第30話 未来のスターを先に取る
都内の一等地にある高層オフィスビル。その最上階に近い広々とした会議室で、悠と結城は有力コンテンツ企業の役員たちと向かい合っていた。
磨き上げられた分厚い長テーブルの上には、結城が緻密に組み上げた契約書の束と、ネクサスの現在の利用実績を示すレポートが置かれている。窓の外には真夏の強い日差しが照りつけ、遠くのビル群が陽炎に霞んで見えるが、空調の効いた室内は冷ややかに静まり返っていた。
「なるほど。ただの着メロや待受画像の配信サイトとは、根本的に思想が違うわけだ」
初老の役員が、手元のレポートから顔を上げて悠を見た。その目には、二十歳の若者に対する侮りではなく、新たな市場を開拓しつつある経営者を値踏みするような光があった。
「はい。すでに登録者数は十万人を突破し、サービス内では漫画、アバター、ゲームを横断する活発な利用が続いています」
悠は落ち着いた声で、しかし確信に満ちたトーンで答えた。
「ここで御社の持つ強力なIPを我々のプラットフォームへ投入していただければ、アバターアイテムやミニゲームの課金から、既存のパッケージ販売とは全く異なる層へ継続的なアプローチが可能になり、これまでのビジネスモデルを大きく上回る収益が見込めます」
役員は隣に座るライセンス部門の責任者と短い視線を交わした。
「しかし、デジタルでの切り売りは、長年培ってきたブランド価値を毀損する恐れがある。そこをどう担保するつもりかね」
ライセンス部門の責任者が鋭く切り込んだ。すかさず結城が手元の資料を開き、淀みない口調で応じる。
「その点につきましては、ブランド監修の権限を完全に御社へ留保する条項をご用意しております。我々が勝手にデザインや設定を改変することは一切ありません。その上で、利用実績は我々のデータベースからリアルタイムで開示し、御社による第三者監査も随時受け入れます。透明なロイヤリティの分配比率につきましても、こちらの別紙の通りです」
「……条件面については、結城さんからご提示いただいた内容を社内に持ち帰り、前向きに検討させてもらう」
結城の返答に役員は頷き、契約書を手元のファイルに静かに収めた。正式な合意にはまだ社内決裁が必要だが、交渉は確実に前進していた。
ビルを出ると、夏の刺すような日差しとアスファルトの熱気が一気に体を包み込んだ。周囲を行き交うビジネスマンたちが汗を拭いながら歩く中、結城がネクタイを少し緩めて息を吐いた。
「神崎さん。あの感触なら、かなり良いところまでいけるはずです。これでうちのコンテンツの厚みは一気に増す」
「ええ。大手の権利を取れる道筋が見えました。最高の仕事でした、結城さん。大手の権利交渉は結城さんに任せられます。俺は音楽の方で、今のうちに押さえておきたい人がいるんです」
悠は足を止めて振り返り、オフィス街の喧騒から視線を外した。
その言葉通り、悠は数日の間にいくつかの小規模なスタジオや喫茶店を回り、将来性のある若手クリエイターたちと直接面談を重ねていた。
「ゲームのキャラクターを、こちらのアバター規格に合わせて改変するということですか? それは少し……」
個人のウェブサイトで独創的なフラッシュゲームを開発している若い制作者が、テーブルの上で手を組みながら難色を示した。
「いいえ、既存の作品を無理に改変する必要はありません。我々が求めているのはあなたの持ち味そのものです。制作方針への不干渉と、作品の世界観を完全に保つことを契約に明記します。その上で、ネクサスの環境で新作を動かしてみませんか」
悠が即座に条件を調整して伝えると、制作者の表情から警戒の色が薄れ、二週間後に具体的な仕様書を交えて再会する約束を取り付けることができた。
