79.落とし穴
好きです、と。背後から抱きついて想いを告げた。
すると少年は振り返り、困った顔をしつつもきっぱりすっぱりと答えた。「俺は○○が好きなんだ」―――そう言って縋る手を解き、振り返ることなく去って行く。
可憐な少女は少年がなんて言ったのか理解したくなくて、もう一度「あなたが好きです」と告げた。少年は冷めた表情で少女を見、少女はその変貌に目を見開く。
「…ぁ……」
もはや、その表情が返事だった。
言葉にするよりも早く理解できた少女の愛らしい顔から表情がどんどん抜け落ちていく。抜け落ちて、そして、
「ぁ、アなタガ…すきデ、す、あな、タ、が、す、スす好すススすすす」
「三好…?」
―――少女の可憐な容姿は、紛い物のそれは、溶けていた。
目は窪み、髪がずるりと抜ける。肌は干からびて口が裂け、カタカタと油の切れそうな人形のように震えながら―――少年に手を伸ばす。
「あなたが、すきです」
やっと出せた声は懇願に満ち、ただただ少年が想いに応えてくれることを願った。例えその顔が恐怖に歪んでいても、化け物の機嫌を損ねないための嘘でもいいから、「俺も好きだ」と言って欲しい。
―――しかし、現実は残酷だった。
「俺は、文だけを愛している」
微塵の揺らぎもない返答をした少年の表情は今や落ち着き払っていて、静かにポケットの中のナイフを取り出した。
「邪魔だな」
銀の輝きが眩く少女の目を刺す。
怯える少女だったものに対して、少年―――国光はまったく躊躇わなかった。
*
こういう時、どうすればいいのだろう?
―――文は震える手でただ彩羽を支えることしか出来ず、そんな情けない文と脂汗の滲む彩羽を庇うように手毬は「フーッ!」と威嚇する。
その劣勢ぶりを前に、三好は微笑む。唇だけが少女らしく小さくて、他は異形という状態でも。
「あなたのからだ、ちょうだい?」
がり、と三好の異常に伸びた腕が床を掻く。
三本足で動き辛そうにしながらも、少しずつ文たちに近づく。もはや人間では無い顔が恐ろしくて歯が噛み合わない音を聞きながらも、文はブンブンと首を振る。そしてぎゅっと彩羽を抱きしめた。
「ちょうだい」
「…あ、あなたにあげる物は、何もありません」
「―――」
僅かに彩羽の体が揺れる。衝撃で一瞬意識が飛んだもののすぐに意識を回復することが出来たらしい―――黙り込む三好を肩越しに睨みながら、荒い息で少しずつ体を起こす。
そして自らを貫く瓦礫の破片に手を伸ばしたところで、三好はぽつりと呟いた。
「そんなの、ずるいよ」
ずるい、どうして、わたしはあんたとちがってふとうにいじめられたのに。こんなにすきだとうったえたのに。つくしたのに。おまじないだってたくさん、たくさんしたのに。なのになんで、おまえなんかがうつくしいの、あたまがよくてなんでもできてやさしいかぞくがいてともだちがいてまもってもらえてほほえんでもらえてわたしにはそんなものないのにかぞくだってささげたのにうつくしくないしあたまもよく、よくないし、なにもできないしともだちもいないしだれにもたいせつにされたことなんてない。だれにも、おやにも、くにみつくんにも、わたしにやさしくしてくれたひとにさえ、ひつようとされなかった
―――三好は、その複眼から黒い涙を零す。
「わたしを、だれも、すきだと、いって、くれ、な、かった……」
ぼたぼたと床に落ちる涙は、蒸発する音と共に床を溶かしていく。
しかしそれでも三好の悲しみも苦しみも溶けることはなく、むしろ焼きつくように心を蝕んでいく。
「―――それは、君が真正面から他人に向き合わなかったからじゃないの」
