第一話
この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません
この物語は、差別的な発言・行動を容認・推奨するものではありません
1929年10月23日
「ドイツよ目覚めよ!Sieg Heil!」
「Rot Front! Rot Front!」
ザッザッザッザと石畳を高らかに踏み鳴らし行進する褐色シャツの隊列に、通り中の窓から罵声が浴びせられる。
「とっとと出てけ、国民社会主義党の犯罪者共!」
「全体主義に立ち向かうぞ!クロイツベルクはまだアカのままだ」
植木鉢やレンガ、ビール瓶や石の降り注ぐ甲高い音と、窓から突き上げられた拳の「Rot Front!」の掛け声が通り中にこだました。
隊列の先頭からは、足踏みと同じ四拍子のドラムの音が低く響き、小太鼓のドラムロールや笛の音色と重なり合っている。時折トランペットが高らかに鳴り、隊員たちが威風堂々と「Heil!」と叫んでいる。
隊列の行く手は木箱や手押し車、屋台や敷石で築かれた即席のバリケードに阻まれている。ピタリと音楽が鳴り止み、罵声とガラスやレンガの割れる音がよく目立つ。
「ドイツよ目覚めよ!Sturm! Sturm! Sturm!」
「Sturm! Sturm! Sturm!」
その掛け声と共に隊員たちはバリケードに突撃し、ピッケルや手斧、鉄パイプで破壊し始めた。カンカンと金属音が鳴り響く中に、パァンと空気が弾ける音が混ざっている。ピストルを使い出したのだろう。硝煙だけにしてはやけに煙いので、発煙筒や火炎瓶も投げ込んでいるようだ。
はあ、これはしばらく帰れないな。
仕事帰りの青年エァンストはため息をつくと大通りへと引き返し、ノロノロと西に歩き始めた。大通りの真ん中では黄色く染まった並木の間を、ゴロゴロと響く低音で街を震わす路面電車が通り過ぎた。
ここはベルリン、イカれた街だ。
街中の至る所で政治団体の抗争が巻き起こり、死者が出ることも珍しくはない。怪我人が出ることはもはや日常に過ぎず、何人逮捕してもキリがない。
特に過激なのが、国家社会主義ドイツ労働者党の突撃隊と、ドイツ共産党の赤色戦線戦士同盟の二つだ。突撃隊はアカの牙城である労働者地区で挑発的な行進を行うことで暴力沙汰を引き起こし、党に人々の注目を集めている。赤色戦線戦士同盟はこの間のメーデーで約8,000人がデモに参加し警察と衝突したことで公的には解散したということになっている。だが労働者地区の大多数はいまだに合言葉の「Rot Front!」を唱えて突撃隊と衝突しており、赤色戦線戦士同盟自体の残党も非合法に活動を続けていた。
他にも鉄兜団などの武装組織は多数存在し、その多くが11年前から始まった共和国を否定している。共産党以外は皆、強いドイツ、帝国を求めており、黒白赤の帝国旗を掲げていた。
こうした反共和国勢力に対抗するために、ドイツ社会民主党・中央党・ドイツ民主党も黒赤金国旗団という共和国旗を掲げる武装組織を保持しており、度々反共和国組織とぶつかっている。ベルリン市議会の連立与党にして、ドイツ国会の連立与党ですら、武装組織を抱えているのだ。この街は本当にイカれている。
西の空を見るとすでに紅葉のように赤く染まっている。日没までに家に帰れるだろうか。
日が暮れても武装組織の抗争は収まるどころか闇討ちが流行っており、それぞれの常連酒場を拠点にして襲撃をかけている。
エァンストの家は共産党の常連酒場と通りを同じくするため、毎日のように起こる騒動に嫌気がさしているのだ。
歩道に転がった小石を蹴飛ばすとオフィス帰りのスーツ姿の男の足元を通り抜け、カーンと小気味良い音を鳴らし柵にぶつかった。
エァンストがこのいかれた街に不満があるのはそれだけじゃない。日が暮れるとダンスホールが始まるのだ。ユダヤ人や黒人の忙しない演奏に合わせてダンスを踊り酒を飲む、というのが建前になっているが、その裏では売買春が蔓延っている。酒と踊りと音楽で昂ると、警察の巡回を避けるために裏口からラブホに向かうのだ。何より厄介なのは集合住宅の空き部屋がラブホとして使われていることだ。法的には家具付き下宿という建前になっているが、利用時間分の家賃を払うことでヤリ部屋と化している。本当にいかれてる。幸いエァンストの隣室はラブホではないので壁の薄さに悩まされることはないが、ボディラインがはっきり見え露出の多い下品なドレスにギラギラと目に痛いほど飾り付けた香水とアルコール臭い売春婦に、集合住宅内をコソコソ使われるのはシンプルに不愉快だ。売春婦だけでなくホモが跋扈するキモいダンスホールも珍しくない。そもそも売春婦やホモに限らず、平日の深夜まで踊り狂える生活をしているのがむかつく。くそ、オフィスワーカーどもめ。どうせ「昼間はこんな退屈な仕事。でも夜だけは、キラキラ光輝く眩しいネオンの下でだけは、」とか思ってるんだろ。お前らが酔っているのは酒でもダンスでも黒人やユダヤ人の音楽でもなく、モダンぶってる洒落た自分だ。
