第37話 秋の大型提携
十月に入り、東京の街を行き交う人々の装いから夏の名残が消えた。朝晩の風には確かな冷たさが混じり、街路樹の葉がわずかに色づき始めている。
都内のオフィスビルの一室で、長机の上には製本された二通の契約書が置かれていた。向かい合う席には、先日経営トップから大筋で合意の意思表示を得ていた大手コンテンツ企業の担当役員と、法務・ライツ部門の責任者たちが並んでいる。
条項のすり合わせはすでにすべて完了しており、あとは署名と捺印を残すばかりの段階だった。
「契約内容については、事前の合意通りで異存ありません。ただ、神崎社長。調印の前に一点だけ、現場の編集部門を納得させるための最終確認をさせてください」
白髪交じりの担当役員が、契約書から目を上げて悠を見た。
「御社へ作品を出すことで、既存の単行本や他社の配信サイトと読者を奪い合う結果にはならないか、という点です。一話当たりの配信単価で見れば、他社から提示されている条件と大きな差があるわけではありませんから」
「ご安心ください。単発の閲覧で終わらないことは、すでに実績として数字に出ています」
悠は手元のノートパソコンを開き、先行して配信している長編シリーズの実測データを表示させた。
「現在、最新話を読んだ利用者のうち約四割が、離脱することなく作品専用の掲示板や関連コンテンツへ回遊しています。単なる電子書店の切り売りではなく、一つの作品から漫画、アバター、ミニゲームと複数の収益の柱が同時に立つ構造です」
隣に座る結城が、一枚の試算表を役員の前へ差し出した。
「こちらが、先月の実測値を基に算出した、一タイトル当たりの還元額の比較シミュレーションです。単発の配信のみを行った場合と比べ、関連アイテムやゲームの二次利用ロイヤリティが加わることで、最終的な還元額にはこれだけの開きが出ます」
担当役員は試算表の数字に目を走らせた後、結城へ視線を向けた。
「二次利用を含めた還元額の大きさは分かりました。ですが、携帯で満足した読者が紙の単行本を買わなくなる懸念についてはどうですか。現場の編集部が最も警戒しているのは、既存の書店売上との食い合いなのです」
「その点につきましても、先行して長編シリーズを提供いただいている出版社様のご協力を得て、実売の推移データをまとめております」
結城はファイルからもう一部の資料を取り出し、役員の手元へ開いた。そこには、配信開始前後の書店における既刊および新刊のPOS消化率のグラフが並んでいる。
「携帯で序盤のエピソードに触れ、掲示板やアバターを通じて作品の世界観に定着した利用者が、続きや手元に置く蔵書として紙の単行本を買い求める動きが出ています。特に、これまで書店で棚差しになっていた既刊の第一巻から第三巻については、配信開始から二週間で実売数が約二割押し上げられ、重版に繋がった事例も確認されました」
担当役員はグラフの数値を指先で辿り、隣に座るライツ部門の責任者と視線を交わした。
「なるほど……。紙の売上への影響は引き続き見ていく必要がありますが、少なくとも、この数字なら編集部にも説明できます。進めましょう」
役員が契約書へ手を伸ばし、結城も持参した万年筆のキャップを静かに外した。
白い紙面の上をペン先が滑り、双方の署名と朱肉の鮮やかな捺印が完了する。
正式調印から二日後、結城のもとに中堅出版社から連絡が入った。それを皮切りに、映像制作会社やキャラクター版権元との交渉も相次いでまとまり、十月の第一週が終わる頃には、ネクサスで扱える作品タイトルが従来の数倍に増えていた。
★★★★★★★★★★★
週の半ば、悠は再び名古屋を訪れていた。
老舗ゲームメーカーとの対戦格闘ゲームIPに関する実装仕様の詰めと、中京圏の関連企業との契約交渉をまとめるためだった。
大枠の合意から現場レベルの実装仕様へ降りてくると、ゲームメーカーの会議室でのやり取りは、看板タイトルの品質を守るための細かな確認の連続となった。
「このキャラクターの必殺技のエフェクトを携帯のミニゲームで再現するとなると、弊社の品質ガイドラインに照らし合わせて、ドットの色数とアニメーションのフレーム数を厳密に確認する必要があります」
