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リライト・ザ・ワールド ~2004年から創るエンタメ帝国~  作者: 伊達ジン


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36/38

第36話 30万人

 長編シリーズ第一弾の順次配信開始から数日。


 ネクサス・エンターテインメントのオフィスは、早朝から熱気を帯びていた。フロアの右半分では成瀬率いるインフラチームが短い言葉を交わしながらキーボードを叩き、増え続けるトラフィックを適切に分散させるための細かなチューニングを繰り返している。一方、左半分では雫を中心としたクリエイターたちが、ペンタブレットに向かって新たなアバターのラフ画を次々と仕上げていた。数ヶ月前まで数人で回していた会社は、人員の増加とともに、それぞれの部門が独自の歯車として力強く回転し始めている。


 オフィスの中央に設置されたメインモニターの前では、数人の社員が集まり、黒い背景に浮かび上がる白いデジタルの数字を見つめていた。休むことなく回転を続けているそのカウンターは、目前に迫った新たな大台を今まさに刻もうとしている。


「二十九万九千九百九十八……九十九……」


 誰かが無意識に呟いたその声に、フロア中の視線が引き寄せられた。

 そして、数字が繰り上がり、最上位の桁が静かに切り替わった。


『300,012』

「――超えました」


 微かな感嘆の声とともに、フロアに拍手がパラパラと広がる。次第にそれは大きなうねりとなり、オフィス全体が確かな達成感と熱気に包まれた。


 開発エリアから歩み寄ってきた成瀬が、悠の隣に立ってモニターを見上げた。


「トラフィックは安定しています。長編シリーズの投入によって作品間の回遊と定着が進み、三十万人のトラフィックが強固なベースとなってシステムを支えています」


 傍らにやってきた結城が、手元の資料へ目を落としながら静かなトーンで付け加えた。


「今月の着地見込みも、過去最高の数字になりそうですね。このアクティブ率が維持できれば、売上の伸びは指数関数的になります」


 悠はモニターから視線を外し、二人に向き直った。


「利益は残しません。今は設備と人材、それに権利の確保へ回します」


 三十万人は、あくまで通過点に過ぎない。悠はまず、成瀬へ視線を向けた。


「成瀬さん。今後の増加を前提に、サーバーの追加発注とデータベースの分散化を進めてください。必要な予算は優先して確保します。増強計画がまとまったら、一度見せてください」

「追加発注は進めます」


 成瀬は頷いたが、すぐに技術責任者としての思案する表情になった。


「ただ、データベースの分散化については、切り替え時の瞬断を避けるための手順を先に詰めたいですね。無停止で移行するための構成図を直して、最短のスケジュールを組み直します」


 成瀬はそれだけ言うと、すぐにコンソールへ向き直った。モニターに新しい構成図を開き、追加するサーバーの配置とデータ移行のフローを検討し始める。


 悠は次に、結城へ向き直った。


「結城さんは、この三十万の基盤と老舗出版社との合意実績をカードにして、リストアップしてある次の大型IPホルダーへ即座にアタックをかけてください」

「分かりました。数字という明確な裏付けがあれば、交渉のテーブルにも引きずり出しやすくなります。すぐに次の包括契約の打診へ入ります」


 結城は手元のリストにペンでチェックを入れると、足早にミーティングスペースへと向かっていった。


★★★★★★★★★★★


 数日後。秋晴れの空が広がる名古屋に、悠の姿があった。


 関西圏や中京圏の企業とのアライアンスを強化するための出張だった。老舗ゲームメーカーとの対戦格闘ゲームIPに関するライセンス交渉は、権利処理の段階から具体的なサービス実装のフェーズへと進み、午前中の重要な打ち合わせは極めて手応えのある結果で終わっていた。

 次の予定までのわずかな空白の時間に、悠は名古屋駅近くの老舗鰻店へと足を運んだ。


 通された静かな座敷席で、悠は出された「ひつまぶし」の木の御櫃の蓋を開けた。

 立ち上る湯気とともに、香ばしく焼き上げられた鰻の脂と、甘辛いタレの濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。細かく刻まれた濃褐色の鰻が、艶やかなご飯を隙間なく覆い尽くしていた。


 悠はしゃもじを手に取り、御櫃の中を十字に四等分する。

 まずは一膳目。そのまま茶碗に装い、口へ運ぶ。関西風の腹開きで蒸さずに地焼きされた鰻は、表面がパリッと香ばしく、噛めば中からふっくらとした肉厚な旨味と濃厚な脂が溢れ出す。タレの染みた熱いご飯との相性は完璧だった。


 二膳目は、添えられた薬味の刻みネギとワサビを乗せて。

 ワサビのツンとした爽やかな辛味が鰻の濃厚な脂をすっきりと引き締め、ネギの風味が味わいに鮮やかな変化を与える。先ほどまでの脂の重みが驚くほど軽やかな輪郭を帯び、箸を進めるペースが自然と速くなる。


 そして三膳目。再び薬味を乗せ、そこへ熱い一番出汁をたっぷりと注ぎ入れる。

 タレの旨味が出汁に溶け出し、黄金色のスープへと変わる。さらさらと喉の奥へ流し込むと、鰻の香ばしさと出汁の深い風味が一体となり、長時間の商談で疲労した胃を優しく、しかし力強く満たしていった。