既存の出版流通に乗らない独自の表現を追求する新人漫画家や、個人開発者たちとも同様に対話を重ね、来るべき事業拡大を見据えた協業の可能性を探っていった。
そして数日後。悠は都内の中堅レコード会社が持つ、静かな応接室に座っていた。
向かいのソファに腰を下ろしている女性、神宮寺響。
艶やかな長い黒髪が背中へまっすぐに流れ、透き通るような白い肌によく映えている。深いネイビーのブラウスを身に纏う彼女は、テーブルを挟んで座る悠の言葉の意図を探るように、涼やかな切れ長の瞳を静かに向けていた。
「神宮寺さんの楽曲を、ネクサスのプラットフォームで配信させていただきたいと考えています」
「配信と言っても、私にはこの会社との専属実演家契約があるわ。原盤権も当然、会社が持っているけれど、そこはどうするつもり?」
響が現状の権利の壁を口にする。
「現在のレコード会社との契約を尊重した上で、まずはデジタル配信の許諾範囲を我々が引き受けます」
悠は即答した。
「国内でのデジタル配信による売上分配を明確に設定し、一部を会社に還流させます。さらに数年後のブロードバンド普及を見据え、海外での楽曲利用時にも、あなたとレコード会社に最も有利な条件でライセンスを開放する。そして何より、楽曲のアレンジや見せ方を含め、作品監修の権限は完全に神宮寺さんご本人に留保する条項を設けます」
「なぜ私なの? もっと分かりやすくて、今のチャートで売れているアーティストは他にたくさんいるはずよ」
「重厚なコーラスワークと、民族楽器のアコースティックな響き。そこに冷たいエレクトロニカのビートが重なる。あの世界観は、国内のCDチャートという狭い枠に収めるべきものではない。いずれ動画配信が当たり前になり、世界市場を見据えたダークファンタジー系の映像作品やアニメーションが作られるようになった時、あなたの音楽は必ず世界中で求められます。俺は、その未来の価値に投資したいんです」
響の瞳が、わずかに見開かれた。彼女は瞬きを一つし、探るような視線を解かないまま、ふっと小さく息を吐いた。
「……面白い人」
響の唇から、ふわりと微笑みがこぼれた。
「具体的な数字や権利の話だけじゃなく、音楽の届け方までそんな風に踏み込んでくる人は初めてだわ。ねえ神崎さん、この後お時間ある? もう少しだけ、あなたの頭の中を覗かせてくれないかしら」
仕事の打ち合わせは、そのまま二人での食事へと場所を変えた。
響が指定したのは、路地裏にあるひっそりとした和食の店だった。個室のテーブルに季節の魚のお造りや、色鮮やかな夏野菜の炊き合わせが並んでいる。
響は炊き合わせの冬瓜を口に運び、嬉しそうに目を細めた。
「美味しい。お出汁の引き方がとても丁寧で、優しい味がするわ。……ねえ、少し意外だわ。仕事のお話をしていた時と、ずいぶん雰囲気が違うのね」
「仕事の時は、どうしても数字や権利の条件を詰めることになりますから。こうして美味しいものを前にしていると、自然と気が抜けるのかもしれません」
「そう。なんだか、少し安心したわ。……私は最近、古いヨーロッパの映画ばかり観ているの。光と影の使い方がとても綺麗で。……そういえば、この冬瓜の飾り切りも、すごく繊細で綺麗じゃない?」
「ええ。単に見栄えを良くするためだけでなく、味が中まで染み込みやすくなるように計算して隠し包丁が入れられている。映画のライティングにおいて、見えない影の作り込みが作品全体の完成度を決めるのと同じですね」
映画のライティングの話から、ふいに目の前にある料理の造形へと思考が跳ぶ。響の予測のつかない会話のリズムと好奇心の強さに、悠は的確に言葉を返していく。
やがて、響は料理へ伸ばしかけた箸を止め、まっすぐな視線を悠へ向けた。
「ねえ、神崎さん。デジタル配信で曲が単体で買われるようになると、アルバムという一つの物語を通した音楽体験が失われると思わない? アーティストにとって、それは作品の切り売りよ」
