第二話
1929年10月25日
「おいエァンスト起きろ」
ツィータが掌を打ち合わせるとともに呼びかけた声で、エァンストの浅い眠りは終わりを告げた。薄目を開けて見渡すと、すでに他の利用者の姿はなく部屋に残るのは二人だけだ。
「あれ、おやじは?」
寝起きではっきりしない声で問いかけると、
「一旦家に帰って様子見するらしい、私らは無理だった時のために小銭稼ぎするぞ」
そう言うとツィータはエァンストの左腕を両手で掴み引っ張り上げた。
「というか、なんでお前は俺らに協力してんの?」
薄暗い階段を軋ませながら二人は話す。
「いやぁ。あれ半分くらい私のせいかなあって思って、さすがに何もしないのも後味悪いし、」
居心地悪そうに顔を逸らしながら、もごもごとツィータは答えた。
中庭に出るとゴミ置き場の悪臭と引き換えに陽の光が差してきた。曇り空で遮られているが、カーテン閉め切った過密寝床よりだいぶマシだ。
「そうか。なんか仕事のアテでもあるのか?」
「いや、特に。とりあえずスタンプ所周りうろつこうと思う」
失業給付のスタンプ所には失業者の他に早急の求人も集まる。手軽に人手が集まるからだ。
「んじゃ、そこ行くか」
クロイツベルク北東部、普段エァンストは来ることのないスタンプ所は古い建物で、通りに面して「職業安定所クロイツベルク分室」とだけ書かれた簡素な看板が掛けられている。今日は中には用はない。外にたむろしている職業紹介所の客引きや、求人票を出すほどでない仕事を持ちかける口利き、それらを利用する失業者たちの噂話、これらを求めてやってきた。
「あそこはダメだ。金踏み倒される」「おい見たかこのニュース」「家具運びやりたいものはいないか」
彼らは銘々に話し呼びかけ、あるいはビラを配り、あたりは喧騒としていた。
「今日はやけに騒がしいな」
あいにくエァンストには普段の様子はわからないが、確かに騒々しく感じられる。
「おいお前ら見たかこれ」
背広に膝丈の外套を羽織り、フェルト帽を片手で押さえた男が二人に駆け寄って新聞を押し付け問いかけてきた。失業者にしてはそれなりに身なりが整っている。まだ日が浅いのだろう。
「いきなりどうした」
「急に何」
「いいから見てくれ」
渡された新聞には一面上部に「ウォール街の相場暴落」と見出しが掲げられている。副見出しには「記録的出来高、ティッカーは80分遅れ、取引所閉鎖を検討、50ドルを超える下落」とある。
「ニューヨーク証券取引所は今日、その歴史上でも最も暗い日の一つを経験した。取引開始から二時間目に、新たな巨大な売りの波が押し寄せ、株価を前日水準よりはるか下まで押し下げた。このため、取引所の有力会員数名が取引所理事会に対し、ただちに取引所を閉鎖するよう要請した。」
エァンストが本文冒頭を口にした後、
「えっと、つまりどういうことだ」
ツィータが新聞を覗き込んで疑問を漏らす。
「資本家たちがバカ負けしたってことさ」
男はそう言ってエァンストから新聞を奪い取ると、興奮した様子で経済面をめくり指差した。そこには「今のところ確かなのは、今日、数十億ドルに上る損失が発生したということだけである。」とあった。
「マジかよ、ファッキュー上流階級。ざまあねえな」
「これ、ドイツにも影響あるんじゃないか」
意気揚々のツィータとは違ってエァンストは浮かない。
「ウチの資本家も損するってことだろ。いいじゃねえか」
「そしたら景気悪くなるだろ、いつまでも職に就けなくなる」
「マジかよ」
会話する二人に割り込む形で、男は自信満々に新聞を見せる。
「いいやそうとは限らない。ほらみろ」
そこには「問題は、このニューヨーク証券取引所の暴落が、ほかの全ての世界市場にどのような反作用を及ぼすかである。アメリカの投機筋も、いまやヨーロッパの投機筋と同様に、追加証拠金の差し入れを迫られている。したがって、主として持高を抱えている世界各地の市場、とりわけロンドンとパリで、保有証券を売却することに疑いの余地はない。ドイツにおける売却は、比較的小規模にとどまるとみられる。」とある。
「そりゃ多少は影響あるだろうが、そんな気にするほどじゃねえ。ドイツの資本家も損しただろうが、ドイツ経済への打撃は弱い。ネガティブにならずにユダヤ人の失墜を喜ぼうぜ」
