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エッセイ  作者: 河野吉田
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エッセイ『東日本大震災』

『東日本大震災』


2011年3月11日、当時神奈川県に住み、高校一年生だった私は、学校が終わり、一度家に帰ってから花粉症の薬を貰いに耳鼻科の病院に行っていました。そこでは多くの患者さんが待機していて、自分の番が来るのをじっと待っていました。暇なのでテレビの某番組をボーっと眺めていたら、突如、緊急地震速報が流れ、ビックリしました。まぁ、そこまで揺れないだろう。そう思っていたら、予想外に横にも縦にも大きく揺れて、一瞬何が起こっているのか分からずパニックになりそうでした。しかし、瞬時に理解して、これは大地震だ!そう思いました。外を見てみると、信号が止まって大きく揺れ、車も止まってガッタンガッタン揺れ、電線が大きく揺れていました。病院でも機材が倒れたり、天井の点検口が落ちてきたりと大混乱でした。日本は大丈夫なのか。そう思っていました。すると、隣に座っていたおじいさんがおもむろに胸ポケットから手帳を取り出し、遺書らしき物を書き始めていて、いや、ギャグか?とそれを見て妙に冷静になった自分がいました。「きっと大丈夫ですよ」と声を掛けると、そのおじいさんは私に語り出しました。自分は阪神淡路大震災の経験者だと。この地震できっと地元のビルは崩れ、家も倒れ、地震が終わった後火災が起こると。その話を、私はただ静かに聞いていました。嗚呼、もしかしたら、本当に、起こるかもしれない。そう思ったからです。建物倒壊は仕方ないにしても、火災が起こらない為にはどうしたら良いか聞いてみると、一旦ブレーカーを全部落として、コンセントを全部確認してからもう一度ブレーカーを上げるという事だった。そうするしかない、と言われました。成程と思いつつ、その方の話を黙って聞いていました。体感時間が一時間位に感じたその揺れは、次第に収まり、病院も指示を出していました。揺れが収まった後、看護師さん(60歳前くらい)が、手すりと椅子に足を掛けて天井の点検口を元に戻そうとしていて、思わず「危ないですよ!流石に!」と止めましたが、続行して点検口を元に戻していました。マジで冷や冷やしました。そしてこの病院では非常電源があるらしく、診察は出来るが治療は出来ない状況で、とりあえず診察してもらう事になりました。私が花粉症なのでレーザーをやりたがる先生でしたが、この時はとてもガッカリしていました。この状況になってもレーザー治療やりたいんかい、と思っていました。そして会計時、電源が無いとの事で会計レジが使えないとの事で、後日支払いに来るように言われました。処方箋を貰い、近くの薬局に向かう途中、家族はどうしたかと思い、まず家にいる母に電話を掛けました。しかし出ず。家の電話に掛けて祖母と連絡を取ろうとしましたが、こちらも出ず。焦る気持ちを抑えつつ、薬局へ向かい、薬を貰いました。ここでも電気が来ず、会計レジが使えない為、後日支払いに行く事になりました。

