第29話 10万人
八月初旬。
外の暴力的な日差しを遮るようにブラインドが下ろされたネクサスのオフィスで、悠は大型モニターに表示された登録者カウンターを静かに見つめていた。
室内の空調はフル稼働しており、冷たい空気が循環している。それでもなお、フロアの空気はどこか特有の熱を帯びていた。奥のラックに収められたサーバー群の冷却ファンが発する低音と、数人のスタッフが規則正しくキーボードを叩く乾いた音が、途切れることなく響き続けている。
夏祭りの大型更新以降、登録者の増加は八月に入っても続いていた。
悠のデスクに置かれた別のモニターで流れるアクセスログの波は、複数のサービスを横断しながら太く、確かな導線を描き出している。公式漫画の特別エピソードを読み終えたユーザーがアバターショップへ向かい、さらに期間限定のミニゲームへと流れる。その途切れない動きが、目に見える数字の束となってリアルタイムで可視化されていた。掲示板の書き込み速度も、更新直後のピークに近い勢いを保っている。
画面の端で、カウンターの数字が小気味よく跳ね上がっていく。
九万九千九百九十五、九十六、九十七、九十八……。
そして、カウンターが真新しい大台を刻んだ。
十万。
桁が一つ増えた数字が、画面上で静かに点滅している。
「成瀬さん、負荷の方はどうですか」
悠が自席から声をかけると、成瀬は四枚のモニターに展開されたサーバーの稼働グラフから目を離さずに答えた。
「問題ありません。ピーク時も想定内です。追加した設備にも、まだ十分に余裕があります」
「良かった。あの時、増強を前倒しして正解でしたね」
悠の言葉に、成瀬はキーボードを叩く手を止め、わずかに口元を緩めた。
「ええ。これなら、さらにトラフィックが跳ねても十分に捌き切れます。データベースの書き込み遅延も起きていませんし、各サービス間の連携処理も安定しています。これだけユーザーが長時間滞在してアクティブに動いているのに、システムが静かなのは気持ちがいいですね」
成瀬はそう言い残すと、再びコンソール画面へと向き直り、運用監視の作業に戻った。
入れ替わるようにフロアの奥から、結城がクリアファイルを小脇に抱え、足早に近づいてきた。いつもより少し早口だった。
「神崎さん。先ほどから、立て続けに問い合わせの電話が入っています」
結城は悠のデスクの脇に立ち、手にしたファイルをわずかに持ち上げた。
「これまで何度こちらからアプローチしても、担当者にすら繋いでもらえなかった企業からです。中には、誰もが知るような大手コンテンツホルダーのライセンス部門も含まれています。以前は『担当者不在』で一方的に電話を切られていた相手が、今回は向こうからスケジュールを調整したいと連絡してきました」
結城は、手元のファイルへ視線を落とした。
「彼らも独自にアクセスランキングやユーザーの動向を調査しているのでしょう。うちの数字の伸びが、確実に業界内で無視できない規模になり始めています」
悠は小さく息を吐き、モニターから視線を外した。
「責める必要はありません。向こうも商売ですからね。結城さん、提案資料は?」
「準備できています。以前こちらが提示した最低保証額も、この利用実績の伸びなら、見直す余地がありそうです」
結城はファイルを開き、事前に作成しておいた数パターンの契約雛形を示した。整然とまとめられた資料には、交渉のテーブルで提示すべき条件が的確にリストアップされている。
「そうですね。ただ、利用実績の開示条件は譲れません。そこは従来通りでお願いします」
「承知しました。先方の要求も詳細に確認しておきます。ようやく、本腰を入れた交渉ができそうです」
結城は力強く頷くと、ファイルを抱えて自席へ戻った。彼の背中からは、実務的な交渉へ向けた静かな闘志が感じられた。
数日後の夕方。
仕事を終えてアパートに戻った悠は、ネクタイを緩めて小さく息を吐いた。
