第32話 登録者より戻ってくる人
関西の有力企業との商談を終えて東京へ戻った悠は、休む間もなくネクサスのオフィスへ直行していた。
八月も下旬に差し掛かり、アスファルトの照り返しが厳しい外気とは対照的に、冷房が効いたフロアにはサーバー群の低い駆動音が響いている。社員たちがモニターに向かい、ひたすらにキーボードを叩く乾いた音が空間を埋めていた。
悠は自らのデスクにカバンを置くや否や、フロアの奥で作業をしていた成瀬へ声を掛けた。
「成瀬さん。定着率をもう少し詳しく調べたいんです。新規登録者が翌日、三日後、一週間後にどれくらい戻ってきているか、集計してもらえますか」
悠の指示を受け、成瀬はすぐに手元のキーボードを叩き始めた。
「分かりました。データベースから該当期間のアクティブログを抽出して、スクリプトを回します。少し待ってください」
黒い画面に白い文字列が猛スピードで流れていく。数分と経たないうちに、成瀬のモニターに集計結果を可視化した緻密なグラフが描き出された。
「出ました。これが現在のデータです」
成瀬が画面上の再訪率の推移グラフを指差す。
悠はモニターを覗き込んだ。そこに示されていたのは、決して楽観視できる曲線ではなかった。登録初日のアクセス数に比べると、翌日、三日後、一週間後と日を追うごとに、利用者の再訪率が緩やかな減少傾向を描いている様子がはっきりと見て取れる。
「やはり、日を追うごとに離脱していますね。ここを改善しましょう」
悠はグラフから視線を外し、明確なトーンで指示を出した。
「これまでの数日単位の追加では足りないようですね。更新をもっと細かく分けましょう。毎日新しいものを出して、場合によっては一日の途中にも追加するようにしたいんです。ミニゲームでも短いイベントを増やしましょう。漫画もアバターもゲームも、毎日どこかに新しいものがある状態にしたいんです」
成瀬は少し考え込んだ。
「それなら、データベースへの負荷は分散させる必要があります。特定の時間に一斉更新をかけると、そこにアクセスが集中してサーバーが跳ねる可能性がある。更新のタイミングをコンテンツごとに細かくずらして、トラフィックの波を平準化する仕組みを入れましょう」
二人のやり取りがひと段落したのを見計らい、同じミーティングスペースで資料を整理していた結城が口を開いた。
「漫画の更新方法について、一つ確認させてください。今ある契約で、エピソードを分けて配信することは認められています。ただ、毎日更新となると、原稿の納品スケジュールを作家側と調整する必要があります」
「分かりました。結城さん、その調整をお願いします。無理のない形で続けられるようにしてください」
悠が即答すると、結城は短く頷いて手元の書類にペンを走らせた。
「承知しました。それと、神宮寺さんの楽曲配信の件も進めています。現在、彼女の所属レコード会社が持つ原盤権と、専属実演家契約の条項を洗い出しています。単曲とアルバム単位での許諾範囲について、先方がどこまでなら首を縦に振るか、いくつかの交渉パターンを構築しているところです」
「ありがとうございます。引き続き進めてください。関西での商談も、先方の反応は良好でした」
悠は自身のカバンから取り出した資料を机に置いた。
「彼らの持つ対戦格闘ゲームのIP利用について、大枠の合意は得られそうです。あとは版元側のブランド監修の手順について、いくつか細かい調整が残っている段階です」
結城がさらにメモを取る。二人との確認を終え、悠は新たな施策へ向けて動き出したオフィスを見渡した。
八月二十九日。
厳しい残暑が続く名古屋の街に、悠の姿があった。
この日は夜に、瑞穂陸上競技場でJリーグの試合を観戦する予定だった。
昼時、競技場に隣接する瑞穂公園の木陰で、悠はベンチに腰を下ろして弁当の蓋を開けた。駅前で購入してきた仕出し弁当の中には、丁寧に焼き上げられた白身魚、出汁のたっぷりと含まれた厚焼き玉子、味が中までしっかりと染み込んだ根菜の煮物、そして色鮮やかな漬物が、艶のある白飯とともに美しく詰められている。
割り箸を割り、まずは厚焼き玉子から口へ運ぶ。箸を入れるとじゅわりと出汁が滲み出し、口の中で優しくほどけていく。根菜の煮物は、噛み締めるほどに上品な出汁の香りと野菜の甘みが口いっぱいに広がる。続いて焼き魚に箸を伸ばすと、香ばしい皮目とふっくらとした身の食感が、少し硬めに炊かれた白飯を強烈に要求してきた。冷たい緑茶を喉へ流し込み、じんわりと広がる旨味の余韻を味わう。質素だが、一つ一つの素材が丁寧に調理された弁当だった。
綺麗に弁当を平らげた後、悠は立ち上がり、公園内の緑の隙間からそびえる競技場の大きなスタンドを見上げた。これから向かう場所の熱気を前に、自然と足取りが軽くなるのを感じていた。
夕方になり、幾分か日差しが和らいだ頃、悠はスタジアムのゲートをくぐった。