と言ってグッドラックの構えのまま後ろに振りかぶり、背後の人だかりを親指で指した。そこでは路上で朝っぱらから失業者たちが酒瓶を持ち手を振っていた。
ユダヤ人資本家の失墜、昨日のヴィルヘルムの言葉が思い起こされる。ウォール街のユダヤ人が損するということは、ドイツ経済に投資している奴らが損をするということだ。果たして本当にそんなうまくいくのだろうか。エァンストには手放しで喜んで良いのかわからない。
「タダか、飲んでいいのか?」
酒瓶を見てツィータは目を輝かせる。エァンストとは対照的だ。
「おい待て、小銭稼ぎはどうした」
「タダ酒も小銭稼ぎみたいなもんだ。ほらお前も行くぞ」
そう言ってエァンストを掴み駆け出した。エァンストも引きずられないように駆け出した。
「かんぱーい」
「で、朝っぱらから飲んでたと」
公園のベンチに座り酔いを覚ましていた二人を、おやじは呆れたように見下ろしている。
「面目ない。本当はちょっとした日雇いでもするはずが、」
「まあいい、それよりこっちの話だ。説得は失敗に終わった。というわけで俺たちは今後しばらくの生活を確保しなくちゃいけねえ」
あっけらかんと言い放った。
エァンストが意気消沈し言葉にできない間にツィータが問う。
「どんな様子だったんすか?」
「もうカンカンだ。俺だけじゃねえ、エァンストが働いてないのにも思うところがあるらしい」
膝に手をつき勢いよく立ち上がり
「はあ、俺だって好きで無職なわけじゃねえ。経営不振がなきゃ働いてらあ」
と食ってかかる。
「俺じゃねえ俺じゃねえ。落ち着け、俺に八つ当たりするな」
酒で火照った身体が余計熱くなるのを感じる。一方頭だけは妙に冷え切っていた。母への怒り、ヴィルヘルムの言葉、今朝の大暴落のニュースが頭の中でぐるぐる回り冴え渡っている。今後の生活、行きずりのツィータ、将来の不安への答えが明瞭に指し示された。
「突撃隊に入ろう、制服支給、福利厚生、ほらツィータも行くぞ」
「えぇマジで入るの?あいつら絶対やばいって」
昨日の酒場の目の前まで来て、ツィータがぐずる。確かに窓ガラスが割れているが、突撃隊に入ることができれば、ツィータの今後の生活も改善されるはずだ。
「ツィータちゃんもこう言ってるし、まだやめといた方がいいんじゃないか?」
おやじも説得に加わるが関係ない。
「いいから行くぞ、絶対これが一番いい」
それを聞いてツィータは呆れたように心配する。
「お前疲れてるんだよ、寝不足で酒飲んで不安で。一度戻って落ち着こう」
エァンストの袖を掴み後ろに引っ張るが甲斐なく、内から酒場の扉が開かれ昨日のヴィルヘルムが姿を現した。
「おお。フリッツ君エァンスト君来てくれたんだね。歓迎しよう突撃隊に。さあ入った入った」
誘導されるままに入っていくエァンストの後をツィータとおやじもついて行った。店内は相変わらず薄暗く、褐色シャツの集団が奥の部屋を占拠している。
「紹介しよう新入りだ。金髪の方がエァンスト君で黒髪の方がフリッツ君だ」
ヴィルヘルムはそう言って屯してる隊員に呼びかける。隊員たちも銘々に盛り上がる。
「よー、これから頼むな」「よろしく」などなど。
「あー、フリッツはスタンプ代行の偽名で、」
目を逸らしながらツィータが口にすると、
「そうかそうか、それで本名は」
皆の注目が一斉に集まった。新入りに興味津々なのだ。
「ツィータ、ツィータ・ドンナー」
寄せられる視線に諦めたように表情暗く名乗った。
「おー、女か。しかしそれは困ったな。突撃隊には男しか入れないのだよ」
それを聞いて途端に晴々とした表情で
「え、そっすか。じゃあ仕方ないっすねえ。それじゃ私はこの辺で」
出口に向かって足を進める。
「あーいや待ってくれ、ちょうどこの間店主が女中を雇おうか悩んでたはずだ。それなら我々に協力できるし、当然給料も支払われる」
ツィータの歩みが止まった。抵抗するような硬い動きで振り返ると顔を顰め首を傾けうんうん唸った後に
「給料ってどれくらいっすか?」
「うーん確かなことは言えないが、少なくとも70マルクに賄い付きだ」
「働きます」
決して高いとは言えない額だが、ツィータはあっさり陥落した。
「それで、その後ろの方は?」
おやじを指差し尋ねてきた。
「エァンストの父です。息子を仲間に入れていただいてありがたい限りですが、今日のところは一度お暇させていただければなあと」
「おや?その腕は」
「あーこれですか、傷痍兵ですよ」