狭いキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。中にあるのは、使いかけの豚バラ肉、半玉残ったキャベツ、中途半端な大きさのニンジン、そして玉ネギが一つ。
シャツの袖を捲り上げると、悠は包丁を手に取った。
トン、トン、とリズミカルな音が室内に響く。豚肉を均等な厚みで食べやすい大きさに切り分ける。キャベツは火の通りを均一にするため、柔らかい葉の部分と硬い芯の部分を丁寧に切り分けた。ニンジンは食感を残すために細切りにし、玉ネギは甘みを引き出すために繊維に沿って薄切りにする。
コンロの火をつけ、よく熱したフライパンに少量の油を引く。そこへ中華蒸し麺を広げ入れ、すぐにはほぐさず、しばらくそのまま動かさずに待つ。ジューという小気味良い音とともに、油がはぜる。鍋肌に触れた麺の表面に香ばしい焼き色がついていく。カリッとした食感が生まれたところで、麺をいったん皿へ取り出した。
再びフライパンを強火にかけ、今度は豚肉を炒める。豚肉から溶け出す上質な脂の旨味を十分に引き出してから、火の通りにくいニンジンの細切り、キャベツの芯、玉ネギの順に加えていく。強火で一気に煽り、野菜から出る余分な水分を飛ばしていく。フライパンを振るたびに、鮮やかな色彩が宙を舞い、食材の香りが立ち上る。豚肉の脂がキャベツの葉に絡み、ニンジンの赤色が鮮やかに際立つ。
野菜に鮮やかな色が戻り、シャキシャキとした歯応えが残っている絶妙なタイミングを見計らい、取り出しておいた麺を戻し入れた。全体を手早く混ぜ合わせ、仕上げに中濃ソースをフライパンの鍋肌へ沿うように回しかける。
熱された鉄肌に触れたソースが瞬時に焦げ、濃厚で香ばしい香りがキッチンいっぱいに弾けた。熱で香りを立たせながら、手早く全体へ絡めていく。麺を皿に盛ると、焼きつけた表面からソースの香ばしい匂いが立ち上った。
並行して、コンロのもう一口では煮物を作っていた。
高野豆腐をぬるま湯に浸して丁寧に戻し、両手で挟むようにして水気を軽く絞ってから、均等な大きさに切り分ける。
小鍋には、上質な昆布と鰹節から引いた澄んだだしが用意されていた。そこへ少量の砂糖、みりん、薄口醤油を合わせる。切り分けた高野豆腐を静かに沈め、木製の落とし蓋をし、火を弱める。煮汁が小さく泡立つ程度に保ちながら、ゆっくりと高野豆腐へ味を含ませた。火を止めてしばらくそのまま置き、温度が下がる過程でさらに煮汁を含ませてから器に盛った。
小さなテーブルに、湯気を立てる焼きそばと、高野豆腐の煮物を並べる。
ソースの強いパンチ力と野菜の歯応えを楽しみ、合間に高野豆腐を口に含めば、噛むたびにジュワッと溢れ出すだしが、口の中をさっぱりと洗い流してくれた。
焼きそばを平らげ、高野豆腐の最後の一切れを口に運んだ悠は、冷たいお茶を飲み干して箸を置いた。
食器を片付け、悠は食後の一服を楽しんだ。
窓を開けて換気扇を回し、灰皿を手元に引き寄せて煙草に火をつける。
煙を細く吐き出しながら、悠はふと雫の笑顔を思い出した。
先日の休日、喫茶店で好きな映画の話をしていた時のことだ。静かなジャズのBGMが流れる店内で、コーヒーの香りに包まれながら、彼女は身振り手振りを交えて語っていた。
画集を真剣な眼差しで眺めている時とはまた違う、楽しそうな表情が妙に印象に残っている。淡いブルーのサマードレス姿で、映画のライティングやカメラワークについて熱心に語る彼女の瞳は、強い熱を帯びていた。共通の好みを語り合う中で見せた、あの無防備な笑顔。
悠はもう一口煙を吸い、灰皿に灰を落とした。
短くなった煙草をもみ消し、悠は立ち上がって窓を閉めた。
翌日の午後。
ネクサスのオフィスに戻り、デスクで資料に目を通していた悠のもとへ、結城が足早に近づいてきた。
「神崎さん。決まりましたよ」
結城は声を潜め、しかし確かな熱を帯びた声で告げた。
「例の、これまで何度アプローチしても獲得できなかった有力コンテンツ企業との商談です。ついに、向こうの役員クラスが直接会いたいと言ってきました」