力任せに破片を抜き取り、投げ捨てた彩羽の傷口に黄金の陣が浮かぶ。
ほろりと糸のように解けたそれは彩羽の傷口を縫うが、時折バチバチと鳴っては彩羽に苦痛を与える。顔を歪めながら、「治癒はこれだから…苦手なんだよ…」と一人呟いた。
「…詳細は事前に聞いた……君は、私と従妹さんの事件のとばっちりでいじめられて、両親とも不仲だった君は学校でも家庭でも孤立して過ごし―――国光に傾倒した。
……けど、国光本人との交流はほぼない…ほとんど遠くから見つめるだけ。きっかけはあったのに、自分から繋がりを持とうともせず、挙句の果てに家族を贄にこの騒ぎか。
そんな根暗で陰湿で身勝手な女、誰も愛さないよ」
「……だまれ」
「君はずるいと言うけど、文ちゃんは誰よりも努力しているんだよ。ちゃんと国光に誠実に向き合い、家族に対して慈しみの情を持っていた。…本当は裏切られるのが怖いのに、私と友だちになりたいと勇気を出してくれた。―――それが、君との差だよ」
「だまれ」
「人間は、口に出さなきゃ思いは伝わらない。純粋な気持ちほど…言っても伝わらないことばかりだけど、それでも向き合い続ければ、結果はどうあれちゃんと君の気持ちを受け止めてくれる。国光はそういうやつだもの。きっと…」
「だまれ!!」
小さな口が弾けるように耳まで裂け、吠える声は砂埃を巻き上げ突風のように彩羽に襲いかかる。
青白い顔をした彩羽は片手でそれを防ぐと、瘴気を身に纏い始めた三好を悲しげに見つめた。
「うるさい!!おまえみたいに、きれいで、すぐれていて、やさしいものにかこまれてそだったやつなんかが、わたしのきもちをわかるもんか!こんな、みじめなくらしをしらないくせに!!くるしみをしらないくせに!!!」
「そうだね。君と同じことを君の従妹も言っていたよ…その通り、私は容姿も才能も家族も友人も、全て恵まれてる。滅多にない幸運だよ―――だから、私はその奇跡に恥じぬ人間でありたい。……羽継が誇る、私でありたい」
ぐ、とよろめきながらも立ち上がった彩羽は、汗で滑り落ちそうになる警棒を強く握り締める。
「…確かに君の境遇は哀れだ。何も思わないとは言わない。だから可能なら救ってやりたかった……でも、もうそこまで……【怪異】と成り果てては、助けてやれない。せいぜいが、人として死なせてやれるくらいだ。だから、」
青白い顔なのに、瞳だけは揺るぎない力強さがあった。
「―――【霊安室】所属、【西の守】安居院家次期当主であるこの安居院 彩羽が!おまえを殺す!!」
その宣言に、三好は呪詛で出来た黒い光線を吐いて応えた。
彩羽は黄金の盾でおぞましい攻撃を防ぐが、勢いに押されて僅かに後退する。吹き飛んだ手毬をなんとかキャッチした文は、思わず姿勢を低くして硬く目を瞑った。
「ころす?ころせるわけ、ない、だって、わたし、さっきからどんなに、あなあなあなだらけにされたって、いたいってさけんだって、しねなかったしこわれなかったもの!それって、さいきょーってやつでしょお!?」
破裂音と耳にしたくない音。
文はふと、国光の好物の一つであるハンバーグを捏ねているときを思い出した。ねちゃねちゃと、肉を潰し繋げる音―――そこで今の三好の姿を察して、文は見開いた目をもう一度閉じる。
対して真正面から睨み合っていた彩羽は流石に眉を顰めつつもその異形ぶりから目を離さない。力をコントロールできずあちこち破裂し、それでも再生する三好は少女の形で、双頭となりつつある。血塗れの二つの顔は対照的な表情を浮かべ、ひとつは黒い涙を流して「こんなのはいやだ」とぶつぶつ呟き、もうひとつはケラケラと壊れたように笑っている。