そして薬を貰った私は全速力で走って家に帰りました。築40年以上の家だったので、もしかして潰れているんじゃないかと思ったからです。走って家の前まで着くと、家は潰れておらず、周りの家も特に変わった様子も、パニックになった様子も無く、とりあえず安心しました。息を切らして玄関に立っている私に、近所のおばさん達が外で花に水やりをしていて、「落ち着いて。大丈夫だから」と声を掛けてくれました。それにも安心していざ家の中に入ると、祖母は普通にお茶を飲んでまったりしていました。「大丈夫だった!?」「私は大丈夫だよ~」みたいなやり取りをして一安心しました。祖母は昼寝をしていて、突然揺れて飛び起きたようでした。そして、テレビのニュースを見て、祖母は顔を青くしていました。被災地の宮城県の悲惨な津波の速報でした。宮城の被災地は、祖父母の故郷でした。祖母はすぐに実家に電話を掛けましたが、通信が混雑していて繋がらず、何度も何度も掛けて、ようやく掛かりました。どうやら、被害が少なかった一部の地域に住んでいる親戚は無事で、なんとか電気も水道もガスも問題無かったようでした。しかし、祖母と唯一連絡が取れなかった祖母のお姉さんがいました。どうなったか分からずにその日は終わりました。一方、家の二階にいた母は、テレビを見てただ茫然としていました。「うわー……ちょっと信じらんない……これ本当に日本なの……?」と信じられないという顔をしていました。母は地震があった時、パートの出勤前でした。部屋でテレビを見ていると、緊急地震速報が表示され、部屋にあったシェルフが倒れないように押さえていたみたいで、特に凄く揺れたという感じではなかったようです。住んいでる地域の地盤が硬いらしく、実家はそこまで揺れなかったようでした。そして母は出勤していきましたが、もう店は閉店との事ですぐに帰ってきました。暫くして祖父が囲碁集会から帰って来て、祖母とテレビを見て唖然としていました。実家に電話してみるも、連絡が取れずにいました。祖父母はずっとテレビを見ていました。もしかしたら流されたかもしれない。そう思い、ずっと電話を掛け続けていました。私は少し落ち着いたところでニュースを見て、大変な事になってしまっていると認識し、何故か焦る気持ちでいっぱいいっぱいになっていました。父は会社で働いていましたが、ビルの高い階にいた為、大きな揺れに非常に驚き、家や母に電話をしていたようですが、繋がらずに困っていたそうです。仕事は地震後すぐに終わりとされ、帰る事になりました。しかし電車は止まっており、タクシーを使おうにも道が混んでいて使えず、仕方なく会社の自転車で帰ってきました。5時間掛けて。そしてテレビのニュースを見てやはり開いた口が塞がらない状態になっていました。九州にある父の実家から電話が掛かって来て安否確認をされました。大丈夫と伝えていましたが、2時間くらいずっと向こうの家族と電話で話していました。また、従妹弟達家族が東京におり、その確認もしました。特に問題無く過ごしていたそうでした。一方兄はというと、当時大学生で、友人宅でオールして遊んでいて、昼過ぎにそろそろ帰ろうとした時に地震が起き、急いで家に帰ったそうでした。私より早く帰っていた記憶があります。家族が全員揃ったのはその日の22:00過ぎで、とりあえず一安心しました。

土日を挟み、月曜日。学校があったので登校する事に。一応電話をして登校するべきかどうか確認を取ろうとしましたが、回線が混んで出ず。学校のHPを確認しても休校にはなっておらず、行かなければならないのかと思い、最寄り駅まで向かいました。すると、そこでは異常な光景が繰り広げられていました。長蛇の列。隣駅まで続いているのではないのかというくらいの長い列が駅に人が並んでいました。何列あったでしょうか。7~8列程の列がとにかく遠くまで並んでいました。駅員さんに聞いたところ、もうこの列が何時間も続いているとの事で、復旧の目途が付かない状況にありました。どうしようかと思ってただ佇んでいると、後ろから声が聞こえました。「河野君!」高校の友人のA君でした。普段はバス通学をしていたのですが、バスが動かないので電車を利用しようとしたところで、私と同じく途方に暮れていたところでした。「もうこれ帰るか」「そうだな」そう言って、我々は駅を後にして帰りました。道中、二人はそれぞれ家に携帯電話で連絡し、帰る事を告げました。お互いの家は「良いから帰ってきな」と言い、お言葉に甘えて帰りました。そしてもう一度、一応学校にも連絡してみると、今度は繋がり、向こうでは先生達が電話対応に追われて天手古舞だったそうで、疲れが声からして分かりました。二人は欠席すると伝えると、「むしろ来るな」と言われました。「先生達もお疲れ様です」そう伝えて電話を切りました。そして家に帰り、昨日では放送されなかった津波と原発の情報を見て、もう日本は終わりなんじゃないかと内心思っていました。それから二日後、学校は休校になり、家で待機していました。一方、父はスクーターで東京まで通勤していましたが、もう限界を迎えていました。とにかく大変だと。道が混んでいるのもあってストレスなのもあるが、何より座りっぱなしで片道3時間以上バイク通勤なのはもう体力的にも精神的にも無理だと言っていました。そして兄は大学が春休みに入っており、自宅でニュースを見てました。家に帰ると、祖母が電話をしていました。それは前に描いた唯一連絡が取れなかった祖母のお姉さんでした。無事、救出されて避難所にいるとの事でした。家は流されてしまいましたが、命が助かっただけマシ、と語っていたそうでした。