ああくそ、今日はやけに腹が立つ。きっと日雇いの公園整地で疲れているからだろう。エァンストもついひと月前までは工場の正社員を立派に勤めていた。ところが工場の経営不振によりあっという間に失業保険受給者に。この国では給付金を受け取る際に運悪く仕事を紹介されてしまうと、必ず紹介先に向かわなければならない。そうしないと給付金が打ち切られてしまうのだ。そうしてやることになった日雇い公共工事を終え、重たい体を引きずりながら家に帰るところだ。昼間はぬくぬくとデスクワークをし、今頃モダンな自分に酔いしれながら、我が物顔でこの街を闊歩するオフィスワーカーどもへの不満も激しいに決まっている。
東西に延びる大通りからはすでに太陽の姿は見えなくなっており、茜色が地平線の向こう側からこぼれた色水のようにあふれるのみだ。エァンストがため息をつき振り返ると、黒く染まった空にベルリンの街並みがギラギラと輝いて見えた。
そろそろ帰ろう。
路面電車の走る大通りの地下には地下鉄も通っており、この時間になると地上は駅から出てきた人々でごったがえし、ざわざわとした話し声が渦巻いている。集合住宅の前棟に開かれた酒場からはすでにやかましい遠吠えが聞こえた。酒に酔うのはダンスホールに限らないのだ。中には政治色丸出しの旗を掲げる店もあって、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。蠢く雑踏の向こうからは、運河の北を走る高架鉄道のゴォーという遠鳴りがかすかに耳に届いた。
騒々しい雑踏を抜け、家のある通りに戻ると突撃隊はすでに撤収していたようで、窓からいくつもの赤旗がはためいている。後には焦げ臭い煙と転がった瓦礫が残されており、それは集合住宅の内側も違いはない。
通りに面したゲートをくぐり、石炭やゴミ置き場、共同水栓が詰め込まれた悪臭の漂う中庭へと走った。中庭にも窓から投げ落とされた植木鉢の破片が転がっていて、壁には共産党のポスターが誇らしげに何枚も飾られていた。5.3m四方の狭い中庭は正面ゲートから奥へと五つ連なっており、エァンストの家は四つめの中庭を囲む棟にある。
奥に向かうにつれて抗争の気配は遠ざかっていったが、代わりに奥へ奥へと押し込まれた薄暗い貧困の匂いと、相互監視の息苦しさに足取りが重い。棟に入っても踊り場にはいくつものアカいポスターが飾られているようだが、ほとんど足元の見えない集合住宅の灯りではよく読めない。
エァンストは一度ため息をつくと、やはり重い足取りで父と母の待つ三階まで上がった。
踊り場に付いた各部屋のドアの前に立つと、中からはやかましい言い争いが聞こえる。エァンストは再びため息をつくと意を決し、玄関の鍵をガチャリと回しギィっと軋む扉を開いた。
「いい加減わかって、社民党と共産党は全然違うの!あんな暴力的な革命ごっこじゃなくて、民主的なものなの」
「革命で皇帝を追い出したくせにか?ははっ」
母の耳に突き刺さる金切り声と、挑発するような笑い声が襲いかかる。
「おいエァンスト、こいつまたアカどものハイキングに行くらしいぞ」
父が笑いながら話しかけてきた。エァンストが何も答えず黙りこくっていると再び二人の言い争いが巻き起こった。
「あら、何か問題でも?単に自然友の会の日帰りハイキングに行くだけじゃない」
「だーかーら、それが問題だって言ってんだろ!なんで裏切り者のアカどもの登山クラブをやめねーんだ」
「裏切り者って、アンタは前線にいたからわかんないでしょうけど、銃後は配給が足りなくて大変だったのよ。エァンストのご飯も全然足りないし」
チラリとキッチンを覗くと、とくに夕飯の用意がされた様子はない。エァンストは戸棚から黒パンを取り出してそのまま齧ることにした。
「んあ?お前は塹壕がどれだけキツいのかわかっちゃいねえ。前線だってまともに配給されてねえし、こっちは帝国のために命張ってんだ。それをお前」
「前線でも食糧が足りてないってことは、後ろはもっと足りてないの。あのまま戦争続けてもまともに勝てっこなかったのよ」
「黙れ、俺らは銃剣一本でヴェルダンを抜けたんだ。毒ガスで肺が焼け腕も足も置いてきたんだ。それをユダヤマルクス主義が連合国へ献上するためのステーキにしやがったんだ」
そう言って義足をつけている右足を空振りの右袖でパシんとはたいた。頬はガスマスクから漏れたところが爛れており、首筋から口元にかけてゴツゴツした火傷跡が広がっている。フォークを持つ左手には無数の傷が残っている。コートの胸ポケットにはいつも鉄十字章と戦傷章を自慢げにしまっているのをエァンストは知っている。
ふと静寂が訪れた。手持ち無沙汰のエァンストは今の内に寝室のベッドに避難することにした。二人はしばらくの間黙りこくっていたが、やがてまた言い争いを再開した。
1914年、エァンストが6歳になった年、初等学校に入学した年に世界大戦は始まった。それから四年後の1918年11月に革命が始まった。皇帝はオランダに亡命し、社会民主党が臨時政府を発足。連合国との休戦協定が結ばれ、世界大戦は終結した。革命を主導したアカ色勢力も一枚岩ではなく流血を伴う衝突を繰り返し、比較的穏健派の社会民主党と急進派の共産党に分かれていた。その後も右派左派問わず共和国との対決は続き、数年の間混迷が続いていた。連合国から課された莫大な賠償金、フランス・ベルギーのルール地方占領によって、マルク紙幣が紙屑同然になったハイパーインフレーションから経済が復活したのが1923年11月のことだ。