 計算された三段階の味わいを堪能し、悠は静かに息を吐いた。


 店を出た後、悠は近くのスターバックスへ向かった。屋外の喫煙可能なテラス席を選び、カプチーノをテーブルに置いた。

 ジャケットの内ポケットからレザーのシガーケースを取り出し、中から小ぶりだが風格のある一本――コイーバ・シグロIを抜き出す。


 手慣れた動作でシガーカッターを使って吸い口を切り落とし、炎を近づけて火を移していく。

 煙をゆっくりと吸い込み、口の中で転がすようにして味わってから、秋の涼しい空気の中へ細く紫煙を吐き出した。

 コイーバ特有の、蜂蜜やナッツを思わせるクリーミーで豊かな甘さが口の中に広がる。そこへカプチーノを一口含むと、エスプレッソの強い苦味がシガーの甘さを一層引き立て、ミルクの柔らかな泡が煙の余韻を優しく包み込んでいく。


 風に揺れる街路樹の葉音と、行き交う人々の喧騒を遠くに聞きながら、悠は灰皿に落ちる白い灰を見つめる。

 秋の柔らかな日差しと、少し冷たさを帯びた風が火照った身体に心地よい。分刻みで商談をこなし、常に未来のロードマップを考え続ける多忙な日常から切り離された、ほんの十数分の空白。悠はただシガーの豊かな香りと温かいコーヒーに身を委ね、純粋な休息の時間を静かに楽しんでいた。


★★★★★★★★★★★


 週末。東京の安アパート。


 少し立て付けの悪いドアを開け、窓から秋の柔らかな日差しが差し込む悠の部屋を訪れた響は、少し意外そうな表情で室内を見回していた。深いボルドーの秋らしい装いに身を包んだ彼女は、六畳間の簡素な間取りに目を丸くしている。


「……本当に、普通の学生が住むようなお部屋なのね。神崎さんの会社の規模を考えたら、もっとタワーマンションみたいな場所に住んでいると思っていたわ」


 艶やかな黒髪のストレートロングを揺らしながら、彼女は部屋の片隅に視線を止めた。


「でも、あの一角だけは別世界みたいね」


 彼女の視線の先には、部屋の空間には不釣り合いなほど立派なヴィンテージのオーディオセットと、整然と並べられた大量のレコードコレクションがあった。


「俺の場合、起業する時に生活水準を上げるより事業に資金を回す癖がついてしまって。ただ、良い音を聴く環境だけは妥協したくなかったんです」


 悠は苦笑しながら、キッチンでコーヒー豆を挽き始めた。小気味良いミルを回す音が、静かな部屋に響く。

 ドリッパーに挽きたての粉をセットし、細い湯を落としていく。コーヒーのふくよかな香りが広がる中、悠は響へ振り返った。


「神宮寺さん、何か聴きたいジャンルはありますか?」

「そうね……今日は、神崎さんが普段聴いている曲を教えてくれないかしら」


 響の言葉に、悠は少し考えてから一枚のレコードを選び出した。ターンテーブルにセットし、針を落とす。

 微かなスクラッチノイズの後、アコースティックギターの温かくも透明感のあるアルペジオが響き始めた。続いて輪郭の太いウッドベースが重なり、部屋の空気を柔らかく震わせる。


 悠が淹れたてのコーヒーをローテーブルに置くと、響はソファに深く腰掛け、目を閉じて音色に耳を傾けた。

 少しの間、レコードから流れる生々しくも優しい音が部屋を満たす。やがて、響はゆっくりと目を開け、カップを両手で包み込みながら悠を見た。


「……いい音ね。神崎さん、こういう曲を聴きながら普段は過ごしているの?」

「ええ。仕事を忘れてゆっくりしたい時なんかに」

「ふふっ。なんだか、少し分かる気がするわ」


 響はコーヒーの湯気の向こうで、柔らかく微笑んだ。彼女の声音には、仕事の打ち合わせの時とは違う、肩の力の抜けた穏やかさがあった。


「神宮寺さんのアルバムに入っていた、あの曲が好きなんです。途中でふっと音が途切れるところがあるでしょう」


 悠が自分のカップを手に取りながら言うと、響は少しだけ目を瞬かせた。


「……ええ。あそこ?」

「そうです。初めて聴いた時、思わず手を止めてしまって。今でも、あの部分になると聴き入ってしまいます」

「……そう。あそこをそんなふうに聴いてくれていたのね」


 響はカップを持ったまま、瞬きを忘れたように悠のまっすぐな瞳を見つめ返した。レコード会社から商業的な価値を押し付けられるのではなく、自分の音楽の細かな呼吸まで拾い上げてくれる一人の聴き手が目の前にいる。


(……不思議な人。ずっと一緒に音を聴いていたくなるわ)


 彼女は短く息を吸い込み、少しだけ熱を帯びた頬を隠すように視線を落とした。焦って何か言葉を返す必要はない。今はまだ、この心地よい距離感の中で、彼の隣で流れる音楽に身を浸していたかった。


「……ねえ、もう少しだけ、別のレコードも聴かせてくれないかしら?」


 響の甘やかな声に、悠は微笑んで立ち上がる。


「ええ、もちろん。時間はたっぷりありますから」


 次のレコードを探す悠の背中を、響は穏やかな熱を帯びた視線で見つめ続けていた。


★★★★★★★★★★★


 週明けのネクサス・オフィス。


 出社した悠を待ち構えていたかのように、結城が速歩きで接近してきた。その手には、見慣れた契約書の束ではない、一冊の分厚いファイルが握られている。


「神崎さん。例の件、先方の経営トップから大筋で合意のサインが出ました。これで、秋以降の仕込みがすべて繋がります」


 結城の報告に、悠は静かに頷き、口元に微かな笑みを浮かべた。

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