第33話 20歳の社長
九月一日。
東京はまだ厳しい残暑が続いていたが、オフィスの窓から見える空には少しずつ高い雲が混じり始め、季節が確実に秋へ向かっていることを告げていた。
ネクサス・エンターテインメントのオフィスの一角で、悠は一つのバインダーを手にした結城と向かい合っていた。
「先日の取材依頼ですが、受ける方向で進めて構いませんね、神崎さん。先方は国内でも影響力の大きいビジネス・IT系雑誌です。代表者の顔を出すことになりますから、その点だけ確認させてください」
結城の言葉に、悠はすぐに応じた。
「ええ。受けましょう。日程の調整をお願いします」
「承知しました。事前にある程度の想定質問は共有してもらいますが、経営の数字に関する部分はどこまで開示しますか。影響力の大きい媒体に出る以上、不用意な発言は避けたいところです」
「売上や利益の具体的な額面は伏せます。継続率の高さ、そして何より『一つのIDですべてが繋がる』という構想に焦点を当ててもらいましょう」
悠は静かなトーンで言葉を継いだ。
「これまでは水面下で権利を押さえ、実利と数字を作ってきました。ですが、ここからさらに大きな才能やIPをこちらへ引き込むには、会社そのものの社会的な信用と認知度が必要です。使える看板なら、俺の年齢でも何でも使います」
悠の目的は単なる自己顕示ではない。これから先に控える大型提携や、個人では発掘しきれない規模の人材を吸い寄せるためには、ネクサスという会社そのものに「確かな実力を持った成長企業」という社会的な箔が必要だった。
結城は一つ頷き、バインダーを閉じた。
「分かりました。では、その方向で先方と詰めておきます」
数日後の午後、ネクサスのオフィスに雑誌編集部から中堅の記者とカメラマンが訪れた。
簡単な挨拶を交わし、パーティションで区切られたミーティングスペースへ案内する。
ソファに腰を下ろした記者は、対面に座った悠を前にして、手元のICレコーダーの録音ボタンを押す手をごくわずかに止めた。
「……失礼ですが、本当に二十歳でいらっしゃるのですよね」
「ええ。今年の二月で二十歳になりました」
「驚きました。お電話や書面でのやり取りから、もう少し年上の、それこそ三十代半ばくらいの経営者の方を想像していました。それに……」
記者は言葉を濁したが、その視線は悠の容姿に向けられていた。目の前に現れたのは、仕立ての良いラフなジャケットを着こなす、どう見ても学生と変わらない年齢の青年だった。しかし、その瞳には深く静かな光が宿っている。記者は小さく咳払いをして姿勢を正し、手帳を開いた。
「本日はよろしくお願いします。まず伺いたいのは、ネクサスが提供している携帯向けサービスについてです。すでに凄まじい勢いで伸びていると伺っています。神崎社長は、この急成長の理由はどこにあるとお考えですか」
記者の質問に、悠は少しだけ考えてから答えた。
「俺たちが用意した導線以上に、利用者同士が新しい遊び方を見つけてくれた。それが大きかったですね。漫画を読みに来た人がアバターを使い始めたり、ゲームを遊んだ人が別の作品を見つけたりする。そういう動きが、ユーザー自身のコミュニティを通じて広がっています」
「なるほど。ただ、他社も似たような携帯サイトを立ち上げ始めています。競争が激化する中で、ネクサスの強みはどこにあるのでしょうか。デザインや仕組みだけなら、資金さえあれば真似できるのではないかと」
「ええ、表面上の仕組みなら数ヶ月でコピーできるでしょう。ですが、私たちがこれまでに蓄積してきた利用者の行動データや、権利者との信頼関係までは簡単にコピーできません。それに、もう一つ決定的な違いがあります」
悠は記者の目をまっすぐに見据えた。