その混乱にアメリカが介入した。アメリカ資本でドイツが復興し、ドイツは連合国へ賠償金を払い、連合国はその金でアメリカへ戦債を返す。そんな循環が出来上がったのが1924年だった。
現在1929年10月23日、まだ世界大戦から10年しか経っていない。長らく続いた混乱期の面影が、このイカれた街をかたちづくっている。父も母もこの急激な変化に戸惑っているのだ。
「いつまでもそんな軍部の言い訳なんか信じて!」
「そっちこそユダヤ人の戯言をなんで信じられる!」
結局二人の言い争いは隣人がドアを叩くまで続いた。
1929年10月24日
まずい、寝坊した。
朝ごはんも食べずに集合住宅から飛び出したエァンストは、昨日抗争のあった通りを走っている。通りは夜のうちに清掃されたようで瓦礫はあらかた片付いているが、ところどころ敷石が剥がれていて、踏み外さないように走る必要がある。家を出る前に見た時計はすでに8時を回っており、正面に見える大通りには人々を詰め込んだ路面電車が街を揺らしている。その下の地下鉄も同様だろう。
大通りを左折し、行き交う人にぶつからないように避けながら走る。視界が白くチカチカと歪み崩れ落ちそうになりながら、もつれる足で地面を踏みしめ走り抜けた。150mほどで辿り着いた交差点ではちょうど車が動き始めたところで、エァンストが走ってきた通りに向けて緑のランプが点灯している。四方全てのランプが赤くなるのを立ち止まり待つ間、膝に手をつき崩れ落ちないようにしながら、荒い息を少しでも整える。走っている時は気にならなかったが、ボロコートの下は汗でぐっしょりと濡れており気持ち悪い。さっきよりも目眩は酷くなっており、視界の端の方からじわじわと暗くなってきた。空っぽの胃から込み上げてきたものを無理矢理飲み込み誤魔化すと、周りの人たちが歩き出し始めた。見上げると信号が全て赤に変わったのが霞む視界から微かに見える。交差点を対角線上に斜めに走り抜けると、行列の後ろが見えた。列の周りには政治団体のビラ配りたちが立ち並び、それぞれ何か喚いている。
この列はファミリーネームの頭文字ごとに四つのブロックに分かれている。エァンスト(Ernst van Hagen)はS~Zのブロックに並びしゃがみ込んだ。
腕で膝を抱え込むようにしながら視線を足下に落とすと、視界が徐々に元に戻り出してきた。深く息を吸い吐き出す。都市ガスの腐ったような匂いがした。
ここはクロイツベルク区役所、列に並ぶのは失業保険受給者。どんよりとしたしみったれた列だ。失業保険受給者は、週三回スタンプを押してもらいに列に並ぶ必要がある。もっとも窓口はここだけではなく週二回はたいして並ばない分室でスタンプを押すだけで良い。ただし週に一度は区役所に行き給付金の受け取りと、運が悪ければ職業紹介を受けなければならない。そして紹介を受けてしまうと、24時間以内に紹介先でスタンプをもらい区役所で提示しなければならない。エァンストが紹介を受けたのは昨日の午前9時過ぎ、なんとかギリギリ間に合いそうだ。間に合わないと数日間の給付停止をくらってしまう。紹介を受けてから実際に働くまでにタイムラグがある場合ならともかく、即日労働で24時間以内はだいぶ無茶なことを言っている。そもそも役所が8時から12時の間しか開いてなくて、列には大勢並んでいる。もう少し現実を見た時間設定にならないだろうか。
エァンストは深くため息をついた。暗く染まっていた視界はもうはっきりと見えていて、荒かった呼吸も元に戻っていた。まだ少し頭が重くフラフラと揺れるが、さっきまでよりも随分マシだ。
「S~Z先頭20人、門に向かえ!」
警官の指示で列が進むのが、靴音でわかった。
立ち上がらないと。
エァンストは目を閉じると一度息を吐き、鼻から深く吸い込んだ。手を膝につき、ゆっくりと口から吐く息に合わせて、力を込める。また少し視界が眩み膝が震えた。
「おい、お前さっさと動け横入りされたぞ!」
突然後ろから怒鳴られた。顔を上げると、フードを被った背の低い男が駆け足で割り込んでいるのが見えた。慌てて立ち上がり一歩前に踏み出し、伸ばした手はフードの男の肩を掴んだはずだった。
ぐらり。視界が歪み端の方から黒く染まる。踏み出した足は想像以上に勢いづいていたようで、霞む視界に地面がゆっくりと近づいてくる。伸ばした手はフードの男の肩を追い越し、そのまま小柄な体を巻き込むように地面に倒れ込んでいった。驚いて振り返った男のフードが捲れ上がり、目元までかかる真っ黒な髪が衆目に晒される。黒髪の隙間から垣間見えるダークブラウンの瞳が大きく見開かれ、口をパクパクさせている。何か喚いているようだが、水の中のように音がぼやけて聞き取れない。意識が遠ざかる中エァンストが最後に見たのは、政敵を押し除け我先にと駆け寄って来る政治団体のビラ配りたちだった。
目が覚めると、黄ばんだ天井に取り付けられた電球の光が瞳に差し込んできた。顔をしかませ呻き声をあげながら周囲の様子を伺うと、どうやら酒場にいるらしい。
薄暗い室内には小卓と椅子がずらりと並び木製カウンターの奥には酒瓶が棚にずらりと並んでいる。奥の小部屋も同様に机と椅子が並び、数人の褐色シャツを着た男たちがジョッキを片手に盛り上がっている。
「あ、こいつ起きたっすよ」
