくれたことを……忘れない」
嗚咽混じりにこぼす心桜。
そんな彼女の想いを受けて、翼は天を仰いだ。
「そっか」
翼もまた、その言葉をゆっくりと心の内で反芻する。
「おれはやっと……大切なひとを救えたんだ」
遠ざかっていく父親の背中。
慕いながらも壊してしまった上司との関係。
いつも守れなかった過去の悔恨が、脳裏にこびりついて離れない日々。
だが、今腕の中にいる温もりが、それらを押しのける。
ようやく。
ようやく――手が届いたんだと。
救われたと言ったのは心桜。
しかしこの一言は、翼が何よりも欲していたものだった。
本当の意味で過去の呪縛から救われたのは、他でもない翼自身なのかもしれない。
「……うれしいなぁ」
胸の奥から、熱いものが込み上げる。
不意に、視界が滲む。
胸元に顔を埋めていた心桜が、顔を上げようとする気配がした。
今は、感情を抑えられない自分の顔を見られたくない。
翼は彼女が顔を上げるより早く、その華奢な体を強く抱きしめた。
一瞬、彼女の動きが硬直する。
だが、すぐに戸惑いを捨てて、全てを預けるようにすがりついてくる。
――大切な、ひと。
病室の白い静寂の中で、ふたつの息づかいだけが、やわらかく溶け合っていった。