「携帯電話はこれから、単なる連絡手段から日常的な娯楽の中心へとパラダイムシフトを起こします。音楽を聴くのも、漫画を読むのも、ゲームをするのも、すべて携帯端末が最初の入口になる。ネクサスではその未来を見据えて、特定のコンテンツだけを切り売りするのではなく、一つのIDですべての遊びが繋がり、循環するプラットフォームを今のうちから構築しているんです」
記者は手帳にペンを走らせながら顔を上げた。
「なるほど。しかし、それだけでこれほど多くのユーザーを引き留められるのでしょうか」
「登録者数を増やすだけなら、広告費をかければ一時的にできます。でも、毎日使ってもらえるサービスにするのは別の仕事です。実際、更新の頻度や見せ方を変えたことで、利用者が翌日や一週間後に戻ってくる割合は確実に改善しています」
記者は頷き、手帳にもう一行書き加えた。
「ただ人を集めるだけでなく、継続して利用する仕組みと実績ができているわけですね。では、次に目指すのは何でしょう?」
「作り手の数を増やすことです。利用者が増えても、そこに届ける作品が足りなければ成長は止まりますから」
インタビューの終盤、記者は手帳に書き込んだ内容を確認し、顔を上げた。
「ありがとうございます。携帯電話の可能性について、面白い記事にできそうです。ひとつご相談ですが、本誌の発売前にウェブ媒体で先行掲載させていただくことは可能でしょうか」
「そちらの編集部にお任せします」
悠は静かに微笑み、取材を締めくくった。
★★★★★★★★★★★
九月最初の週末。
悠は響と共に、都内の入り組んだ路地にある隠れ家のようなヴィンテージ・レコードの専門店を訪れていた。
重厚な木の扉を開けると、木箱にぎっしりと詰められた古いアナログ盤の埃っぽい匂いと、店内に流れる静かなジャズの調べが二人を包み込んだ。その奥の棚で、目深に被った帽子とサングラスで軽く変装した響が、熱心に海外の民族音楽のコーナーを覗き込んでいる。
「……こんなに古い時代の音源が、綺麗な状態で残っているなんて驚きね」
響が一枚のレコードジャケットを引き抜きながら、隣に立つ悠へ感嘆の声を漏らした。細い指先が、経年変化で少し色褪せた厚紙の質感を丁寧に確かめている。
「六十年代の北欧のトラッドフォークですね。この時代の録音は、マイクの配置やスタジオの空気の震えまで、アナログの溝に物理的に刻み込まれています。クリアに整えられた現代のデジタル音源にはない生々しい熱量がある。神宮寺さんの作る曲の、あの静謐でありながら力強いストリングスの響きに、どこか似たルーツを感じるかもしれないと思って」
悠がそう応じると、響はサングラスをずらし、悠の顔をしばらく見つめた。
「こんな音楽まで聴いているなんて。……神崎さんといると、次はどんな曲に出会えるのか楽しみになるわ」
二人は数枚のレコードを購入して店を出た後、近くの静かな純喫茶に席を取った。
セピア色の照明が落ちる店内には、布張りのソファと、サイフォンで珈琲を淹れるマスターの静かな動作、そして古い掛け時計の秒針の音が心地よい空間を作っている。
響は購入したばかりのレコードが入った紙袋を大切そうに撫でながら、向かいに座る悠を見つめた。テーブルに置かれたアイスティーのグラスには、涼しげな水滴が光っている。
「あのレコード、自分でも存在を忘れかけていた音に出会えた気がしたわ。仕事の話を抜きにして、こんなふうに音楽を楽しめたのは久しぶり」
響はグラスの表面の水滴を指先でなぞりながら、穏やかに微笑んだ。
「俺も楽しかったですよ。神宮寺さんの音楽的な背景を、少しだけ覗けた気がします。今度は神宮寺さんのお薦めも聴かせてください」
「ええ、もちろん。……ねえ、次の休日、今日買ったレコードを一緒に聴かない? 神崎さんの部屋で。あなたがどんな音楽を聴いてきたのか、もっと知りたいわ」