頭の上から声がした。無理矢理視線を声のした方に向けると、さっきの横入り男が椅子に座っていた。
「やあやあ調子はどうだい、エァンスト君」
横入り男とは別の、妙に明るく快活な男の声だ。
「えっと、多分大丈夫みたいです」
エァンストは並べられた椅子から上体を起こしながら答えた。
快活男も褐色シャツを着ていた。横入り男の向かい側に座っている快活男は
「改めましてエァンスト君。自分は突撃隊のヴィルヘルム・ハルトマンだ」と名乗った。
「ほらフリッツ君も」
フリッツというらしい横入り男も、名乗るように急かされている。
「フリッツ・フォスです」
「エァンスト・ファンハーゲンです。よろしく」
エァンストも名乗るとヴィルヘルムは満足げに頷いていた。
「さてエァンスト君、ここでは突撃隊の炊き出しをやっていてね。まあそれを食べながら話そうじゃないか」
そう言われて、昨日の夜からろくに食べていないのを思い出した。
「ありがとうございます。多分倒れたのは腹減りが原因なので助かります」
「おお、それはちょうど良い。すみませーん、炊き出し一人分ください」
ヴィルヘルムが厨房に向かって呼びかけるとカウンター裏の扉からすぐに店主風の男が出てきて、フリッツの横の席に食事を運んできた。
雑多な食材を煮込んだスープと、黒パンだ。
コンソメベースのスープはジャガイモやレンズ豆が具材の大部分を占めており、申し訳程度の刻んだニンジンやネギと、ソーセージやベーコンの切れ端が浮かんでいる。
あくまで余り物中心で煮込んだサービスなのだろうが、家で食べるスープよりも豪勢に感じられる。
口に運ぶと、昨日ぶりのちゃんとした食事に思わずため息が出た。
「満足してくれて良かったよ」
ヴィルヘルムは胸の前で手を組みながらニコニコとこちらを見つめている。
「さてせっかくだ、話をしよう。ああ別に聞いているだけで大丈夫。僕が勝手にベラベラ喋るだけだから」
隣に座るフリッツが少し体をこわばらせた気がした。
「6、7年前のハイパーインフレーションは覚えているかな?いや、覚えていないはずがない。何せマルクの価値が1日で半分以下になっていったのだから。あんなもの誰も受け取ってくれやしない。今どき物々交換なんてやることになるとは思ってもみなかったよ。その後ドイツの経済的困難にアメリカが介入してきたことは知っているかな」
エァンストは、スープをほおばりながらうなづいた。
「おおそれは良いエァンスト君は勤勉だね。アメリカの介入によって、ドイツ経済は無事復興、世界大戦前の水準を取り戻したと言うことになっているのも、もちろん知っているだろう。だが、それは本当だろうか。君もどこかで感じているのではないか。我々の生活はちっとも良くならないどころか、日に日に失業者が増えている。まあ戦後間もなくと比べると幾分かマシだが。
結局のところ、ドイツ経済が復興したと言っても、それは一部の資本家の生活が復興したに過ぎないのだ。アメリカ資本がドイツ経済に流入したと言うのは、単にウォール街のユダヤ人からドイツのユダヤ人に資本が流れただけに過ぎないのだ。そしてドイツに流れた資本は連合国への賠償金として支払われ、アメリカへと戦債を返すために支払われる。その流れの中で、各国に巣食う病魔であるユダヤ人が懐を潤すためのものに過ぎないのだ」
ヴィルヘルムの口調は次第にヒートアップしてきた。わめきたてるようにしゃべるたびに唾が飛んでおり、汚い。ヴィルヘルムは一呼吸置き、ジョッキに口をつけると、またゆっくりと話し始めた。
「エァンスト君、どうしてこのようなことが起きると思う。答えはシンプルだ。一つの国に別の民族が住みついているからだ。国家は家だ。家に住むものは皆家族だ。だが、どうだろう、そこにネズミが群れなして住みついたら。たちまち病が運び込まれ家のいたるところが齧られてしまうだろう。ドイツはドイツ人のものでなくてはならない。アメリカはダメだ。ゲルマン民族だけの国じゃないのが良くないのだろう。黒人やユダヤ人などの劣等民族がそこかしこにはびこっている。先の世界大戦で、ドイツが辛酸を舐めることになったのも、ユダヤ人の仕業だ。エァンスト君、フリッツ君、我々の手で我々のドイツを取り戻さないか」
フリッツを横目で見ると、何とも言えない顔で黙りこくっている。エァンストも出された食事をほおばりながら、黙ってごまかすことにした。
「どうした?二人ともそんなに黙りこくって我々の目的のスケールの大きさに気圧されてしまったかい?いや良いんだ。いきなり我々の全てを理解しようとは言わない。まずは突撃隊に入り、共に市中を練り歩くことで、我々の総合理解を深めようではないか。制服は支給される」
まずい勧誘だ。あいにく、わざわざ街中で殴り合う趣味もない。どうにか丁重に断れないものか。
「突撃隊に入れば、パンとシチューとジョッキ一杯のビールに格安でありつくことができるのだ。少しは興味が湧いたかな」
すでに食べたのだから入れということか。ここで無理に断って、暴力集団に目をつけられるのも、それはそれでめんどくさい。毎週失業保険受給の列で出会してしまう。失業給付の列、エァンストはふと思い出した。列の途中で倒れた自分はまだ、スタンプを提示していないことに。すでに24時間は過ぎているだろうが、なるべく早い方がペナルティーも小さくて済む。ちらりと柱時計を覗き見ると、時刻は10時を指していた。受付にはまだ間に合う。