悠は正面から答えた。
「俺もその芸術性は絶対に否定しません。ですが、一曲の持つ力が映像やアニメーションと完全にリンクした時、その爆発力はかつてない規模になります。あなたの音楽は、アルバムという枠を超えて、巨大な映像作品の世界観そのものを構成する一部になる。それは切り売りではなく、新たな表現への拡張です」
「……映像とのリンクが新しい形になるのは分かるわ。でも、それならアルバムという形はどうなるの? 私が考え抜いた曲順を、バラバラにされてしまうのは嫌よ」
響は安易に頷くことなく反論した。
「もちろん、バラバラにはしません。単曲での配信に加え、アルバム単位での配信や曲順の維持、そして作品全体の監修権を契約で完全にあなたへ留保します。映像とリンクする単曲が入り口となり、その熱量のまま、あなたの構築したアルバムの世界へリスナーを誘導する導線を我々が作ります」
響は返答までにすっと間を置き、静かに悠の言葉を反芻していた。やがて彼女は空になったお猪口をテーブルへ置き、ふっと笑みをこぼした。
「いいわ。デジタル展開の構想は魅力的よ。協力することも前向きに考えさせてもらう。でも、レコード会社がすんなり首を縦に振るかしら。まずは彼らをどう口説き落とすか、お手並み拝見させてもらうわね」
店を出て別れ際、響は振り返って悠を見た。
「今日は楽しかったわ。ねえ、今度またお食事でもしながら、神崎さんの好きな映画のお話も聞かせてくれないかしら」
「ええ、喜んで」
その日の深夜。
静まり返ったアパートの自室で、悠は一人、グラスに注いだブルゴーニュの赤ワインをゆっくりと味わっていた。ピノ・ノワールの繊細な果実味が、喉の奥へ流れていく。
グラスの赤ワインを飲み干すと、悠は立ち上がって戸棚から重厚なロックグラスを取り出し、アイラ島のシングルモルトウイスキーを少量だけ注いだ。
そして、大切に保管していたシガーボックスから一本の葉巻を取り出す。
オヨ・デ・モンテレイ・ピラミデス エディシオン・リミターダ二〇〇三。
先端の細くすぼまった部分をシガーカッターで慎重に切り整え、長めの木製マッチを擦る。炎で葉巻の先端を均等に炙ってから、ゆっくりと火をつけた。
ふくよかな煙を口に含み、ゆっくりと吐き出す。熟成されたタバコ葉の甘みと土の香りが舌の上に残る。そこへモルトウイスキーを一口含むと、ピート香が煙の余韻と絡み合い、深く複雑な風味が喉の奥へと広がっていった。
紫煙をくゆらせながら、悠は響との会話を思い返していた。
彼女の懸念を払拭するためには、既存のレコード会社から適切な条件で許諾を引き出す必要がある。明日、まずは結城に、レコード会社との契約において「楽曲の単体配信とアルバム単位配信の許諾範囲」をどこまで確保できるか、既存契約の隙間を洗い出させるよう指示しよう。
悠は煙を深く吸い込み、思考を研ぎ澄ませていった。
翌日の午前。
悠がオフィスに出社すると、成瀬が険しい表情でデスクから立ち上がった。
「神崎さん。少し厄介なことになりました」
「どうしました?」
成瀬は自分のモニターを悠へ向けた。
「うちをそっくり真似た携帯サービスが現れました。インターフェースも、システムの挙動も、かなり巧妙にパクっています。単なるデザインの模倣ではなく、漫画からアバターへの回遊導線や、掲示板への誘導経路まで徹底的に分析されている形跡があります」
画面には、ネクサスの構造をあからさまに模倣したサイトが表示されていた。悠は画面を無言で見つめ、アバターからミニゲームへと繋がる導線の作り込みを確認した。
「……なるほど。成瀬さん、このサイトが公開された正確な時期と、運営会社は分かりますか?」
悠は静かに尋ね、次の一手へ向けて思考を切り替えた。




