52_覚醒
「……来たっすね」
男生徒がポケットからスマホを取り出し、そのまま耳に当てる。
「はい、はい。見張りは眠らせてあるんでそのまま入ってください。指示通りカメラも潰してあります」
無機質なやりとりが、埃っぽい倉庫の空気を震わせる。
一言一言が無骨なコンクリートの壁に響き渡り、張り詰めた緊張が肌を刺す。
電話を終えた男生徒がふぅと短く息を吐くと、再び沈黙が場を満たした。
辛うじて聞こえるのは、重傷を負った翼の浅く乱れた呼吸だけ。
誰も動けない。
ついに依頼主が姿を現す時が来る。
迫り来る現実に、呼吸すらも息苦しい。
そんな中――やがて最後の合図が届く。
スマホの微細な振動音すら、心桜の耳には鮮明に残る。
メッセージを確認した男生徒が重い鉄扉の錠を外すと、鈍い駆動音とともに逆光が流れ込んだ。
外光に白く切り裂かれる、倉庫の闇。
光の中から現れたのは、黒いシルエットが際立つ大柄な男三人だった。
「身柄を引き渡せ」
先頭の男が倉庫に踏み入るや否や、吐き捨てるように言った。
男生徒はあくまで平静に、抑揚を消した声で返す。
「前金と同時って話でしたよね?」
「……闇バイトのくせに、抜かりないな」
「どうも」
それは形式ばった褒め言葉に過ぎない。
男生徒は本心からではないのが透けて見える薄ら笑いを口元に浮かべつつ、後ろを振り返る。
「真崎さんと小宮をここに並べろ」
先輩たちは指示に従い、心桜と瀕死の翼を立たせつつ押し出し、男生徒と横並びになる。
受け渡しのため、依頼主である大柄の男たちも三人横に並ぶ。
心桜を中心に、左に男生徒、右に翼がいる状況。
女生徒に拘束されたまま立たされる心桜は横を見る。
「つばさくん……」
隣では、自力で立てない翼が頭を垂れ、それを痛ましげに支えるいじめられていた先輩が目に映る。
呼びかけても、翼は何も反応しない。
心桜の琥珀色の瞳に諦観が滲み、唇をそっと噛む。
「では、同時に受け渡しを」
男生徒がそう音頭を取った――その瞬間。
「あ」
翼を支えていた先輩から、間の抜けた声が漏れる。
釣られて心桜も視線を翼へ戻す。
誰の目にも明らかに死にかけている翼が、力無く、前へと崩れ落ちた。
その先には、受け取りで身構えていた男。
不快そうな顔で前に出た男が、翼へ手を伸ばす。
「おい、しっかり――」
その軌跡が、ぶれる。
心桜の目で追えない速度。
代わりに、鈍く重い衝撃音だけが鼓膜を叩く。
倒れ込む重力と重心移動を完璧に利用した翼の頭が、正面の男の顎を正確に撃ち抜いた。
「なん」
心桜を掴もうとした隣のリーダーと思しき男の言葉も、唐突に途切れる。
ペキッ。
と不快な音とともに翼の蹴りが男の膝に深々と刺さり、彼は呆気なく崩れ落ちた。
「は?」
自分の身に何が起きたのか、男の理解が追いついていない。
場が完全に硬直したその時。
「ひっ!!」
心桜を拘束していた女生徒が、短い悲鳴とともに後ろへ転ぶ。
気づけば、翼が心桜との距離を詰めていた。
さらには女生徒が立っていた場所に、翼の蹴りが鋭く空を切る。
「いやぁ!!」
躊躇のかけらもないその一撃に、女生徒は恐怖のまま即座に逃げ出す。
「あ゛ あ゛ あ゛ あ゛ !!」
続いて、自分の身体の異変を悟った男が絶叫を上げる。
恐怖に塗り潰された表情。
現実から目を逸らすように歪む、その顔。
心桜もその惨状を視界に収め、思わず息を呑む。
翼に押し込まれた膝が――曲がってはいけない方向へと、折れていた。
「きゃっ!?」
壊れてしまった男に気を取られていた心桜の口から、短い悲鳴が漏れる。
翼は心桜の腕を掴み、強引に引き寄せていた。
目まぐるしく反転していく状況の中で、翼の胸に飛び込んだ心桜は、まだ何が起きているのか理解が追いつかない。
場を支配していた絶対的な力関係が、たった数瞬、たった一人によって完全に逆転する。
「おい、手錠は!?」
奥で座っていた先輩が、焦燥に駆られたように金切り声を上げる。
先輩の声に釣られ、心桜は翼の手に目をやる。
後ろ手に拘束されていたはずの両手。
片方には手錠の輪が残されているが、もう片方には何もない。
親指の付け根付近の肉が抉れ、生々しく血が流れている。
「力ずくで引き抜いた、んすか……?」
「こいつ、折れた足で……」
呆然と呟く男生徒と先輩の声に、困惑と戦慄が滲む。
釣られるように誰しもがその顔に驚愕の色を浮かべる。
しかしその中でも、翼の表情は抜け落ちたように無のまま。
鉄パイプで殴られ折れた骨が軋み、肉が焼けるような痛みがあるはずだ。
殴打の痕が残る顔は痛々しくて見ていられない。
手錠を無理やり引き抜いた手は、裂傷だけでは済まないだろう。
傷元の親指が不自然に揺れている。
それでも痛みなど微塵も感じさせないかのように、翼は静かに立ち続ける。
「あっ!」
次いで翼は心桜を強引に部屋の隅へ突き飛ばした。
その動きに容赦も躊躇も一切ない。
心桜を背に庇うように、先輩たちへと振り返る。
「動くな! 動けばこいつらの動画を流すぞ!」
先輩が震える手でスマートフォンの画面を突きつける。
しかし翼は一切の反応を見せず、先輩の方を見向きもしない。
「くそっ、聞こえてねえのかコイツ!」
脅しも人質ももはや機能しない。
そう誰しもが悟ったその時。
「――――!!」
「…………」
足が折れて立ち上がれない男が、焦燥に駆られたように、残る1人へと指示を出す。
その言語は日本語ではない。
それでも指示が通じたのか、最後の男は転がっている鉄パイプを手に取った。
「――――!! 殺せ!!」
ダメ押しのように短い号令が飛ぶ。
それを受けて男は、鉄パイプを構えて翼へ突進。
瀕死のようにしか見えない翼へ、獲物を手にトドメを刺す殺意を迸らせる。
真横からの薙ぎ払い――頭部を狙った、全力の一撃。
ガギッ!!