「すみません。今から役所に行かなくてはならないので、その話はまた後日にして、今日のところはここでお暇させていただいてもよろしいでしょうか」
「まぁまぁまだ食べてる途中だし、それがなくなるまでいてくれても良いんじゃないかな」
机の上の炊き出しを指差しながら笑った。
パンとシチューは、まだ三分の一ほど残っている。ビールにいたっては、ほとんど口をつけていない、さすがに真昼間から飲む気にもなれない。
ガタンと大きな音を立てて、フリッツが立ち上がった。
「自分も役所に用があるので、失礼します」
早口で、そう言い切ると横からエァンストのパンとシチューを奪い、食べ出した。
エァンストもヴィルヘルムも目を丸くして驚いている間にビールで一気に流し込んだフリッツは、エァンストの肩をつかみ、「ほら、さっさと行くぞ」とグッと引っ張った。
我に帰ったエァンストは、ヴィルヘルムや奥の突撃隊の面々が面食らっている間に立ち上がると、フリッツに引っ張られながら出口に向かった。
「今日は助かりました。ありがとうございます。急いでいるので失礼します」
そう言い残し酒場のドアを開いた。外から差し込む光は、むき出しの裸電球に照らされた薄暗い室内とは違い、まぶしいほどの輝きを持っていた。二人は外に出ると、一目散に駆け出した。先導するフリッツにエァンストがついていく形だ。
「ここは、ゲルリッツァー駅か?」
ゲルリッツァー駅、南東の国境へと向かう列車の出発駅だ。まるで要塞のような威圧感のある駅舎がよく目立つ。さっきまでいた酒場は通りを挟んで駅と向かい合う位置にあった。
「ああ、あいつらわざわざ病人の介抱だって言い張って、運河の北まで電車に乗って運んできた」
役所のあるクロイツベルク区の南西から、ゲルリッツァー駅のある区の北東まで3~4キロは離れている。
やはり勧誘を断って正解だった。炊き出しはありがたいがいくらなんでも異常だ。別に役所の近くにも横になれる場所はあるだろうし、頼めば残飯ぐらいは出してくれるだろ。大方政治団体の救済勝負に巻き込まれたんだろう。あそこには、突撃隊の他にもビラ配りたちが待ち構えていた。
「悪い、さっきは助かった」
「気にすんな。ただ飯にもありつけたしな」
やがて、高架鉄道の駅が見えてきた。食後に走ったからだろうか脇腹が痛い。フリッツの走るペースも落ちてきていた。あれだけ、一気にかき込んだのだから当然だろう。
「とりあえず高架線で西へ行って、南北線に乗り換えるぞ」
そう言うと、フリッツは走るペースを上げ駅に向かって行った。
「ぜー、はー、了解」
息を切らしながら答えた。エァンストはフリッツに置いてかれないようにするので、精一杯だった。
明るいオレンジ色の木目の車内に大窓から差し込む日の光が少し眩しい。通勤ラッシュ後の高架線は混んではいないが木製の座席は全て埋まっている。二人は吊り革を掴み、電車に揺られていた。決して背が高いわけではないエァンストでも吊り革の上のパイプを問題なく掴むことができるが、フリッツは吊り革を掴むのすらギリギリだ。ずいぶんチビだと思っていたが、ここまでとは思わなかった。
「あー、そういえば、エァンストお前倒れてる間にスタンプカードみられてたぞ」
「まじかよあいつら絶対面倒じゃん。というかフリッツお前は大丈夫なのか」
「平気平気。スタンプ代行だから。渡した個人情報は全部他人の」
失業保険の受給には顔写真の提示などは必要ない。髪や瞳の色など外見の特徴が似ていれば、他人に代わりに列に並んでもらうのも可能なのだ。もちろん不正受給だが。
「黒髪黒目だと代行相手あんまいなくてさー、今回のやつともこれでおさらばかな?」
「ふーんじゃあフリッツは偽名なのか、なんて呼べばいい?」
するとフリッツ(仮称)は何やらモジモジしながらつぶやいた。
「なんて?」
「本名はツィータ。ツィータ・ドンナー」
「お前女か、やけに背が低いと思ったら」
言われてみると眉骨が出っ張っておらず、目元が明るい。それに髭も生えていない。くぐもったような声は、意識的に声を低くしているからだろう。しっかりと袖を捲らなければいけないダボダボのコートも身体のラインを誤魔化すためだろうか。
「なんだよじっとみて」
エァンストが考え込んでいると、口を尖らせたツィータが声をあげた。背の低いツィータがエァンストを見上げる形だ。懸命に吊り革に伸ばした腕からつま先までピンと伸びており、プルプルと震えている。
「あー、俺に掴まるか?」
「うるせえ、誰が掴まるか。背低いのなんてみりゃわかんだから、女ってわかる前からとっとと手貸せばいいだろ」
「だから今手を貸すと」
「いらねえ」
ツィータはそう言うと相変わらずピンと張った身体を震わせながら、エァンストから視線を逸らすため下を向き黙り込んだ。捲し立てる勢いに面食らったエァンストは口をパクパクさせても言葉が続かず、こちらも黙り込んでしまった。
突然の怒りは、その先紡がれるはずだった言葉をかき乱し、エァンストの口からは「ああそう」と一言だけこぼれ落ちた。