「ということは大戦帰り」
にわかに褐色シャツが色めき立つ。席でぐだぐだと飲んだくれていたところから慌てて立ち上がりおやじに近づいた。
「マジっすか、カッケーすね」「どのくらいの間前線に」「塹壕の感想は」
「いやいやえー、そんな言われても何も出ないよ」
意気揚々席に向かい心底嬉しそうに隊員に向けて語り出した。
おやじも陥落した。
「じゃあエァンスト君こっちに来てくれ、制服を渡そう」
個室の外メインホールを抜け左手にコート掛けのある通路を進む。奥には地下室への階段があった。
「ここは元々ボウリング場でね、ずいぶん広いスペースがあるんだ。そこを店主の御好意で使わせてもらっているんだ」
薄暗い地下室には煤けた天井から裸電球が吊るされていて、異様な雰囲気を醸し出している。階段脇には石炭やビール樽、木箱などが積まれている。店の備品だろう。ボウリング場の面影は細長い空間としてしか残されていないが、その細長い空間の奥、長卓やベンチが設置され雑然と木箱の置かれた場所にヴィルヘルムは案内した。
「ちょっと待っててくれ」
そういうと木箱を漁り出し中から茶褐色のシャツとネクタイ、同色の太もも部分が膨らんだ乗馬風ズボン、円筒形のケピ帽に、一体式のショルダーベルトと腰ベルト、黒い長靴と、赤地に白丸その内に鉤十字をあしらった腕章を取り出しテーブルに並べた。長靴は床に置いた。
「さあこれが我々の制服だ。どうだ、着替えてみて皆に披露しよう」
そう言われエァンストはそれまで着ていたボロコートのボタンを外し脱ぎ始めた。
着替え終えたエァンストが上に戻ると、ツィータも女中姿になっていた。くすんだ深緑のワンピースを肘までまくり、上に白い生成りのエプロンを被っている。足にはストッキングを履いていた。
「おーエァンスト、意外と様になってんな」
「お互いにな」
奥の席ではおやじの話を隊員たちが聞いているようだが、その内の三人が立ち上がった。
「じゃ、俺らはエァンストと行ってくる」
「おう。ポスター貼り任せたぞ」
そう言って店の表に出て行った。
「ほらエァンスト君も」
「えっと、これは?」
「働いている奴らが集まるのにはまだだいぶ時間があるから、それまで我々の活動に加わってくれればと思ってな」
ポスター貼りの一人がそう答えた。
エァンストは言われるがまま同行した。
「いってらっしゃーい」
ツィータが大声で呼びかける。
「それじゃ君も研修があるからね」
横から店主が話しかけた。
南中前に始まったポスター貼りは、西の空に陽が傾きやや赤みがかる頃に終わった。通りに面した建物の壁面や建設現場の囲いに、バケツに入れたのりをはけで塗りその上からポスターを貼る。もちろん無断だ。そのためバケツ持ちとポスター貼りの二人以外で周囲を警戒する。共産党や社会民主党のポスターの上に被せて貼ることも多く、よく目立つ大文字で書かれたポスターを貼り、自分たちのエリアを取り合う様は、上から見ると色塗りのようだ。
赤いベルリン、とりわけ労働者地区が集まりひときわ濃く染まったクロイツベルクを、小さな茶褐色の染みが徐々に浸食していく。
この赤色地区の相互監視の村社会は、母にも深く根付いていた。少し落ち着いて冷静に考えると、突撃隊に入るのはヤケになっていたのだろう。しかし求職状態が否定され、居処悪く母の下に帰るよりかは、ずいぶんとマシに思える。ポスター貼りの傍ら聞いた同年代の隊員たちの境遇も大差ない。皆なんらかの理由で職にあぶれ居心地悪く、あるいは寄るべもなく、酒場に集まり仲間と騒げる突撃隊に入っているだけだ。ヴィルヘルムのような根っからの主義主張で加わったものは珍しいらしい。
酒場に戻ると時計の針は17時過ぎを指していた。仕事終わりの隊員たちも徐々に集まりだし、女中姿のツィータは忙しなくホールを駆け回っている。
「お、お前が新入りか」
その内の一人、やや年嵩のカイゼル髭を蓄えた隊員が話しかけた。
「エァンストって言います。以後よろしくお願いします」
「そんな畏まってないでこっちで飲もうぜ」
別の隊員が酒瓶を振って呼んだ。それを聞いてポスター貼りの隊員たちが飛び出した。エァンストも席に向かった。
「おじょうちゃーん、ビール四つ」
「はいよ、ちょっと待ってね。はいお待ち」
ツィータがドタバタと慌ただしく盆に乗せたビールを持ってきた。
「Heil Hitler!」