道すがら、同じ方向へ歩く人々の多くはチームカラーの赤いシャツやマフラーを身に纏い、すでに試合前特有の高揚感を漂わせている。家族連れ、友人同士、カップル。彼らがみな同じ色を身につけてスタジアムへ吸い込まれていく。今日のカードは名古屋グランパスエイト対横浜F・マリノスだった。
スタジアムの中は、すでに両チームのサポーターが放つ強烈な熱気と歓声に包まれていた。ホームである名古屋の赤いユニフォームと、アウェイの横浜のトリコロールが、スタンドを鮮やかに染め上げ、大小の旗が波のようにうねっている。選手たちがピッチでアップを始めている段階から、応援歌が途切れることなく鳴り響いていた。
夜の帳が下り、巨大なカクテル光線が緑のピッチを照らし出す中で、試合開始を告げるホイッスルが鳴り響いた。
序盤から中盤での激しいボールの奪い合いが続く。
前半、横浜の久保竜彦がペナルティエリアの外から左足を振り抜いた。放たれたボールは鋭い軌道を描き、そのままゴールネットへ突き刺さる。アウェイ側のスタンドが一瞬の静寂ののち、爆発的な歓喜に沸いた。トリコロールの旗が狂ったように揺れ、横浜サポーターの歓声がスタジアムに響き渡る。一方、悠の周囲に座るホームの観客たちは、頭を抱えて深いため息を漏らしていた。
しかし、その直後だった。すぐさま反撃に転じた名古屋が、見事な連携からマルケスの同点弾を叩き込む。放たれたシュートがネットを揺らした瞬間、スタジアムの大部分を占めるホームのサポーターたちが、地鳴りのような歓声を上げて一斉に立ち上がった。赤いタオルマフラーが頭上で激しく振り回され、応援のチャントが腹の底に響くような大音量となってスタジアム全体を包み込む。空気が振動し、コンクリートのスタンドが微かに揺れているように錯覚するほどの熱狂だった。
悠は指定席に座ったまま、ピッチ上の激しい攻防と周囲の熱気に見入っていた。
後半に入ると、ピッチ上の空気はさらに張り詰めた。横浜の久保がレッドカードを受けて退場となり、アウェイチームは数的不利に陥る。
その隙を見逃さず、名古屋は左右のスペースを広く使い、幾度となくゴール前へ迫った。スタンドの歓声は、シュートが放たれるたびに大きくなっていく。そしてついに、クライトンが放ったシュートがゴールネットを揺らした。
スコアボードの数字が変わり、スタジアムの熱気は最高潮に達した。周囲の観客たちが総立ちになり、見ず知らずの隣人同士でハイタッチを交わし、抱き合って喜んでいる。
試合はそのまま二対一で名古屋が勝利を収めた。
歓喜の歌が響き渡る中、選手たちがピッチを一周してサポーターへ感謝の挨拶に向かう。スタンドのファンたちは声を枯らして、自分たちのチームの勝利を心から讃えていた。
悠は最後までその光景を見届け、ゆっくりと席を立った。
八月三十一日。
月の最終日を迎えたネクサスのオフィスでは、成瀬がモニターを前に充実した表情を浮かべていた。
「神崎さん、数字が出ました。先日から仕込んだ定着率改善の施策、効いています」
悠が成瀬のデスクを覗き込むと、そこには数日前とは全く異なる結果を示すデータが表示されていた。
「翌日、三日後、一週間後の再訪率が、施策前と比較して改善しています。特に一週間後の再訪率が持ち直しました。更新のタイミングを細分化したことで、利用者が一日に何度もアクセスするようになっています」
成瀬の声には、確かな手応えが滲んでいた。
「朝の通勤通学、昼休み、夜の帰宅後と、一人の利用者が一日に平均して三回以上、サービスへアクセスしています。サーバーへの負荷も、細かくジョブを分散させたおかげでコントロールできています」
さらに成瀬は、別の決済画面の推移グラフを画面に表示した。
「利用者が定着し、サービス内に留まる時間が増えたことで、少額課金の機会も自然に増加しました。一日当たりの決済回数がこれまでの比ではありません。新規獲得のための広告費を増やさずに、全体の売上ベースが一段階底上げされています」
成瀬が力強く告げる。
悠は右肩上がりの数字を見つめ、静かに頷いた。
「ええ。この調子で進めましょう。九月以降も、コンテンツの供給を切らさないことが鍵になります」
悠がそう応じて自らのデスクへ戻ると、そこには一通の真新しい封書が置かれていた。上質な和紙が使われたその封筒の差出人欄には、国内で高い影響力を持つビジネス・IT系雑誌の編集部の名が黒々と印字されている。
デスクの向かい側に座っていた結城が、声のトーンを落として口を開いた。
「先方から、取材の依頼が届いています。新興の携帯エンターテインメント企業として、目覚ましい数字を出しているネクサスの代表に、ぜひ直接話を聞きたいそうです」
結城の言葉に、近くで作業をしていた数人の社員たちが弾かれたように顔を上げた。
悠はデスクに置かれた封筒を見つめ、短く息を吐いた。