版権管理部門の担当者が分厚い仕様書をめくりながら、画面上の数値と規定の基準を照らし合わせた。隣に座る開発部門の担当者も、真剣な眼差しで資料の図面を見つめている。
「色数とフレーム数の制限については、御社のガイドラインの基準値をすべて満たす形で、専用の圧縮ツールを用意しています」
悠は落ち着いた声で応え、用意していた別の資料と検証用端末を差し出した。
「こちらが実機での表示サンプルと、御社の書式に合わせて作成済みの審査用チェックリストです。背景の明度を落としてキャラクターの輪郭を際立たせる処理も入れていますので、小さな液晶画面でも元のアーケード版の印象は損ないません」
担当者はチェックリストに目を通し、実機の表示サンプルと慎重に照合した。ドットの一つひとつや動きの滑らかさを確かめるように何度か画面を操作し、やがて納得したように頷いた。
「技術的な条件は満たしていますね。では、こちらは稟議に回します。ただ、アバター用の衣装については、宣伝部の監修も必要になります」
「承知しました。では、本日中に宣伝部のご担当者様ともお時間をいただけますか? 説明する資料とサンプルは今ここですべて揃っていますので、すぐにご確認いただけます」
それから三十分ほど待たされた後、会議室へ入ってきた宣伝部の担当者は、引き継ぎのメモに目を落とすなり顔を上げた。
「アバター衣装の監修ですね。ただ、うちの部署としても、まず携帯の小さな画面でキャラクターの色彩や動きの印象が原作から変わらないか、基本的な描画仕様から説明してもらわないと困るんですが」
それはつい先ほど、版権管理部門と開発部門の担当者に説明して承認を得たばかりの項目だった。
悠は表情を変えず、鞄にしまいかけたチェックリストと検証用端末をもう一度机の上に広げた。
「もちろんです。では、こちらの実機サンプルと仕様書をご覧ください」
ドットの色数制限、背景の明度を落として輪郭を際立たせる処理、アニメーションのフレーム数。先ほどと寸分違わぬ説明を最初から繰り返し、実機の画面を操作して見せる。宣伝部の担当者がようやく納得して監修シートにサインをした頃には、さらに一時間が経過していた。
続いて入れ替わりでやってきた音響部門の担当者からは、提出済みの着信音データの仕様書を前に、別の白い書類束を差し出された。
「音質とデータ容量の数値はこれで問題ありません。ただ、弊社の音響管理台帳へ登録する決まりになっていますので、こちらの部門専用フォーマットに、一曲ずつサンプリング周波数とビットレート、ファイルサイズを手書きで転記し直していただけますか」
悠はペンを取り、目の前にある印刷済みの仕様書とまったく同じ数値を、指定された用紙の枠内へ一つずつ書き写していった。
会議室を出る頃には、実装に向けたすべての承認印が揃っていたが、窓の外はすでに夕闇に包まれ始めていた。
ビルを出た悠は、ネクタイを少し緩め、秋の冷たい空気を肺の奥まで吸い込んだ。
必要な確認であることは理解していた。それでも、部署が変わるたびに同じ説明を繰り返さなければならない非効率さには、さすがに苛立ちが溜まっていた。
腕時計を見ると、針は午後七時を少し回っている。
悠は通りでタクシーを拾い、新栄へと向かった。
住宅や雑居ビルが並ぶ通り沿いに、目的のフランス料理店「ぶどう亭」はあった。温かみのある照明が漏れる扉を開けて店内へ入ると、気取らない落ち着いた空間に、焦がしバターとフォン・ド・ヴォーの芳醇な香りが漂っている。
案内されたテーブル席に腰を下ろし、悠はまずボルドーの赤ワインをグラスで注文した。
運ばれてきた深いルビー色の液体を一口含む。カベルネ・ソーヴィニヨン主体のしっかりとした渋みと、熟した黒果実のような豊かな香りが口の中に広がり、張り詰めていた神経が少しずつ解けていくのを感じた。
前菜には、肉厚なパテ・ド・カンパーニュを選んだ。
ナイフを入れると、粗挽きの豚肉とレバーがぎっしりと詰まった断面が現れる。切り分けて口へ運ぶと、肉の力強い旨味とスパイスの香りが広がった。合間に添えられたコルニッションを齧り、爽やかな酸味で口の中を切ってから、再び赤ワインのグラスへ手を伸ばす。
続くメインディッシュは、牛頬肉の赤ワイン煮込みだった。