静まり返った車内ではチラチラとこちらの様子を盗み見る視線が集まっている。ツィータのでかい声が注目を集めたのだろう。エァンストは一度深く息を吸うと、目を閉じてガタンゴトンと一定のリズムを鳴らし走る電車に身を委ねた。明らかな善意が踏み躙られた怒りも、線路の継ぎ目を越える時の振動が落ち着けてくれた。
不意にボロコートの裾が小刻みに引かれる。エァンストがハッと目を開けるとツィータがチョイチョイと引っ張っていた。
「なんだよ」
「やっぱり掴ませろ。吐きそう」
あれだけの量を一気に胃に流し込んだのだから当然だ。
「おい。吐くなよ。ここで吐かれると駅員への事情説明で役所に間に合わない」
ツィータは小さく首を縦にふった。
二人の前の席に座る釣鐘帽子に暗いワンピースとコートを纏った婦人は、買い物帰りだろうか膨らんだハンドバッグと、つま先だけが妙に磨かれたローヒールを自身の方に引き寄せた。
二人の隣に立つフェルト帽を被ったスーツの男は、身なりに似合った小綺麗なコートを汚してなるものかと距離を取ろうとしたが、周囲が人に囲まれていて身を捩ることしかできない。
そのスーツ男の後ろ、くすんだ色のくたびれたオーバーコートの男は、ボロボロの革靴の間に置いていたコレまたボロボロの麻袋を手に取ると肩まで持ち上げた。
皆一様に二人の様子に目を向けていた。
「グボ」胃から押し出されるような音がして、車内には一気に緊張が走る。
「おい、マジで頼むぞ。こらえてくれ」
再び地響きのような低い音がした。ツィータは頬を膨らまし、明らかに口に含んでいる。皆極力自分にだけはかからないようにと身を捩り距離を取り、慎重にただ一点を見つめている。一転車内は静まり返り電車の揺れのみが響いていた。
「ゴプン」
粘着質な音をたて、ツィータの口内から吐瀉物が消えた。飲み込んだのだ。
「は?ツィータお前何して」
エァンストの言葉は困惑により尻切れとんぼになった。
ツィータはふーと息を吐き
「あぶねー、タダ飯溢すところだった。ん、どうした?ちゃんと堪えたぞ」と口にし、ケロッとした顔をしている。
緊張から解放された車内はそのまま静まり返ったまま駅へと着いた。
「いやーよかったねえエァンスト、なんとか間に合って」
「ペナルティはなかったな。カスみたいな説教くらったが」
急いで役所へと戻ったエァンストは幸いなことに話の通じる親身な職員にあたりペナルティ回避できたが、話の通じる親身な職員にあたったことで長々とした説教を受けてしまった。太陽はすでに頂点に達していた。
「説教のストレスを私にぶつけんなよ。せっかくわざわざ待っといてやったのに」
「なんでさっさと帰ってないんだよ。フリッツ・フォスが待ってるぞ」
「別にさっさと帰らなきゃいけない義理はないし、個人情報突撃隊に渡したのがバレたらどうせ手切れだからな。懇切丁寧に不正受給する必要なんてないからね」
そう言ってツィータはケラケラと笑った。
「いや、だとしても別に俺に着いてくる必要はないだろ」
路面電車が音をたてる真っ直ぐのびた大通りをエァンストは家に向かってダラダラと歩いていた。
今日は疲れた。いや昨日からか。求職活動は今日はやめにして、もう横になろう。なのになぜ。
「いやさー、私酒場で勧誘から助けてやったじゃん。だからその礼でももらおうと思ってねー」
「それはありがとう。大層助かった。とてもとても感謝してる。さあさもう帰っても大丈夫だぞ」
「いや昼ごはんをいただきたくってさ」
「さっき食べただろ」
「せっかくの貴重なタダ飯の機会なんだ。こんなに食べれる日なんていつぶりだと思ってんだ」
わざわざ男のフリして不正受給してる犯罪者だ。もちろんまともな職になど就いてないのだろう。それだけでなく国からの福祉に与れてるとも思えない。が、そんなやつに家まで着いてこられるのも非常に困る。
「わかったわかった、ちょっとそこで買ってやるから、それで帰ってくれ」
自分の家ではない集合住宅の一階を指差し、そこに入っているパン屋へと足を向けた。
「えー、パンだけ?なんかもうちょっとないのー」
ツィータはパン屋に向かうエァンストの腕を掴み駄々をこねる。
「俺だって無職なんだ。そんな奢る金なんてねえ」
「奢ってくれないと言いふらすぞ。エァンストが突撃隊酒場で奢られてたって道々で言いふらすぞ」
「マジでやめろ。ムラハチになる」
そう言って振り払うエァンストの視界の隅に見覚えのある人影があった。頬から下に火傷痕の目立つ、古びたコートの中年の男だ。
「おやじ?」
エァンストの父はこちらを視界に収めると空の右袖を振り近づいてきた。左手には酒瓶を抱えている。
「よーエァンスト、無職早々色気付いてんなあ。そんな無下にしちゃモテないぜ」
「この人誰?おやじさん?」
エァンストはまた頭がクラクラとするような感覚がして、ツィータの問いかけに答えられなかった。
「おい無視すんなよエァンスト」
そう言ってまた腕を掴んだ。
おやじがニタニタと笑いながら「なんだ嬢ちゃん、捨てられるところか?」と話しかける。
「そーなんすよ。エァンストが奢ってくれなくて」
「なんだそんなことか。じゃ、コレ飲んでくか?」
そう言うと左手の酒瓶を前に突き出しフラフラと揺らしながら、空の右袖で自宅のある通りを指し示した。
エァンストは思わず天を仰ぐと、歩道の真ん中に座り込んでしまった。
道ゆく人々の靴がカツカツと敷石を踏み鳴らしながら、エァンストの周りを縦貫にすり抜けていった。車道から流れてきた甘ったるいガソリンの臭いがやけに鼻についた。