「ええ、喜んで。とびきり美味しいコーヒーを淹れますよ」
★★★★★★★★★★★
九月上旬の夕方。
ブランド監修の手順についても調整がつき、対戦格闘ゲームのIP利用に関する関西企業との商談はひとまずまとまった。
大きな山を一つ越えた静かな達成感が、悠の身体に心地よい疲労をもたらしていた。
悠は、名古屋市内にある落ち着いた佇まいの鮨屋の暖簾をくぐった。
白木の一枚板のカウンターが清々しい店内は、まだ早い時間ということもあり、数人の先客が静かにグラスを傾けているだけだった。
カウンターの中央寄りの席に腰を下ろし、つけ場に立つ年配の板前へ軽く会釈をする。
「まずは、冷えたビールをお願いします。それと、今日は握りよりも、つまみを中心に楽しみたいんです。旬のものを、少しずつ見繕ってもらえますか」
よく冷えた薄張りのグラスに注がれたビールが運ばれてくる。
一口飲むと、商談の緊張から解放された乾いた喉を、きめ細かな泡と麦の香りが潤していく。冷たい液体が胃の腑に落ちる感覚を味わいながら、小さく息を吐いた。
最初に出されたのは、薄造りにされた平目の刺身だった。すだちを軽く絞り、少量の塩をつけて口へ運ぶ。きめ細かな身を噛み締めるたびに、上品な甘みが舌の上に広がっていく。
続いて供された三河湾の穴子の白焼きは、皮目がパリッと香ばしく、身はふっくらと厚みがあった。本わさびを乗せて頬張ると、脂の甘みが鼻腔を鮮やかに抜けていく。
悠は少しずつつまみを楽しみながらビールを空け、早めに食事の締めくくりに入った。
「最後に、握りを少しだけお願いします。赤身と、コハダ、それとイカを」
目の前に置かれた鮪の赤身を一貫、指でつまんで口へ運ぶ。人肌ほどの温度に保たれた鮨飯が、口の中でほどけた。程よい塩気と柚子の香りが効いたコハダ、ねっとりとした甘みのイカをじっくりと味わい、温かいお茶を飲み干して席を立った。
会計を済ませて店の外へ出た悠は、灰皿が設置された街角で立ち止まった。
夜の帳が下りた名古屋の街には、秋の気配が混じる涼しい風が吹き抜けていた。遠くに見える栄のネオンが、夜空を淡く照らしている。
悠は煙草に火をつけ、静かに煙を吐き出しながら、先日のインタビュー記事の反響を思い返した。
『二十歳の創業者が語る、携帯電話が娯楽の中心になる未来』
そんな見出しとともに、悠の写真とネクサスの事業構想がネット上で急速に拡散され始めている。
東京のオフィスにいる成瀬や結城からの報告によれば、記事の公開直後から一般利用者からのアクセスが跳ね上がっているという。
夕方にかかってきた電話越しの成瀬の声は、確かな喜びを帯びていた。
『ユーザーの登録だけじゃありません。記事を読んだエンジニアから、採用についての問い合わせも次々と来ています。今の職場では自分の技術を十分に活かせない、という人もいるようです。うちの技術基盤に興味を持ってくれているんですね。これは嬉しいですよ』
成瀬の弾んだ声を思い出しながら、悠は短くなった煙草を灰皿へ押し当てた。
結城からも同様の報告を受けている。ゲーム開発者やイラストレーター、さらには商業誌で連載経験のある漫画家からも、ネクサスで作品を展開できないかというコンタクトが入っているらしい。彼らもまた、新しい表現の場を探していたのだろう。
これまでは自ら足を運んで発掘していた才能たちが、今やネクサスというプラットフォームの将来性に惹かれ、向こうから門を叩いてくるようになった。
この新たな人材たちを、最も活かせるプロジェクトに合流させる必要がある。
悠は携帯端末を取り出し、有望な候補者との面談スケジュールを具体的に手配するよう、結城へ短い指示を送った。そして、これから拡大する開発計画を頭の中で組み直しながら、滞在先のホテルへ向かってゆっくりと歩き出した。