長時間かけてじっくりと煮込まれた頬肉は、ナイフを当てるまでもなく、フォークの先で軽く触れただけでほろりと崩れた。艶やかなソースをたっぷりと絡めて口へ運ぶと、ゼラチン質がとろけるような食感とともに、凝縮された牛肉の甘みと赤ワインの深いコクが広がる。悠は付け合わせの滑らかなマッシュポテトと香ばしいバゲットで皿の上の濃厚なソースを拭いながら、ゆっくりと時間をかけて食べ進めた。
皿の上を平らげ、グラスに残った最後のワインを飲み干す。胃袋は十分に満たされていた。
だが、会計を済ませて店の外へ出ると、冷たい夜風に吹かれてもなお、昼間の会議室で溜め込んだ重苦しさは消えていなかった。このまま大人しくホテルの部屋へ戻って眠る気には、到底なれなかった。
悠は栄の繁華街へと足を向け、目についた雑居ビルのオーセンティックなバーの扉を開けた。
カウンターの端の席に座り、スコッチウイスキーをロックで頼む。氷がグラスの中で鳴る音を聞きながら、琥珀色の液体を喉へ流し込んだ。ピートの強い燻製香とアルコールの灼けるような刺激が、食道を通って胃の底へと落ちていく。
一杯目をすぐに空け、二杯目、三杯目と、いつもより明らかに早いペースでグラスを重ねた。
さらに店を変え、少し騒がしいショットバーのカウンターでもう二杯、度数の強いカクテルを立て続けに煽る。
二軒目の店を出た時には、時刻は深夜十一時を回っていた。
悠は店外の喫煙可能な場所で足を止め、煙草に火をつけた。酔いの回った身体に、ニコチンの鋭い刺激と冷たい夜風が染み渡っていく。
静かに煙を吐き出しながら、しばらく無言で夜空を見上げる。やがて短くなった煙草を灰皿で消し、悠は踵を返してホテルへと向かった。
★★★★★★★★★★★
翌日の午後、東京のオフィスへ戻った悠が目にしたのは、検証用の長机を囲んで険しい表情を浮かべる成瀬と雫、そして数人のエンジニアたちの姿だった。
デスクの脇には、正式契約を結んだ複数のコンテンツ企業から運び込まれたばかりの漫画の原稿データやキャラクター設定画、ゲーム用の仕様書が山積みになっている。しかし、長机の上にずらりと並べられた十台以上の異なる携帯電話端末の前で、作業が完全に止まっていた。
「どうしました?」
悠が歩み寄って声を掛けると、端末の画面を覗き込んでいた雫が顔を上げた。
「あ、神崎さん、お帰りなさい。今、来週公開分のコラボ衣装と背景の制作ラインを二つに分けて回しているんですが……実機での表示確認で、どうしても崩れが出てしまって」
「そうですか。どの端末で、どんな崩れ方をしているのか見せてもらえますか」
悠が長机の前へ身を乗り出すと、雫はメーカーも通信キャリアも異なる三台の携帯電話を並べて画面を示した。そこには、今まさに追加作業を進めている新しい漫画のビューアと、連動するコラボアバターのプレビューが表示されている。
一台目の最新機種では、カラーのアバター画像と漫画のコマが鮮明に表示されていた。しかし、二台目の少し古い機種では、アバターの背景レイヤーがずれて漫画の吹き出しテキストが枠からはみ出し、三台目の別キャリアの端末では、メモリ制限に引っかかったのか画像の一部が赤いバツ印になっていた。
悠は画面の崩れを確かめてから、隣に立つ成瀬へ視線を向けた。
「成瀬さん。既存の振り分けエンジンでは対応しきれない問題ですか?」
「ええ。ウチが導入している独自の圧縮・振り分けエンジン自体は正常に動いています。ただ、あれはあくまで標準的な規格のイラストやテキストを自動で最適化するものです」
成瀬の声が、いつになく低く響いた。
「今回のように、複数社から一斉に、作品ごとに異なる特殊なコマ割りや多層構造のコラボアバター、ミニゲームの演出素材が流し込まれると、端末ごとの微妙なブラウザの描画仕様やメモリ上限の差を自動変換だけでは吸収しきれません」
成瀬は並べられた十数台の携帯電話へ視線を戻した。
「数タイトルだけを一つずつ手作業で調整していた頃とは訳が違います。一気に増えたこれだけの数の作品を、市場に出回っている百種類以上の携帯端末すべてで個別にレイアウト調整して実機検証しようとすれば……現場の変換と確認作業だけで、制作と開発のラインが完全にパンクしますよ」