「「かんぱーい」」
甲高い音を響かせて、ツィータとおやじが声を上げた。
シュワシュワと泡音をたてるビールが二人の喉に流し込まれていく。
「おいエァンストそこで不貞腐れてると酒が不味い。こっちに来い」
「そうだそうだ。こっちで飲むか、出てけ」
おやじが机を空袖で叩きながら喚くと、ツィータもやんややんやと同調した。
滅茶苦茶だ。
「おやじさん、傷痍兵っすか?カッケーっすね」
「そうだろそうだろ。やっぱ若い娘はわかってくれるなあ。ヴェルダンを駆け抜けた時に置いてきたんだ」
そう言ってコートの胸ポケットから勲章を取り出した。
二人の眼前の机の上にはキッチンから取り出した黒パンと干し肉が広げられている。おふくろが仕事から帰ってくる時を思うと頭が痛い。
「それにしてもすみませんね、うちの愚息が。こんないい娘に迷惑ばっかかけてるでしょ」
「いえいえ、そんなことないですよ。ああ見えて意外としっかりしてて」
ふざけた二人の会話にエァンストは割り込む。
「待て、そもそも今日会ったばかりだ。何恋人ヅラして取り入ろうとしてんだ。おやじ、こいつタダ飯目当てのクソ女だ。騙されんな」
そう言って机に近づくと、ギリギリまで注がれたビールジョッキを押し付けられた。
「まーいいじゃねえか、ほらお前も飲め飲め」
受け取ったジョッキを覗き込む。シュワシュワ弾けたビールが少し頬に飛散してきた。ヒリヒリとした刺激は、最悪な今日を吹き飛ばすのにピッタリだ。
「乾杯」
エァンストは小さく呟くと、口元に運んだジョッキを傾けた。
「ほーん、昨日もそこの通りで衝突があったんすか、迷惑な話っすねえ」
「そうそう、行進なんて邪魔しなけりゃいいのにバリケード作って抗争すんだ」
ちびりちびりとビールを舐めながら、二人は愚痴と不満をこぼす。
昼前に始まった宴会は、16時過ぎてもまだ続いていた。
「にしてもやっぱクソだよなあ、偽善ぶったアカどもの馬鹿騒ぎは。あちこちで騒ぎを起こして解散させられてるのにまだやめねえ」
「そうっすよ、そうっすよ、アカどもの赤色は血の色です。誰彼構わず暴れ散らして血で染まってるんすよ」
勢いよく返したツィータの言葉は、終わりに近づくにつれ小さくなっていった。高まりが収まることのなかった宴会が静寂に包まれる。
「私のおやじは一月蜂起に巻き込まれて殺されたんです。政府は民間人の犠牲はスパルタクス団の暴力が原因だと言い張ってるけど、大勢の労働者がスパルタクス団に加わった混乱の中で、誰が民間人かどうかなんて判断できない。政府の義勇軍に殺されたかもしれないし、スパルタクス団に殺されたかもしれない。でもどちらにせよアカであることには違いない。奴らは彼我の区別ない暴力で血に塗れているんです」
革命の翌年の1919年、過激派共産主義集団のスパルタクス団がベルリンで武装蜂起、共産党はコレを支持し5万人の労働者が合流した。コレに対し共和国は社会民主党の血に飢えた犬グスタフ・ノスケ率いる義勇軍を投入し、激しい暴力の末鎮圧した。
涙ながらに震えるツィータの神妙な言葉は、酒のせいかよく目に沁みた。
「ぐす、クソやっぱ国も政府も信用できねえ。連立からアカを追い出しても、元が革命のアカ色とそれを容認した腰抜けどもだ」
おやじがイキリ立つように捲し立て、
「ほんと情けない、教会で偉そうにしてた中央党のジジイ共も共和国に臣従しやがって」
ツィータも調子を戻し同調する。
「なんだ、お前カトリックか、俺もだ。長らく教会なんて行ってねえがな」
「私も元な、元。腰抜けどもと祈る趣味はねえ。ていうか名前でもろわかるだろ」
聖ツィータ、家政婦の守護聖人だ。今でも遺体が腐ってないらしい。
「というかエァンスト、黙ってないでお前もなんか話せよ」
「無茶振りがすぎる」
二人の話すとおりアカどもは実際クソだ。暴力革命で作られた共和国は確かに血で塗れている。でもそれはアカだけじゃない。スパルタクス団を鎮圧した義勇軍は帝国時代の軍人たちが集まっていた。解散が命じられてもそれに反抗し一揆を起こし、正規軍もそれを黙認したこともあった。その後共和国政府が復帰した後も元義勇軍は正規軍内の過激派と連携し一揆を起こしたり、アカの暗殺を繰り返していた。昼間勧誘された突撃隊もそのうちの一つだ。左右問わずの暴力がベルリンの混沌を作り出している。
「ん、まあ実際街頭暴力はよくねえよな。街中で拳銃なんか持ち出してぶつかり合って、邪魔ったらありゃしねえ。右も左も野蛮すぎる」
「野蛮な奴らと腰抜けどもとで、もうドイツはオワリだな。エルザス=ロートリンゲンも奪られるし、」
「賠償金で搾り取られるしよお。アカだけじゃなく皇帝も大概だよな。前線でまだ戦ってるのに、革命が起きたら逃げ出しやがって。腰抜けにも程がある」
「共和国でも帝国でもない、強くて平和なドイツを取り戻さないと」
エァンストが耳まで顔を赤くして、呂律怪しく言い切ると二人は
「誰がやんだよそれ」「そんなんできる奴いたら今頃私は真面目に働いてる」
そう言いながらケラケラと笑った。エァンストもケラケラ笑った。
だから鍵を開け、立て付けの悪いドアを鳴らしながら帰ってきた母の気配に誰も気が付かなかった。