そして更に翌日、学校は休校ではなく、通常授業を行うとして登校しました。地震に関する事の説明を受けた後、通常授業に戻りました。あれだけ大変な事が起こったのに、すんなり元の生活に戻るんだなぁと呆気に取られていました。

宮城といえば、私が中学時代の修学旅行の行き先が宮城でした。そこでお世話になった方々の安否が心配になり、HPで確認してみると、数名、津波に流されてしまっていました。とても悲しかったです。でも、生き残った方もいる。そう思う事でなんとか安心するように自分に言い聞かせていました。

震災が起きてから一週間後、祖父が家にいて電話を取りました。電話口から聞こえてきたのは行方不明だった、祖母のお姉さんでした。大伯母さんは当時、製紙工場で働いていました。その関連会社がすぐ近くにあり、4階まで上がっていると、地震が発生。降りようにも体力的に限界で、電気が復旧するまで暫く待つ事にしました。しかし、すぐにその希望も断たれる事となりました。津波が押し寄せてきたのです。当時、非常階段にいたのですが、建物の内側から鍵が掛けられており、中に入る事が出来ずにいました。恐怖で胸がいっぱいになっている中、必至で非常階段の手摺りに捕まり、何時間にも感じられる時間を過ごし、やがて津波は引いていきました。そして携帯電話で救助の要請を依頼しました。が、海に投げ出された人や行方不明の人を救助する事を優先している為、元気な方は暫く我慢していてほしいとの事で、薄着で且つ濡れた衣服で一晩、非常階段で過ごしていたそうです。翌日、救助され、自宅に向かいましたが、泥水が二階にまで達しており、家の殆どが使い物にならない状態でした。どうしようか途方に暮れていると、一人暮らしをしている息子さんがたまたまやってきて、避難所に向かいました。しかし、そこではプライバシーが殆ど無い状態で、しかもトイレが不衛生な為、大伯母さんはかなりストレスだったそうです。そして息子さんの計らいで、同じ宮城県でも被災地から離れた所の親戚の家に歩いて向かう事にしました。一時間程歩いた所で、親切な方に車で途中まで乗せてもらい、そこから親戚の家まで歩きました。無事親戚の家に着き、何とか落ち着いたところで私の家に電話し、祖父が取りました。そして買い物中の祖母の携帯電話に祖父が大叔母さんの無事を伝え、祖母はその場で泣き崩れたそうです。

そして震災から一ヶ月後、祖父母は親戚の家に行き、泥等の片付けに行きました。もう家具として使える物は無く、ひたすら泥と使えなくなった家具や衣類や食料等の撤去作業に追われていました。本当に何も無くなってまった親戚の家に、祖父母は唖然としていたそうです。そして車が玄関の前のフェンスに積み重なっており、どうにか片付けたいけどどうにもならずにいると、行政の方が色々調査していました。どうにかならないか尋ねてみると、「持ち主が分かるまでこのままにしておいて下さい」と言われたそうです。それに対して祖母は「馬ッ鹿じゃねぇの?」と思ったそうです。どうせ廃車になるんだからさっさと移動してそこでゆっくりナンバープレートを纏めてから連絡とれば良いじゃないか、と憤慨したそうです。

 4ヶ月後、夏休みの時に、祖父母の実家と親戚の家がある宮城県に行きました。親戚が駅まで出向いてくれて、車で被災地に行きました。特にボランティアに行く訳でも無く、ただ、見せておきたいという親戚の気持ちに応えて行く事にしました。駅の方は特に変わった様子がありませんでしたが、海に向かうに連れて、人が居なくなって荒れた家や、倒壊した建物が見えてきました。海に辿り着くと、ニュースで見た大きなビルが倒れているのを目撃しました。この目で見るまではこの惨状はテレビの中の出来事、としか思っていませんでしたが、実際目の当たりにすると、背筋が凍りました。そして近くにあったコンビニに行ってお茶を買いました。津波に巻き込まれたというのに、すぐに復旧して、誰も居ないのに営業している。そんな寂しいコンビニでした。おつりを募金箱に入れて、その場を後にしました。

オチらしいオチはありませんが、これが当時の私の心境でした。この地震と津波、その他諸々の事で様々な方が犠牲になりました。その方々のご冥福を心からお祈り申し上げると共に、今も苦しい生活をしている、またしていた方々に穏やかな日々を送れる事をお祈り申し上げます。

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