(もう、心も食い尽くされる寸前か…)
ヒトの姿を奪い、心を奪い、最後に無防備の魂を喰らう。―――これは本当に時間が無いな、と彩羽は自分の指から御守りを引き抜いた。
「―――文ちゃん」
「は、はい!」
「ごめんね、君を庇いながら逃げ切る作戦は出来なくなった……ここから左に逃げて、上に上がって羽継たちに保護してもらって」
「そんな…彩羽さんは!?」
「大丈夫、足は傷ついてないし、魔力もまだまだある。ただ、文ちゃんを守る余力がないんだ…ごめんね」
そう微笑むと、彩羽は引き抜いた御守りこと指輪にキスをする。何かしら囁くと、アンティーク調の透かし彫りが美しい指輪の輝きが、増した。
「これ、御守りだよ。私だけじゃなく、お父さんの力も籠っているから、きっと文ちゃんを守ってくれる」
「待って…!私が受け取ったら、彩羽さんが、」
「いいんだ」
優しい声だった。
「この前、文ちゃんがくれた御守りに私は助けてもらったから。だから今度は私の番」
恭しく文の手を取り、そっと指輪を通す姿は王子様のようだった。
けれど最後にぱふ、と文の両頬を挟んで笑う姿はまるで悪戯っ子のよう。
「逃げて、なかなか動かない羽継たちを呼んできて。応援が付けばさっさと片付くから、文ちゃんは向こうで笑って「おかえり」って迎えて」
「…、……うん。早く…嘉神君と合流して伝えるよ…ちゃんと笑って迎えるから、彩羽さんも笑って「ただいま」って言ってね…!」
「もちろん!」
文の腕の中の手毬が「手毬モ!モッ!」と鳴くのに頷いて、文は一人立ち上がる。
三好は裂けたり膨れ上がったりとおぞましい姿だったが、怯まずに一歩踏み出す。彩羽が盾とは別の魔方陣を生むと、異形の少女は透明の壁に囲まれ封じられる―――目配せをした彩羽に頷いて、躊躇うことなく駆け出した。
扉に辿り着き、部屋から飛びだす直前にガラスが割れるような音と少女の怒声が聞こえたが、文は振り返ることなく廊下に飛び出す。
それに遅れて、窓硝子を吹き飛ばす爆風と閃光が部屋から溢れた。
―――文は走った。
冷え切り、静まり返った廊下を。窓は青空から夕暮れに、そして何も映さない漆黒に。床はぶれ、時折、帰宅か部活に向かう生徒の姿が薄らと入る。
まるで幽霊のような生徒たちだが、本当に幽霊なのは文の方なのだろう。触れることの出来ない生徒たちをすり抜けながら、文は荒い息に苦しみながら階段を上がる。
そして一段二段と駆けあがる度に、懐かしい気配を感じた。
爽やかで凛とした、彩羽の幼馴染の気配と、艶やかでどこか寂しい遠縁の少女の気配。
上りきる時間が惜しいと、文はバクバクする胸を抑えて叫ぶ。初めてここまで大声を出したかもしれない。
「助けて!!彩羽さんが――――!!」
叫びに、応える気配はあった。
黒髪の少女が振り返る。焦った顔だった――かも、しれない。というのも、よくよく目を凝らす前に、文の体は落ちたからだ。真っ直ぐ下に。
三好が彩羽との戦いに夢中になるあまり、この奇怪な世界を構成する力が一気に弱まったために、脆くなった地盤を踏み抜いた文はアリスよろしく現実世界に落ちてしまったのだ。
落ちた先は美術室。薄闇の中、涙を拭っていた少女が突如現れた文に目を見開き、憎しみに歪んだ表情を向ける。
少女の名は「芳堂 海砂」。かつて文を襲ったあの悪夢に一枚噛んでいた生徒だった。
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