「っぱだからアカはダメなんだ。野蛮と腰抜けで溢れた今時、禁止される武装組織って相当やべーぞ」
「武器のルートが軍からの流出ってわかりきってる右はともかく、左はソヴィエトから持ち込まれてるって噂だからな」
「ただの外国の尖兵じゃねえか」
ビール瓶を全て空け、ジョッキの底に残った液をダラダラ舐めながら、三人はぐだぐだと話を続ける。机の上には黒パンの食べカスがポロポロ溢れ、干し肉は食い散らかされていた。
「何を、してるの?」
無理矢理絞り出された震える声が部屋に響いた。エァンストが後ろを振り返ると、玄関に立ち尽くす仕事帰りの母の姿があった。
「母さん。いや、これは違くて」
「何が?昼間っから酒飲んで食べ散らかして、求職はどうしたの。というかそこにいるのは誰?」
頭に響くキンキンとした声で叫ぶと、いまだ席に着いたまま机に突っ伏しているツィータのことを指差した。
ツィータは緩慢とした動きで体を倒したまま首を上げちらりと目を向けた。
「だれ?」
たちまち母の顔つきが豹変した。両の手を握り締め震わしながら一歩一歩足を踏み締めている。それを止めるためおやじがゆるゆると立ち上がった。
「まあまあエルゼ落ち着けよ。その娘はエァンストが倒れた時に介抱してくれた親切な娘なんだ。飲んでるのはそのお礼だ。な」
妻の肩に左手を置き、宥めるようにスラスラと口にした。
「そう。それじゃあ、さっきの、話は、何」
自らを押し留めるような途切れ途切れの言葉だった。
「ドアの外からも聞こえていたのよ。あんなに大きな声で、きっとお隣にも聞こえてる」
部屋の中は氷室のように静まり返った。アルコールで火照った身体が冷やされるような気がして、エァンストは思わず身震いをした。
「なんか問題でもあるか?事実そうなんだからいいだろ」
昨夜の言い争いの延長線上の宴会だ。我が意を得たりと生き生きと怒鳴り返すと、ますます冷ややかな顔をみせる。
「そう」
小さく呟くと歩みを進め、酒を広げた机に近づき、
「いい加減ご近所さんに謝るのも疲れたわ」
と、おやじの襟首を右手で掴むと、義足で踏ん張ることはできずに玄関まで引っ張られた。
「おい、ちょっと待てエルゼ」
そう言って暴れるが意に介さず内開きの玄関戸を軋ませ、踊り場へと投げ出した。続き、立ち上がって母を止めようとしたエァンストも押し出し、最後に机に突っ伏したままのツィータを掴むとズリズリ引きずって外へ追い出す。
「は、いきなり何、」
「ふぁ?首、締まる」
廊下に締め出された三人は、重々しいドア音と共に薄暗くなる踊り場の中で、顔を見合わせ真っ赤な顔を青白くした。足元を照らすための踊り場の薄暗い光で微かに互いの顔が見えた。
エァンストは急ぎ分厚い扉に取り付くと、繰り返し繰り返しノックをした。
「母さん、母さん。待って話を聞いて」
「まあ待て落ち着けエァンスト、今騒いでもどうせ開かねえ。今晩は諦めるぞ」
おやじはそう言って立ち上がり、階段へと足を向けた。
「こ、これ私のせい?」
ツィータはその場にへたりこみ、身震いして動かない。
「だーお前ら、ほらさっさ立ち上がれ。行くぞ」
「どこへ」
「何しに」
すっかり意気消沈した二人に、おやじは半身だけ振り返りため息を吐いて、
「とりあえず、ツィータのスタンプ代行相手に会いに行って、報酬だけもらうぞ」
と言うと、フラフラと危なげな足取りで階段を下り、踊り場に足音を響かせた。
「ん、もらってきたぞ」
一枚のライヒスマルク紙幣をひらひらと揺らしながらツィータがある集合住宅の表門から出てきた。フリッツ・フォスからスタンプ代行の報酬をもらってきたところだ。
「お疲れ、それでどうするんだ。この辺にちょうどいい寝床貸しでもあるのか?」
エァンストたちは再び運河の北側、クロイツベルクの北東のゲルリッツァー駅付近に来ていた。
「任せろ、とびきり違法のを知っている。いつでも飛び込み可の無届過密換気不足に男女混合の格安だ」
自信満々にツィータが言い切った。
寝床貸し自体は、届出を出して部屋の一部を貸し出す貧困層による最貧困層向けの事業だが、治安衛生過密の観点から厳格な登録が必要だった。しかし今から行くのは一晩だけの届出なしの貸し部屋だ。
「まじかー、公園で野宿とかでいいんじゃないか?」
エァンストは小さくぼやいた。
「夏ならともかくこの時期だぞ、凍える」
「そうだそうだ、大丈夫私がよく使ってる寝床だぞ、これまで摘発されたこともない」
おやじの反論にツィータも便乗して声を上げる。
「んじゃ行くか」
そういうと二人は歩みを進めた。エァンストも重い足取りで後に着いて行った。
最悪だ。
ツィータの言った通り人が詰まっている過密寝床では、ほとんど隙間なく人が床に並べられている。かろうじてボロ布が敷かれた硬い寝床にも関わらず、寝返りを打つ余裕もなく、寝息やいびきがやかましい中エァンストは彫刻のように固くなり天井を見つめる他なかった。右手に寝るツィータも左手に寝る親父も早々と夢へと旅立った。この寝床に慣れきっているツィータと塹壕貴族のおやじだ。たいして苦痛も感じないらしい。換気不足で生臭い汗脂の臭いがこもっている中余裕綽々だ。
エァンストはそのままほとんど眠れぬ夜を過ごし、明け方他の客がなるべく音を立てぬように寝床から抜け出す物音の中、ようやく意識を休めることができた。