「Sieg Heil!」
乾杯の音頭と共にジョッキを打ち鳴らし、ポスター組も宴会に混ざった。
19時過ぎ、店内はSA隊員たちで賑わい、わずかにいる一般客も皆シンパだ。ヴィルヘルムがエァンストたちの席に来た。
「さてエァンスト君、今から行進の時間だ。我々の班で集まろう」
宴会の中で受けた説明によると、エァンストたちは二七中隊というらしい。その下にはいくつかの小隊があり、小隊は班に分かれる。ヴィルヘルムのような活動熱心な隊員が班長として十人ほどの仲間を率いるのだ。
他の班も次第に地下室へくだっていき、店内は閑散としてきた。先のポスター貼りのメンバーを含むヴィルヘルム班も地下に向かった。細長い地下室に隊員たちが列をなして並び、前列には音楽団が集まっている。先頭では台に乗った威厳ある男が隊員たちの様子を見渡していた。
「あれが中隊長だ」
ヴィルヘルム班も隊列に加わった。
「注目、本日の我々の任務は酒場を出てすぐ北の通りを西へ進み、北に曲がってリンデン通りに入る。その後オラーニェン通りを南東に進み酒場に戻ってくる、至って単純な行進だ。アカどもに我々の威容を見せつけるぞ。Heil Hitler!」
中隊長の演説が終わると隊員たちも叫んだ。
「Heil Hitler!」「Sieg Heil!」
「出動!」
中隊長に率いられ、先頭のものから順々に地上へと向かった。三十人ほどの足音が地下室に鈍く響いた。やがてエァンストたちも階段をのぼった。
「いってらっしゃーい」
ツィータが元気に手を振っている。奥の席でおやじも机に突っ伏しながら空袖を振っている。隊員たちは右腕を斜めに突き出した、エァンストも同様に敬礼した。
店外に出るとすでに陽は沈み真っ黒な夜空に光り輝く街並みがよく映える。高揚感とアルコールの熱気が、冷たいベルリンの街風から身を守ってくれる気がした。
雑然としかし概ね揃った足音が、仕事帰りの人々の注目を集める。次第に通りに面した窓からも異変に気づくものが現れだし、パラパラと罵声を浴びせかける。
「出てけ国社の不良ども」
「ヒトラー党の犬どもめ」
それに対し隊員たちも声を上げる
「うるさいアカどもぶっ殺すぞ」
「ここは我々の場所だ、黙って引っ込んでろ」
これまで外から遠巻きに見ていた隊列の中に自分がいる。まさに暴力的だと白い目で見ていた抗争の真っ只中だ。
隊列はまだ微かに赤い西の空へまっすぐ進む。駅や運河、工場で働いた仕事帰りの労働者たちから冷たい目で見られながら、時折罵声を浴びせられ、中には礫を投げる者もおり、それでも威風堂々と茶褐色の隊列は崩れることなく西へと進む。
やがて労働者地区を抜け歓楽街に近づいた。今いる表通りは大したことないが、一度脇道に逸れると映画館、劇場、ダンスホール、ビアホール、コンサートカフェなどなど立ち並ぶ大衆向けの繁華街だ。一方その中には売春宿や隊員たちのいう変態酒場が混ざり、さも当然のごとく営業している。
「儲かってるか、売女」
歓楽街に入っていく露出の多い女に隊員が笑いながら呼びかけた。
「売女じゃない。そんな下品なこと誰がするか」
「じゃああれか、ホモだなさては」
また別の隊員が言った。隊員たちの愉快な笑い声がこだまする。女は何も答えず振り返り、歓楽街へと走った。
隊列はリンデン通りで北に入り、その後オラーニェン通りを進む、歓楽街を外回りする形だ。隊員たちは道中何人かに絡み笑いながら進んだ。歓楽街の楽しげな雰囲気に当てられ、隊列もいささか緩んできた。エァンストも何か言おうと思ったが、口の中がカラカラに乾きうまく言葉が出ない。存外緊張しているらしい。
「ユダヤ資本の百貨店。いつかぶち壊してやる」
隊列の正面でギラギラと眩い光を放つ巨大百貨店めがけて叫んだ隊員がいた。
「ここを抜けたら労働者地区だ。そろそろ気をつけろー」
また隊列は罵声と投石を浴びながら進軍し、Wiener Garten、元いた酒場に戻ってきた。ここにきてエァンストはようやく肩の力が抜け、席に崩れるように座った。
「お疲れー」
ツィータが笑いながら水を運んできた。
「今晩の寝床だけど、地下室貸してくれるってさ」
あの家畜小屋以下の寝床と比べたらなんだって天国だ。隊員たちがそれぞれ任務成功を祝って酒を飲み交わす中、エァンストは地下に下り、床の隅に布を敷くと、倒れるように突っ伏した。