大きな衝撃音に、心桜の喉が引き攣る。
甲高い金属音が、空気をつんざく。
鉄パイプは、無情にも、翼の側頭部にめり込んだように誰しもが思った。
しかし翼は一切衝撃がないかのように立ち続ける。
当たったのではない。
手錠の輪を握り込んだ片手で――鉄パイプを受け止めていた。
生身の手ではない鉄によって衝撃は阻まれたと、理解が瞬時に追いつくのは難しい。
信じられないものを見たかのように、男が硬直する。
その一瞬が、命取りだった。
翼がパイプを掴み、強く引く。
慌てて武器を奪われまいとした男の体が、勢いのまま前へと崩れる。
崩れた体勢を、もちろん翼は見逃さない。
というよりも、全てが既定路線。
鉄パイプを受け止めたのもそう。
本来実現不可能なことが、常軌を逸した集中力とリミッターの外れた力で形になっていく。
"因果が逆転"するかのように、翼の一挙一動が最速かつ最短で、現実を塗り潰す。
差し込んだ膝蹴りが、男の手を的確に打ち砕いた。
鈍い衝撃に耐えきれず、指が開く。
するりと抜けた鉄パイプ。
それは翼の手に収まり。
勢いのまま。
今度は翼が横薙ぎに構え。
振るわれる鉄パイプが――空気を切り裂く。
「つばさく――」
ドサッ、と重い肉塊が崩れ落ちる。
心桜が止める間もなく――翼の迷いない一閃が、男の側頭部を打ち据えていた。
そこには人を傷つけることへの躊躇など、微塵も感じない。
確実に人体を破壊する急所への一撃により、男は冷たい床に伏せるのみだった。
「きゃあああっ!!」
目の前で行われた惨状にのまれた女生徒が、恐怖のあまり悲鳴をあげる。
そして恐れの衝動のまま、迷いなく倉庫の扉へと駆け寄り手をかけた。
「あ、おい!!」
退学した先輩が声をかけても止まらない、止めることもできない。
それを確認したのか、いじめられていた先輩もその後を追う。
リーダーと思しき男も、あまりの衝撃と恐れに声を出せずにいる。
そうして戦場に残ったのは男生徒と退学した先輩。
すでに脅しは意味をなさず、男生徒は肩をすくめながら問うた。
「……どうします?」
「どうもこうも、あいつを潰すしか」
「できるならどうぞ。俺はごめんっすけど」
「てめえ……!」
「命をかけるほどのやる気はないんで。それに、小宮がいつまでもつかわからな――」
男生徒の言葉は最後まで続かなかった。
入り口の重いドアが、蹴破られるように勢いよく開いたのだ。
「武器を捨てて投降しろ」
コード『313』をはじめとする小宮家の護衛たちが、制圧の構えで雪崩れ込んでくる。
逃げ出した生徒たちをトリガーとして、周辺に潜伏していた彼らが突入を決断したのだろう。
「……終わりっすか」
「くそがっ!!」
男生徒と先輩の顔から、最後の余裕が剥げ落ちる。
「全員の身柄を確保。283は」
313の言葉は翼を見て途切れる。
場を決した援軍が到着してもなお――表情が抜け落ちた翼は構えを解かなかった。
いまだに鉄パイプを下ろさず、心桜を背に庇い続ける。
「翼くん……」
そんな翼を見て、心桜がそっと立ち上がる。
透き通った涙を頬に伝わせながら、傷だらけの翼の背中に寄り添う。
静寂を取り戻した凄惨な空間では、それ以上誰も声を発することはできなかった。




